藤枝蕗は逃げている

木村木下

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十六歳

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 月光百合の花びらを煮詰めると、黄金色のとろりとした液体になった。小瓶に詰め、次の日仕立て屋へと持っていく。戸を叩いても最初はだれも出てこなかったが、半刻ほどしつこくたたきつけるとやつれた顔の主人が顔を見せた。俺を見ると、かすれた声で「ああ、お前さんか。悪いが、今店は閉めているんだ」と言う。頷き、主人から持たされた傷跡に効く薬だと小瓶を差し出す。受け取った主人は、しかし嬉しくなさそうだった。顔は真っ青で、いつもは気を使って香油で固めていた前髪は無造作に解けてしまっている。髭も伸びっぱなしだった。
「ああ、ありがとう。親切に……」
 なんとか笑おうとした唇が、ぶるぶると震え、とうとう耐えきれず仕立て屋の主人は肩を震わせた。流れた涙がかさついた頬を通り、髭を濡らす。彼は小瓶を握ったこぶしで目元を抑えた。
「みんな親切にしてくれるが……、すまない、どうしても治らないんだ。ずいぶん無理をして薬も買ったが、傷は膿んでひどくなるばかりで……、どうにもしてあげられず、娘が不憫でならない」
 父親の姿に胸が痛み、俺は彼の肩を指先でそっと撫でた。
「あなたも看病で疲れているのだと思います。なにか体に良いものを食べて、ゆっくり寝てください。そんなふうにやつれては、娘さんはもっと悲しくなってしまうでしょう」
 こういうとき、猛烈にもっと話すのが上手くなりたいと思う。なぜ教科書の例文のような話し方しかできないのか? 俺は彼に市場で売ろうと思っていた果実をいくつか渡し、娘や妻と食べるように家の中へと背中を押した。ふらふらとした足取りで男が中へ入っていく。
 娘の傷跡に、薬が効くといい、治りはしなくてもせめて膿が出なくなればいい。そう願いながら仕立て屋から離れた。


 帰りになじみの宿屋へ行くと、女将が料理の下拵えをしているところだった。王都へ初めて来た日の夜、泊まった宿だ。勝手口から入り、女将の近くに狩った獣の肉と数枚の銀貨が入った袋を置く。女将は野菜の皮をむきながら「フキちゃん、また来てくれたのね」と笑った。袋を開き、中に銀貨が入っているのを見ると困ったように眉を下げ、俺のズボンのポケットに銀貨を押し込んで返す。
「もう、またお金なんて持ってきて。いつもいらないって言ってるでしょう」
「助けてもらった恩を返したいので、受け取ってください」
「お肉をくれるだけで十分よ。それに、本当はお肉だってもってこなくていいの。今日はローランはいないの? あなた達が遊びにくるだけでうれしいわ」
「ローラン様は家にいらっしゃいます」
 久しぶりに行きたがっていたが、先にうさぎたちと約束してしまっていたらしい。残念そうにしていらっしゃったので、次来るときはお連れしようと思っている。女将は奥から皿をいくつか出すと、作っていた料理をいくつか詰めて持たせてくれた。かごに入れて礼を言う。彼女のヤギ肉を使った煮物がローラン様の好物だった。
「大家さんはいますか? 」
「今日はまだ来てないの。最近、また腰が痛むみたい。重たいものが買えなくて不便だと昨日もそこで文句を言っていたわ」
 女将は笑いながら話した。大家の老人は妻に先立たれ一人暮らしなので、この宿の食堂で食事をとっている。昼か夜のどっちかに来て、他の時間は持って帰った料理を食べているらしい。俺は今日の分の大家の飯を買い、それを持って少し離れたところにある石造りの建物を訪ねた。
 宿屋や食堂が軒を連ねる通りでは、木造の建築が多いので老人の家は目立った。入口のベル三回を鳴らし、心の中で十を数えてから合い鍵を使って中に入る。老人は居間にいた。木の椅子にすわってぎろりと俺を睨む。
「ふん、また来たのか」
 と言われたが、久しぶりだった。流行り病の間はお互いの身を守るため家の前に荷物を置き、会うのを避けていたのだ。彼に言ったら殴られまくるだろうが、俺は老人が病にかかったら間違いなく死んでしまうと思って怖かった。
「女将から料理をもらってきました。腰が痛むと聞いたので、買い出しに行ってきます」
「いらん世話をしおって」
 彼は素直ではないので、いつも嫌がるふりをした。が、これはいくらなんでも安すぎる家賃の代わりなので、俺は義務だと思っていくら嫌がられようと必ずやる。簡単に大家の身の回りの世話をし、掃除や片づけをすると、重くて持てないだろう小麦や酒を買ってくる。帰りに薬屋で湿布を買い、老人の腰に張った。曲がった腰の皮膚はたるんでいて、触れると柔らかい。彼を見ると、俺は自身の祖父を思い出した。まだ日本にいた頃すでに老人だったので、もし今会えたとしてもそうとうよぼよぼだろう。でも、すごく会いたかった。


 次にローラン様と王都へ行くと、仕立て屋が店を開けていた。東部の生地屋に行かなくても良いとうれしくなって、すぐに店に入る。俺の顔を見ると、仕立て屋の主人は音を立てて店の奥から出てきた。ものすごい勢いで抱き着かれ、思わず後ろへよろける。ローラン様は目を丸くしていた。
「ありがとう! 」
 仕立て屋の体は大きかった。俺はなんとか足を踏ん張って彼の体を受け止める。すぐに体が離れ、彼は眼鏡の下のうるんだ目を擦った。
「来てくれるのを待っていたんだ。君にお礼が言いたくて、ああ、ちょっと待っていてくれ。娘を呼んでくるから」
 そういって店の奥、居住空間がある方へと入っていく。すぐに若い娘が出てきて、彼女は俺をみるとにっこりと笑った。榛色の髪を若草色のリボンで結んだ、美しい少女だ。思わず頬が赤くなる。彼女の顔は美しかった。肌はつるんとしていて、あばたの見る影もない。
「君にもらった薬がよく効いて、なんとお礼を言ったらいいかわからない。本当にありがとう」
 仕立て屋は何度も礼を言った。娘も頭を下げて俺に感謝を示した。どもりながら、薬を作ったのは俺ではなく、主君であるローラン様だと言う。隣を示すと、彼らはこの美しい少年に初めて気づいたというように目を丸くした。
 髪を結いあげ、新緑の外套を身にまとった俺の主人は、まさに貴公子といういで立ちだった。彼は仕立て屋たちの視線が自分に向くと、少し照れたように笑って、白い歯を見せながら「こんにちは」と言った。
 彼らは膝をついてローラン様の手を握ると、何度も礼を言った。病によって破談寸前になっていた娘の婚約も、無事に結婚へと話を進められているらしい。
 仕立て屋を出ると、ローラン様は外套のフードを被り、俺に向かって「傷が治って良かったね」と言った。頷く。彼らは結婚式にぜひ来てほしいと言っていた。結婚式は初めて行くが、なにを着ていくのが普通だろうか。楽しみだ。


 森の中で、俺は逃げていた。狩りの途中だ。弓を背負った格好で、必死に木々の間を通り抜ける。鹿を射ようと歩いていたら、大型の猪と鉢合わせてしまったのだ。敏感にこちらを察知し駆けだした猪から、弾かれるように逃げ出す。単純な足の速さでは当然敵うべくもない。俺の経験上、猪から追われた時は川の向こうへ行くか、崖から落ちる必要がある。
 全力で走っているうち、木の枝が頬や首に細かい切り傷をつける。手前にある茂みの向こうは、崖だったはずだ。骨は折れるかもしれないが、他に方法がない。覚悟を決め、速度を落とさずに崖へと突っ込む。身を投げ出そうと地面を強く蹴った時だった。
 茂みの中から腕が伸び、俺の体を絡めとって抱き寄せる。驚きに心臓が止まるかと思った。力強い腕の持ち主は俺を低木の間に優しく座らせると、ひらりと茂みから出て手に持っていた弓を構えた。矢を番え、突進してくる猪に向かって射る。一直線に飛んで行った矢は猪に命中し、大きな音を立てて巨体が倒れた。
 豊かな金髪を風になびかせ、余裕の笑みを見せる美しい青年。ローラン様は弓を下ろすと茂みに足を入れ、俺の手を取って立つのを手伝ってくださった。長い指が髪についた葉をとってくれる。
「頬に怪我をしているね」
 十六歳になったローラン様は、すっかり声変わりした低く艶のある声で話した。間抜けなところを見られて、恥ずかしかった。ないとわかっていつつ怪我がないかと聞くと、ローラン様は明るく笑って頷いた。
「今日は鹿肉だとおもったのに、フキはもっと大物を持ってきた」
 持ってきたわけではないが、俺の語彙ではうまく言い返せなかったため仕方なく頷く。ローラン様は優しく微笑んで、腰元の剣を抜いて猪の腹を裂き、血を抜いた。彼は狩りも上手かった。
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