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アイスキャンディーと恋の関係
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急いで家路につく。
汗が肌とシャツにこびり付いていた。
透けるからジャケットさえ脱げない。
本当なら、一杯誰かと飲んでグチれればいいのだが、哀しいがな、この御曹司の秘書という立場、どこに産業スパイがいるかもしれないなか、同僚にも友人にも自分のストレスをいう相手があまりいない。何人かの女友達もいるが、皆家庭が忙しい。この時間帯に呼びつけることはいくらなんでも失礼だ。それにこれはかなりの社長のプライベートが加わる。言える事が少な過ぎると気がついた。
これは仕方がない。
うちに帰って、我が愛読書たちに癒されるしかない。
そう考えると、ちょっとテンションが上がって家に帰るのが楽しくなってきた。
帰り道、コンビニに寄り道した。
何となく、今日思い出した子供の頃によく食べたアイスキャンディーを暑さ凌ぎのために選んだ。
人工的な青色が懐かしい。
気怠そうに「ありがとうございました」と言った学生っぽい店員に、思わずこっちの方がよっぽど気を遣った作り笑いを返した。意味はあまりないけど、その若い男に何か嫌な事があったのだろうかと想像する。他の商品、ビールとツマミを持って去ろうとした。
密かにちょっとアルコールに強くなろうと努力はしている。
あの子はネコだな。
それだけで何か気が済んだ。
「……すいません」
いきなりコンビニの彼は呼び止めてきた。
まずい。禁断の三次元の想像をしてしまったから、それがばれてしまったのだろうかと焦った。
「……お釣りを忘れています」
なにかバツが悪くなる。
頭を下げてお釣りをもらうが、視線に気がついた。
あちらがハッとしている。考えてみたらすでに自分はアイスキャンディーをすぐに開封し、口に含んでいた。
かなりの絵図だ。口にアイスキャンディーを咥えたスーツ女だ。
今度は自分が完全に分が悪かった。
急いでコンビニの自動ドアへと急ぐ。熱気が頬を這っていく。
昔は夏が嫌いだった。嫌な思い出を蘇えさせるから。時に蝉が苦手で…仕方がなかった。
でもいつのまにか毎夏に訪れてくれる幼馴染の存在が自分の夏のイメージを塗り変えてくれた。夏は、次第に彼のカッコいい姿を思いださせてくれた。
蚊取り線香のにおい、扇風機の音、からりと鳴るグラスの中の氷。
そして、シャツの襟もと、優しい面影。
よかった。彼に失恋したのが……春で。夏をもう嫌な季節にしたくなかった。彼とはコンビニの青年ではない。今の上司、木原海斗だ。かなり前の話だけれども。
そう素直に思っていると、思わず自動ドアの出口先でコケそうになった。五センチパンプスは未だ履きなれない。
運悪くドアがまた開いて、目の端にコンビニの彼が、ぶっと笑っていたのが見えていた。
恥ずかしくて頬が赤くなるが、ある意味よかったと思う。
あの青年はきっと無様な自分の姿を見て楽しい気分になってくれただろう。
道化役に徹するのは得意だ。
早足でそこを立ち去る。
悲しくしている人を見るのは苦手だ。それを見るのも嫌。するもの嫌。つまり、なんてことのない小心者。だってそれは自分が傷つきたくないという恐怖感の裏返し。
まあ自分の気の弱さに呆れながら外に出る。蛍光灯の色を身体には浴びながら苦笑した。
人工色がなぜか心地いい。
見せかけだらけの自分に相応しい。
でも見せかけといえば、あることを思い出した。
アイスキャンディーが口の中で溶解する。唇に当たるアイスの冷たさが気持ち良い。何かが自分の中で溶け出していく。
甘ったるラムネ味だ。ちょっと熱気が強いせいか溶けるスピードが予想以上に早い。
頭がキーンとするのが怖いと思いながらも、急いで食べていく。
それでも、なんだか後味がスッキリしない。
子供の頃はあんなに食べ飽きるくらい食べたのに、大人になって食べてみると一個で十分な味かなと思った。
あの頃は何本でもいけそうだと思った味も大人になると違った味に感じる。
まだ溶け残っているアイスキャンディーを口にくわえながら考える。
そういえば、木原社長に心から笑いかけたのはいつのことだろうと思った。そして、微笑みかけられたのも……。
胸の奥に小さな、でもシャープな痛みを覚えた。
社長は自分が彼の元で働き始めてから、そっけない素振りを見せた。ビジネススーツがキリッと決まった彼の自信溢れる態度に圧倒されていた自分は、彼に幼馴染としての冗談を一言でも言いたかった。でも自分の言葉には、彼から何か冷たい返事しかかえってこなかった。幼馴染としての馴れ馴れしさは一瞬で消え去ったような気がした。
連絡事項ばかりがお互いの日常会話になり変わる。
それが、秘書と社長の立場の距離なんだと気がつくまでしばらくかかった。あの海斗が……ここまで変わるとは正直言って全く想像しなかった。自分が二年間海外に留学している間に、彼は立派な若き経営者になっていた。
毎回就社の自分は、髪の毛をきちんと結い上げ、後れ毛の出ないようにムースで固めている。一度高校でばっさりと切った髪だがまたズルズルと伸ばしてしまった。秘書だったら、もうちょっと色気があったほうがいいじゃないかと言う兄の言葉を無視して、一応、働いている女性から強く支持されているブランドの黒上下のジャケットとパンツ姿だ。化粧もかなりの手薄だ。それを感じさせない程度にはごまかしていると思っている。下手に三十路になりかけていない。業務には支障がない。働く男性にとってスーツが戦闘服なら、働く女性にとってはスーツは舞台衣装だ。決してスーツは自分を守ってはくれない。でも、会社という社会の窓口という舞台で、自分という役を演じるには相応しい。
傷つきやすい幼い自分を隠して、出来る女を演じるだけ。
自分はそういう演技は下手だと思っている。もっとすごい人もいるはずだ。
家ではボロのジャージ姿のボサボサ頭。それが本来の自分だ。会社の近くには住まない。なぜなら、そんな姿でコンビニに行く休日の姿を見られたくない。それに、会社の近くは家賃が高すぎた。
友達は多くない。それに、仲間作りが特技、みたいな兄の慶太と一緒にいると自分の凹みグセが習慣となる。いないわけではないが、最近は皆結婚してしまい、産休やら育児に専念でなかなか時間を一緒に過ごせない。
人を招けない自分のアパートにはピンクや花柄の年に合わないものと一緒に、かなり過激な愛読書が混じっている。
目下の最近の趣味は漫画や小説のカバーでどっちがネコかタチか当てること。ネコとも称される受けは、つまり男同士の関係で女の子役の方。タチは、攻めともいい、名前通り男役だ。
だから、自分の家は誰にも教えていない。
まさかこんなボロアパートに住むのが会社にバレると困るので、一応住所は兄の方を使わせてもらっている。
海斗でさえもこのアパートの住所は知らない。そう兄にお願いしている。幼馴染と上司という線を自分で引きたかったから。
幼馴染としての顔を覗かせて、急に来られたら……と考えるだけで冷や汗がでる。
BL関係のものが散らばっているのだ。本当に困る。
正直、自分がいきなり死んでしまったら、これらの処分を兄にやらせるのはちょっと申し訳ないとも思ってしまうほどのコレクションだ。
ああ早く。誰かと結婚して、この趣味から卒業しなくてはと思っていた。
なぜなら、父に花嫁姿でなくて、兄に花嫁姿を見せてあげたいと思っているからだ。ただ問題は、小学生のときの嫌な体験から、どうやら男性らしい男性らしいは好きになれないと気がついた。興味があるのは二次元だけ。三次元の男子は色んな意味で怖かった。身体が大きい屈強そうな男は苦手だった。ただ恐怖に近い不快感しか感じないのだ。
ただ海斗だけは小さな頃のあの美少女時代を知っているから大丈夫だ。
あと、もう一人ほのかな恋心を寄せた人もゲイだった。
正直、結婚できる自信がない。
なぜか慶太の夢は昔からきっちりと自分を嫁入りを兄として見届けることと言っている。それがすまないと自分も身を固めることはないと宣言していた。
昔は「……慶兄ちゃん! シスコン」と言いながらも嬉しかった。
だが、最近は兄の老老介護になってしまうのではないかと焦ってくる。
兄には幸せになって欲しいのだ。
でも時より慶太に、「私、お嫁にいく自信がない」と言った。趣味のせいで三次元の男性とプライベートでお話する機会もないし、お見合いを勧められるような家柄でもない。強いて言えば、英語とタイピンクがまあ自慢できるぐらいだ。しかも、二次元以外の男らしい異性がかなり苦手である。彼らが何かしらの性的対象として自分を見だしたら、怖いと言う気持ちだけが先走る。同僚や友達はいい。もちろん、慶太もそうだ。
「なんだ。行きたくないなら行かなくてもいい」と彼は言う。
「いや、行きたくないじゃなくて、行けなさそうって言っているの」
「…ごめん。俺にはよくわからない。それってもしかして女心ってやつか?」
「…」
半分当たっているが、慶太とはなかなか合意ができなかった。話の根本が合わないのだ。でも、なぜ自分が男らしい男の人が苦手と言うことは慶太には言えなかった。彼にこれ以上自分を責めて欲しくなかったからだ。
彼はいつも「お前はすぐに嫁にでも行けるよう、今しかできないことを十分存分やっておけよ。結婚したら、そんな時間ねえぞ」っと口癖で言うのだ。
したいことはしている。
奨学金をもらえたとしても少しの借金は残っている。
それを少しずつ返済しながらの生活だ。
仕事も今まで順調だったし、好きなBLも買える生活だ。
だから、この歩くだけでカンカンとチープな金属音がする階段のアパートは別に悪くはないのだ。
ただあの昼間に見せている自分の顔とはあまりにも違うだろうと言う境遇は、まるでこの人工的な味で閉められているアイスキャンディーのようだった。
夏の始まりが今年は早いせいか、ムッとくる様な熱気が外には立ち込めていた。
人工的な光が反射するアスファルトの道を歩きながら自問する。
そう。
何か熱の籠もったような視線を社長から受けて、何か胸のあたりがざわざわしていた。
お願いだからってあんな表情…。
小学生の時の学級文集を偶然発見してしまった感覚だ。
どこかに置いてきたはずの過去の想いがまた再燃しそうだった。
胸騒ぎを落ち着けるかのように、カバンの中に持っていた申込書を先ほどコンビニにまで戻りポストで投函した。
先ほどの無愛想だった店員が何事かという風にハッとした表情で見ている。その顔つきに、やはりネコだと考えを落ち着かせてそこを立ち去った。彼の驚きはわかる。なかなか最近は郵便自体を使う人が少ないかもしれない。年賀状でさえSNSで済ませてしまう友人が多い。
本当はネットで申し込みでもいいのだ。ワンクリックで入会だ。ただ自分の気持ちを落ち着かせるには、少し時間がかかる郵便に頼りたかった。誰かが実際の郵便を英語ではsnail mailなんだよっと言っていたのを思い出した。
snail、つまりカタツムリ郵便だ。それくらいゆっくりに時間がかかるということだ。でも都内への郵便だから、残念だが明日にはついてしまうだろうともわかっている。
「婚約者か…」
本当にそうだったらいろんな意味で関係が複雑すぎる。
もちろん真の偽婚約者ということでだ。
うちの幼馴染み、そして上司でもある御曹司の木原海斗は多分同性愛者なのだ。
幸か不幸か、彼はうちの兄、島崎慶太にずっと片思いをし続けている。
そして、そんな兄に片思いをしている幼馴染にずっと恋しているのが自分なのだ。
ゲイばかりに恋に落ち続ける自分を呪いたかった。
不毛過ぎる。
そんな一方通行の切なく甘ったるい片思いは十代ならお似合いだ。
だが三十を手前にそんなことを言えるだけの時間も体力も自分にはなんだか残されていない様な気がした。
指に絡みつく様に溶けていく甘いシロップを舐める。
ちょっと甘すぎてお茶でもかっとけば良かったと後悔した。
まるで時間切れを告げているように溶け出したアイスキャンディーは、やっぱり後味が悪かった。
早く自分のアパートに帰りたくて、足を早めていた。
汗はまだ肌に媚びりついていた。
まさか今晩があんな長い夜になるとは、全く予想だにせず。
汗が肌とシャツにこびり付いていた。
透けるからジャケットさえ脱げない。
本当なら、一杯誰かと飲んでグチれればいいのだが、哀しいがな、この御曹司の秘書という立場、どこに産業スパイがいるかもしれないなか、同僚にも友人にも自分のストレスをいう相手があまりいない。何人かの女友達もいるが、皆家庭が忙しい。この時間帯に呼びつけることはいくらなんでも失礼だ。それにこれはかなりの社長のプライベートが加わる。言える事が少な過ぎると気がついた。
これは仕方がない。
うちに帰って、我が愛読書たちに癒されるしかない。
そう考えると、ちょっとテンションが上がって家に帰るのが楽しくなってきた。
帰り道、コンビニに寄り道した。
何となく、今日思い出した子供の頃によく食べたアイスキャンディーを暑さ凌ぎのために選んだ。
人工的な青色が懐かしい。
気怠そうに「ありがとうございました」と言った学生っぽい店員に、思わずこっちの方がよっぽど気を遣った作り笑いを返した。意味はあまりないけど、その若い男に何か嫌な事があったのだろうかと想像する。他の商品、ビールとツマミを持って去ろうとした。
密かにちょっとアルコールに強くなろうと努力はしている。
あの子はネコだな。
それだけで何か気が済んだ。
「……すいません」
いきなりコンビニの彼は呼び止めてきた。
まずい。禁断の三次元の想像をしてしまったから、それがばれてしまったのだろうかと焦った。
「……お釣りを忘れています」
なにかバツが悪くなる。
頭を下げてお釣りをもらうが、視線に気がついた。
あちらがハッとしている。考えてみたらすでに自分はアイスキャンディーをすぐに開封し、口に含んでいた。
かなりの絵図だ。口にアイスキャンディーを咥えたスーツ女だ。
今度は自分が完全に分が悪かった。
急いでコンビニの自動ドアへと急ぐ。熱気が頬を這っていく。
昔は夏が嫌いだった。嫌な思い出を蘇えさせるから。時に蝉が苦手で…仕方がなかった。
でもいつのまにか毎夏に訪れてくれる幼馴染の存在が自分の夏のイメージを塗り変えてくれた。夏は、次第に彼のカッコいい姿を思いださせてくれた。
蚊取り線香のにおい、扇風機の音、からりと鳴るグラスの中の氷。
そして、シャツの襟もと、優しい面影。
よかった。彼に失恋したのが……春で。夏をもう嫌な季節にしたくなかった。彼とはコンビニの青年ではない。今の上司、木原海斗だ。かなり前の話だけれども。
そう素直に思っていると、思わず自動ドアの出口先でコケそうになった。五センチパンプスは未だ履きなれない。
運悪くドアがまた開いて、目の端にコンビニの彼が、ぶっと笑っていたのが見えていた。
恥ずかしくて頬が赤くなるが、ある意味よかったと思う。
あの青年はきっと無様な自分の姿を見て楽しい気分になってくれただろう。
道化役に徹するのは得意だ。
早足でそこを立ち去る。
悲しくしている人を見るのは苦手だ。それを見るのも嫌。するもの嫌。つまり、なんてことのない小心者。だってそれは自分が傷つきたくないという恐怖感の裏返し。
まあ自分の気の弱さに呆れながら外に出る。蛍光灯の色を身体には浴びながら苦笑した。
人工色がなぜか心地いい。
見せかけだらけの自分に相応しい。
でも見せかけといえば、あることを思い出した。
アイスキャンディーが口の中で溶解する。唇に当たるアイスの冷たさが気持ち良い。何かが自分の中で溶け出していく。
甘ったるラムネ味だ。ちょっと熱気が強いせいか溶けるスピードが予想以上に早い。
頭がキーンとするのが怖いと思いながらも、急いで食べていく。
それでも、なんだか後味がスッキリしない。
子供の頃はあんなに食べ飽きるくらい食べたのに、大人になって食べてみると一個で十分な味かなと思った。
あの頃は何本でもいけそうだと思った味も大人になると違った味に感じる。
まだ溶け残っているアイスキャンディーを口にくわえながら考える。
そういえば、木原社長に心から笑いかけたのはいつのことだろうと思った。そして、微笑みかけられたのも……。
胸の奥に小さな、でもシャープな痛みを覚えた。
社長は自分が彼の元で働き始めてから、そっけない素振りを見せた。ビジネススーツがキリッと決まった彼の自信溢れる態度に圧倒されていた自分は、彼に幼馴染としての冗談を一言でも言いたかった。でも自分の言葉には、彼から何か冷たい返事しかかえってこなかった。幼馴染としての馴れ馴れしさは一瞬で消え去ったような気がした。
連絡事項ばかりがお互いの日常会話になり変わる。
それが、秘書と社長の立場の距離なんだと気がつくまでしばらくかかった。あの海斗が……ここまで変わるとは正直言って全く想像しなかった。自分が二年間海外に留学している間に、彼は立派な若き経営者になっていた。
毎回就社の自分は、髪の毛をきちんと結い上げ、後れ毛の出ないようにムースで固めている。一度高校でばっさりと切った髪だがまたズルズルと伸ばしてしまった。秘書だったら、もうちょっと色気があったほうがいいじゃないかと言う兄の言葉を無視して、一応、働いている女性から強く支持されているブランドの黒上下のジャケットとパンツ姿だ。化粧もかなりの手薄だ。それを感じさせない程度にはごまかしていると思っている。下手に三十路になりかけていない。業務には支障がない。働く男性にとってスーツが戦闘服なら、働く女性にとってはスーツは舞台衣装だ。決してスーツは自分を守ってはくれない。でも、会社という社会の窓口という舞台で、自分という役を演じるには相応しい。
傷つきやすい幼い自分を隠して、出来る女を演じるだけ。
自分はそういう演技は下手だと思っている。もっとすごい人もいるはずだ。
家ではボロのジャージ姿のボサボサ頭。それが本来の自分だ。会社の近くには住まない。なぜなら、そんな姿でコンビニに行く休日の姿を見られたくない。それに、会社の近くは家賃が高すぎた。
友達は多くない。それに、仲間作りが特技、みたいな兄の慶太と一緒にいると自分の凹みグセが習慣となる。いないわけではないが、最近は皆結婚してしまい、産休やら育児に専念でなかなか時間を一緒に過ごせない。
人を招けない自分のアパートにはピンクや花柄の年に合わないものと一緒に、かなり過激な愛読書が混じっている。
目下の最近の趣味は漫画や小説のカバーでどっちがネコかタチか当てること。ネコとも称される受けは、つまり男同士の関係で女の子役の方。タチは、攻めともいい、名前通り男役だ。
だから、自分の家は誰にも教えていない。
まさかこんなボロアパートに住むのが会社にバレると困るので、一応住所は兄の方を使わせてもらっている。
海斗でさえもこのアパートの住所は知らない。そう兄にお願いしている。幼馴染と上司という線を自分で引きたかったから。
幼馴染としての顔を覗かせて、急に来られたら……と考えるだけで冷や汗がでる。
BL関係のものが散らばっているのだ。本当に困る。
正直、自分がいきなり死んでしまったら、これらの処分を兄にやらせるのはちょっと申し訳ないとも思ってしまうほどのコレクションだ。
ああ早く。誰かと結婚して、この趣味から卒業しなくてはと思っていた。
なぜなら、父に花嫁姿でなくて、兄に花嫁姿を見せてあげたいと思っているからだ。ただ問題は、小学生のときの嫌な体験から、どうやら男性らしい男性らしいは好きになれないと気がついた。興味があるのは二次元だけ。三次元の男子は色んな意味で怖かった。身体が大きい屈強そうな男は苦手だった。ただ恐怖に近い不快感しか感じないのだ。
ただ海斗だけは小さな頃のあの美少女時代を知っているから大丈夫だ。
あと、もう一人ほのかな恋心を寄せた人もゲイだった。
正直、結婚できる自信がない。
なぜか慶太の夢は昔からきっちりと自分を嫁入りを兄として見届けることと言っている。それがすまないと自分も身を固めることはないと宣言していた。
昔は「……慶兄ちゃん! シスコン」と言いながらも嬉しかった。
だが、最近は兄の老老介護になってしまうのではないかと焦ってくる。
兄には幸せになって欲しいのだ。
でも時より慶太に、「私、お嫁にいく自信がない」と言った。趣味のせいで三次元の男性とプライベートでお話する機会もないし、お見合いを勧められるような家柄でもない。強いて言えば、英語とタイピンクがまあ自慢できるぐらいだ。しかも、二次元以外の男らしい異性がかなり苦手である。彼らが何かしらの性的対象として自分を見だしたら、怖いと言う気持ちだけが先走る。同僚や友達はいい。もちろん、慶太もそうだ。
「なんだ。行きたくないなら行かなくてもいい」と彼は言う。
「いや、行きたくないじゃなくて、行けなさそうって言っているの」
「…ごめん。俺にはよくわからない。それってもしかして女心ってやつか?」
「…」
半分当たっているが、慶太とはなかなか合意ができなかった。話の根本が合わないのだ。でも、なぜ自分が男らしい男の人が苦手と言うことは慶太には言えなかった。彼にこれ以上自分を責めて欲しくなかったからだ。
彼はいつも「お前はすぐに嫁にでも行けるよう、今しかできないことを十分存分やっておけよ。結婚したら、そんな時間ねえぞ」っと口癖で言うのだ。
したいことはしている。
奨学金をもらえたとしても少しの借金は残っている。
それを少しずつ返済しながらの生活だ。
仕事も今まで順調だったし、好きなBLも買える生活だ。
だから、この歩くだけでカンカンとチープな金属音がする階段のアパートは別に悪くはないのだ。
ただあの昼間に見せている自分の顔とはあまりにも違うだろうと言う境遇は、まるでこの人工的な味で閉められているアイスキャンディーのようだった。
夏の始まりが今年は早いせいか、ムッとくる様な熱気が外には立ち込めていた。
人工的な光が反射するアスファルトの道を歩きながら自問する。
そう。
何か熱の籠もったような視線を社長から受けて、何か胸のあたりがざわざわしていた。
お願いだからってあんな表情…。
小学生の時の学級文集を偶然発見してしまった感覚だ。
どこかに置いてきたはずの過去の想いがまた再燃しそうだった。
胸騒ぎを落ち着けるかのように、カバンの中に持っていた申込書を先ほどコンビニにまで戻りポストで投函した。
先ほどの無愛想だった店員が何事かという風にハッとした表情で見ている。その顔つきに、やはりネコだと考えを落ち着かせてそこを立ち去った。彼の驚きはわかる。なかなか最近は郵便自体を使う人が少ないかもしれない。年賀状でさえSNSで済ませてしまう友人が多い。
本当はネットで申し込みでもいいのだ。ワンクリックで入会だ。ただ自分の気持ちを落ち着かせるには、少し時間がかかる郵便に頼りたかった。誰かが実際の郵便を英語ではsnail mailなんだよっと言っていたのを思い出した。
snail、つまりカタツムリ郵便だ。それくらいゆっくりに時間がかかるということだ。でも都内への郵便だから、残念だが明日にはついてしまうだろうともわかっている。
「婚約者か…」
本当にそうだったらいろんな意味で関係が複雑すぎる。
もちろん真の偽婚約者ということでだ。
うちの幼馴染み、そして上司でもある御曹司の木原海斗は多分同性愛者なのだ。
幸か不幸か、彼はうちの兄、島崎慶太にずっと片思いをし続けている。
そして、そんな兄に片思いをしている幼馴染にずっと恋しているのが自分なのだ。
ゲイばかりに恋に落ち続ける自分を呪いたかった。
不毛過ぎる。
そんな一方通行の切なく甘ったるい片思いは十代ならお似合いだ。
だが三十を手前にそんなことを言えるだけの時間も体力も自分にはなんだか残されていない様な気がした。
指に絡みつく様に溶けていく甘いシロップを舐める。
ちょっと甘すぎてお茶でもかっとけば良かったと後悔した。
まるで時間切れを告げているように溶け出したアイスキャンディーは、やっぱり後味が悪かった。
早く自分のアパートに帰りたくて、足を早めていた。
汗はまだ肌に媚びりついていた。
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