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過去の話1:夏の思い出は蝉の音に消されて

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 注:少し性的嫌悪感を催す表現があります。



 那月が木原海斗がゲイ、つまり同性愛者と気がついたのは自分が高校一年生の春だった。
 
 海斗がイギリスの留学へ旅立ってから、しばらく自分たちは音信不通に近かった。ちょうど海斗が自分たちの前から消えてから間もなく、運悪く自分たちの両親が交通事故で亡くなった。自分が小学五年生で慶太が中学三年生だった。海斗も葬式にわざわざ来てくれた。ほとんど話す機会がなかったけど、これが海斗と慶太と私の長い話の始まりになる出来事だった。

 最初は叔母と叔父のところに預けられた。けれども、ある事情でそこを去る。
 どうしても叔父の自分に対する見方が気持ち悪くて、兄に相談しようかと悩んでいた。叔父の絡みつくような視線の意味がわからない幼い自分は、何をどう説明していいかもわからなかった。何もされていないのだ。自分は小学校六年生になっていた。
 まだ微風に熱気の含みをもつある残暑。古びた畳のザラザラな感触が妙に肌に絡みつく日、蝉の鳴き声が外で騒がしかった。兄は部活でいない。叔母さんも買い物に出かけていた。扇風機がカラカラと無機質な音を立てていた。きっと何かが機械の中で引っかかっているのかもしれなかった。それを調べる気力もないような蒸し暑い日だった。叔父が何かを言いながら、自分の脚を触ってきた。
 何がどうしてこうなったかは全く覚えていない。
 ただ気味の悪い息遣いと手の感触が泥のように這いずってくるような感じだった。
 蝉の声がまるで自分の叫びのようだった。
 それが頭の中に鳴り響いた。

 声が凍ってしまった自分の代わりに、頭上から悲鳴した。
 自分の声を誰かが代わりにしてくれたのかと思った。だがその声は自分の声よりはるかに大人の声だった。
 部屋の入り口には、顔を蒼白にさせながら、唇を震わせた叔母が立っていた。
 ちょうど予定の買い物が早めに終わり、早く帰宅したのだ。叔父と叔母が争っていた。
 何を話しているか全く耳に入らなかった。
 ただ耳鳴りのような蝉の声がやかましかった。

 結局、叔母と叔父は離婚した。
 叔母は何度も自分たちに謝った。ただ子供達のことを考えて、警察にはつきだないように懇願された。
 兄は憤慨していたが、自分たちはまだ子供だった。
 ただ自分たちはもう彼らと一緒に住めなくなった。

 自分はただ肌を触られただけだった。
 でも、それはとても嫌なものだった。
 何か心に灰色のかたまりが残っていた。

 かなり精神的にも身体的にも自分は混乱していた。どう探してきたかはわからないが、兄の慶太がさる弁護士に頼んで、彼が後見人になることで彼名義のマンションに一緒に住まわしてもらうことになった。
 やなぎさんという人だった。彼は恋人の家のマンションと行ったり来たりする生活を送っていた。柳さんは三十過ぎの笑うとちょっと目尻に年齢にそぐわない皺がよる男性で、自分が初めて出会う同性愛者だった。
 優しい笑顔を持った人だった。

「──大丈夫。那月ちゃん、あのせいで男の人は怖いかもしれないけど、僕ゲイなの。だからどう考えも那月ちゃんには下心なんて出ないから」とウィンクされた。

 兄の慶太は野球の強豪校に入っていた。本当なら寮に入らないといけないのに、自分を気遣ってか、このマンションから早朝に出ていく。彼の為に朝お弁当を作ることに決心した自分に、柳さんは美味しい卵焼きの作り方を教えてくれた。柳さんも見かけに似合わずかなり乙女な人で、休みには一緒に料理をしたり、女の子の買い物に付き合ってくれたり、なんだかお母さんとお父さんを一緒にしたような不思議な人で、自分の傷ついていた心は癒されていった。胸につかえていた嫌なしこりも、兄と柳さんとの平和な生活で消えていっていた。
 でもこの頃はまだ自分は腐女子ではなかった。
 
 そして、そんな優しい柳さんに思春期を迎えた自分が惹かれるのに時間はそんなに必要とはしなかった。

「好きです…」と真正面から言えなくて、彼がまだカレーのための野菜を切っている後ろ姿に告白した。
今思うとそれは恋とかいうものではなく、初めて触れ合う優しい大人の異性に対しての憧れとか、両親を無くした心の隙間に柳さんの優しさが染み込んでしまったのだと思う。

「え! ちょっと那月ちゃん!」

 可愛い水玉のエプロンをした柳さんが包丁を置いて慌ててこちらを見る。

「…ごめんなさい。柳さん、困ると思ったけど、どうしても言いたかった」

 自分はまだ中学生一年生で、彼はゲイで三〇代のおじさんで弁護士だ。
 どう考えてもこの恋が成就するのは、自分が異次元にとんでも無理そうな話だった。
 彼のタレ目の目がもっと困ったように下がった。

「…那月ちゃん、ごめんね。知っているよね。僕、ゲイなんだよ」
「うん、知っている」
「それに那月ちゃんはなんだか家族みたいに思っている」
「…うん」
「でもそれは恋愛とかではないんだ」
「…うん」

 その後、自分は人生で初めて告白し、失恋した相手と一緒に泣きながらカレーを作って食べた。
 彼は自分はきっと子供とかは持てないから、こうやって家族のような慶太や自分を持てて最高に嬉しいと言ってくれた。

「きっと心の優しい那月ちゃんにはそのうち絶対に素敵な王子様がやってくるよ…」と優しく頭さえ撫でてくれた。

 その後、部活帰りの泥まみれの慶太が帰宅してきた時、涙目の自分たちがカレーを食べているのを見て驚いて、
「な、なんだ。今日は激辛カレーなのか!」と驚いていた。

 楽しい思い出だ。

 慶太が大学生になった時、慶太が自分と二人だけで住もうと言ってきた。
 彼によると、両親と前住んでいたオンボロ長屋がまだ健在で、入居者募集中という。
 このままずっと柳さんに世話になるのは、慶太も自分も、ちょっと…と思っていた。それに慶太が泣けることを言うのだ。

「もちろん、柳さんは第二の家族みたいなもんだ。でも俺はお前がお嫁に行くまで、きちんと兄として、家族として一緒に住みたいんだ。お嫁に行ってしまったら、きっと俺たちは二度と一緒に住めないだろう。悪いけど、柳さんには遠慮してもらう。もちろん、感謝は測りきれない程してるぞ」
「ばっか、慶太。お嫁の心配だなんて…」

 柳さんは健康な男子で、全く関係ない赤の他人なのに、自分たちの面倒を見ている。しかもずっと付き合っている彼氏が同棲したいことを匂わせているのに、断っていた。
 理由は明白だ。自分たちを気にしているのだ。本人はそう言わないけど。

 納得しない心配そうな柳さんを説得し、とうとう二人でもとの長屋に住み始めた。でも彼にはまだ後見人は続けてもらった。
 事故による保険金のおかげで当面自分たちは、勉強に集中しながら、生活することが見通せた。

 

 そして、長屋に住み始めてからの初めての夏のある日、珍客がその長屋に訪れた。
 彼は本当にふぃっと現れた。
 ガラガラガラと誰かが玄関を開ける音がした。
 兄が大学から帰ってきたのかと思い、中学三年生の自分がちゃぶ台で宿題をしながら「お帰りなさい、慶ちゃん…」と答えた。顔さえ上げなかった。

 すると、玄関から誰が「お邪魔します」という声がした。
 あれ、この声は慶太ではないと思いながら立ち上がる。
 大した距離ではない。すぐそこだ。
 でも足を進めながら思う。
 慶太なら、もっと玄関の戸の開け方はもっと乱雑で、ガラガラ、ガターンという感じだ。
 明らかに違う人が来たらしいと思い、急いで玄関に出た。
 すると、見たこともないモデルの様な男が玄関に靴を脱いで立っていた。さらっと上質そうな少し青みが強いシャツに、真夏なのに麻のジャケットを羽織り、下にはわざわざチノパンまで履いて革靴だ。
 どう考えても大学の慶太の友達には思えない。

 どなたですか?という声さえも出なかった。

 本当にこんな美形、知り合いにいないっと思った。だけれども、その見知らぬ客人がすでに靴を脱いで家に入っている事実にお互いに気がついて、その美青年が気まずさからか、ちょっと頬に桃色のさし色を浮かべた。その見覚えがある照れた様子から、ああああっと記憶がはち切れる水風船のように、ぶわっと蘇ってきた。 
 それと同時にあっちが恥ずかしそうに聞いてくる。

「ナツ…キちゃん?」

 その呼び名とともにこちらも叫んでしまった。

「か、海斗! かいちゃん! ええ! 本当に!!」

 これが久しぶりにあった海斗との思い出だ。
 海斗はまだイギリスの高校を卒業したばかりだった。
 ちゃぶ台を囲みながら、色々な話をした。
 まさかこの時、自分が海斗に恋をし始めていたことなど、当の本人が全く気がついていなかった。
 



 その翌年の夏にも同じ様にやってきた。
 本当に全く同じ様に現れた海斗に、玄関先で「おお、また身長伸びだね! 御曹司」と揶揄った。
 実はその年の春に会っていた。思い出すだけで色々な想いが溢れてしまいそうだった。慶太が事故で入院したからだ。その時のことを思い出すと、胸がつきんって痛くなった。
 そんな自分の気持ちも知らないで、この男は玄関に綺麗に靴を綺麗に並べて入って来た。だから、かえって明るくおどけた調子で話しかけたのだ。

「もう全く那月ちゃんは…」と言いながら、去年と同じ様に部屋に入ってくる。いや、いろんな意味で同じように返したかった。

 アメリカの大学に通っていると言った海斗は、なんだかまだ高校一年生の自分からはとっても大人びて見えた。イギリス時代の名残が抜けなかった春先までは、海斗は格式張った、それこそ英国紳士の休日みたいな格好をしていた。それはそれで大人っぽかった。
 でも、アメリカの大学生の定番なのか、ブルージーンズにシャツのカジュアルな格好は、なぜかもっと大人の男を感じさせた。今まで見えなかった逞しい二の腕や太く長い首が強調されて、自分はドキドキしていた。

 もうそこにはあの白くて折れそうな儚い少年の姿はなかった。

 でも彼に会える嬉しさはやっぱり自分の中では大きかった。切なさと嬉しさと驚きが入り混じって、持っていた宿題の紙がくしゃくしゃになりかけていた。やばいやばい、英語の先生のサトジはうるさいからなっと持っていた紙を手アイロンの様にして伸ばしていく。少しクククッと押し殺した笑いごえが横から聞こえた。その声の持ち主をじっと見返す。

「…ご、ごめん。那月ちゃんは変わってないね」
「え、どういう意味!」
「いや、ごめん。高校生になって綺麗な女の子になったけど、中身は変わらないから安心したよ」

 綺麗な女の子って言われてドキッと心臓は高鳴る。でもそれを言っている本人のほうがもっと綺麗だ。海斗は昔と同じく、近寄りがたい色気のようなものが身体にまとわりついているようだった。

 まるで熟れた果実の匂いで虫たちを惑わすかのような。
 あちらが男の子で、こちらが女の子なのにっと思う。
 とても不公平だと思った。

 なんだか割りが合わない気持ちになった。足先だけ溝にはまった様な不思議な気分に陥った。
 思わずそんな空気感を押しやりたくて、大して綺麗でも大きくもない居間を指し示しながら、せかすように話した。でも顔には出したくない。わざと声を元気よく張りあげた。

「ど、どうぞ!!入って入って!! 狭くて汚くて古いけど入って!!」
「……そんなこと強調しなくったって……でも、う、うん。お邪魔します」

 天井が低い日本家屋の部屋の入り口は慶太兄でも頭がぶつかるくらいだ。
 彼に指差しながら注意する。

「海ちゃん、その入り口、頭当たらない様に気をつけてね!」

 鴨居に頭をぶつけないようにお辞儀をしながら部屋に入ってくる。
 高い身長をぎこちなく縮めるかのようにまるちゃぶ台のところに座ろうとした。
 慶太兄も大柄でこの狭い日本的な座卓に身体が合ってないように見えたが、少し髪の毛が自然に甘栗色で、色の白いモデルのような身長の海斗には全くこのちゃぶ台が似合わなかった。

 やはり春先よりのまた伸びたのかなと思う。それを尋ねてみると、もう185センチ以上は越したかなっと少し頬を赤らめながら海斗が答える。そのちょっと幼い仕草にほっとする。
 そして、お互いに近況を話し合った。

「そういえば、那月も、そうなんだか大人になったね。もう高校生?」
「あ、四月からだよ。あ、リラックスして座って! 正座じゃなくていいから」

 ようやく彼の緊張がとけたかの様に見えた。冷やしてある麦茶を差し出すと、それに礼を言いながら、一気に飲み干す。海斗がその冷たいお茶を飲むだけの所作がいちいち綺麗だと見惚れてしまう。透明な空になったグラスの中で、氷のカラッという音でさえ、なぜかセクシーなものに聞こえるのはこの海斗だけかもしれない。

「あのさぁ、前にも言っているけど、玄関は鍵をかけるべきだよ。那月……」

 はっと気をぬくと見惚れるぐらいの美声年が不満そうな声を出す。
 慌てて宿題の残りに手をつける。
 いきなり呼び捨てされたことにドキンとしている自分が情けない。

「え? ああ、そうだね。だって面倒なんだもん。でも私、中にいるし」

 無言の返事が気になって顔を上げると、海斗がちょっと口を曲げていた。

「…だからだよ。那月。君は女の子なんだよ。女の子一人で留守番で、誰もいなくて、もし変な奴が入ってきたらどうするの?」

 約半年ぶりに会ったのに、いきなり説教され始めた状況に自分がムッとして口を尖らせた。
 たまたま開いていたのだ。いつもは鍵を閉めている。まあそのいつもと言ってもそれはきっと三日に一度は閉めているという感じだから、それは言わない。
 海斗は知らないと思うが、昔叔父にされたことはまだ自分の記憶として残っている。ただ腿を触られたという事実だけなのだが、嫌な感情と感覚が胸に押し上げてくる。何か自分を子供扱いした海斗に腹が立ってきた。
 わかっている。自分は子供だから、馬鹿だから、ああやって触られてしまう状況にしたんだと。
 もっと大人の女の人はそんなことさせない。

 何も言わない様子を見た海斗が、自分の不機嫌を悟ったらしい。

「…ご、ごめん。怒らせるつもりはなかった。ちょっと心配だったんだ。那月は細いし。女の子だし」

 女の子、女の子。
 胸がなぜか苦しくなった。

 女の子って言えば、那月の記憶では、海斗だって慶太と同じ年で年上なのにも関わらず、なんだかこっちか庇いたくなるくらいに可愛くって女の子らしくって弱々しかった。
 それがあっという間に、少年、いや大人の男、しかも超美形に大変身だ。
 まるでそれは慶太や海斗が自分を置き去りにして大人になって、自分だけまるで沼にはまって動けないかのようだ。
 自分はいまだにあの腿に感じる気持ち悪さがかすかに脳裏に残っていて、前ほどではないにしろ、自分に向かってくる男性は苦手だった。そして、あの春の事件で、生まれて初めて本当に恋にと気がつかされた。
 それは甘い恋の醍醐味とは丸反対の残酷な失恋体験だった。

 それに、自分が海斗が好きだと気がついてから、好きだった柳さんもいかに恋愛対象としてではなかったと痛感した。
 自分の安心な場所を提供してくれる柳さんが好きだったのだ。
 それは異性が好きとか、恋愛感情ではなかった。それに、柳さんが彼氏さんと一緒にいる時に見せる表情に思わず自分が照れながらも喜んでしまうのだ。彼には幸せになって欲しかった。

 ただこの世間知らずそうな身体だけ立派になった御曹司に言い返したくなる。
 やりきれない自分の気持ちの置きどころがわからない。仕方がないので思ったことを声に出す。

「…呼び捨て」
「え、あ、そっか。ごめん。つい…」
「…嫌だった?」
「…い、嫌じゃない。私だって、海斗って呼ぶし」


「うん、そうだね」

 なぜかとても嬉しそうに微笑む海斗がいた。
 胸が苦しくなってきた。
 この笑顔を向けたい相手が間違っているからだ。

「…でも、那月は本当に、可愛くなったよ」

 見つめてくる海斗の視線が怖かった。
 でも叔父から向けられたような嫌な視線ではない。
 ただ、心を揺さぶる系のものだ。
 
「…もう! 海斗だって小学校の頃は本当に、肌なんて真っ白で、目なんかクリクリって、フリルのスカートとか似合っちゃうとか思うぐらいに可愛かったじゃん!!それなのにこんなにどんどん大きくなっちゃって!」

「…な、なんだよ。いきなり、人を女の子扱い…」

 さっきまでかなり勝手に自己中な理由で怒っていた自分だったが、海斗のちょっと頬が赤くなり様子を見て、自分の黒い気持ちも段々と収まってきた。
 ちょっと不貞腐れている海斗が可愛くてイタズラしたいとまで思ってしまう。

「もう海斗は、慶太兄さんから比べるとまだ細ーいし、まだまだだよ! 頑張ってもっと男らしくなんなくちゃ!」
「……努力はしている…」
「慶太は大学でもすごい人気者なんだよ。リーダーシップあるし」
「…うん、知っている」
 
 さらにいかに慶太がすごい兄か力説する。
 もうここまでいくとほとんどが大したことではないのに、大げさに兄を褒めた。

 なぜかちょっとシュンとしてしまった海斗がいた。
 ちょっと申し訳ない気持ちが心の中に広がって、「今日夕飯一緒に食べる時間ある?」とか話題を変えた。
 きっと海斗が兄さんを憧れの対象として見ているのは知っていたからだ。
 いや本当はそれ以上だってことも。

 妹としては二人をただそれを見守るしかないのだ。
 
「どう? 慶太、元気?」

 急に海斗が聞いて来た。
 少し心配そうな顔をしている。
 あの思い出したくもない事件が起きてから、五ヶ月ぐらいは経とうとしていた。

「うん、最初はめっちゃ落ち込んでいたけど。なんて言うのかな。単細胞だから、うちの兄貴。今では超大学生生活、楽しんでいるよ」

「そっか。あいつには本当、いつになっても敵わないな…」と呟いた。

 本当。
 うちの兄貴って最強なんだ。

 ただ海斗に同意する様に自分は黙って頷いた。

 自分たちが全く知らない世界で勉強を頑張っている海斗よりも、やはり身近にいる兄の方がなぜか立派で輝いて見えていたことは事実だった。きっと小学校までは何度か駆け足も追いついていた兄の慶太は、高校生になってもヤンチャのまま成長し、そして置いていかれた気分の自分と海斗が眩しくさえ思うぐらいに青春を駆け抜けていた。

 それはまるで慶太自身が真っ赤な太陽の様で、燦々と輝いて、その下に居るだけで、泥まみれのスニーカーを履いていても、その泥でさえも、それが何か切なく甘酸っぱいものにしてしまうくらいのカリスマ性が兄にはあった。

 小学校からの野球を続けていた慶太は、もともと素質があったのか野球の腕はかなり上達した。兄はかなりの強豪校に推薦で進学した。授業料は免除だった。うちには私立に行けるだけのお金がなかったから、それは助かった。甲子園にも一回出場した。
 慶太が三年生の暑い夏だった。メディアからも注目の新人としてちょこっと取り上げられていた。

 でも慶太の三年の目の夏の後、進学すると決めていた。移動が激しい野球選手より自分と一緒に居たいと言うのだ。
 それになぜか「俺はお前をきっちり嫁に出す準備をする」といいっ張っている。なぜ野球選手がいけないのかよくわからなかった。彼の本気か冗談かわからない答えが笑えた。
「お前な、考えてみろよ。この俺様が野球選手なったら、それそこキャンプとか試合で各地を回るようになるだろう? それに、スター選手になってアメリカのMBLなんか行っちゃったもんなら、お前日本で一人だろ? 俺は未成年のお前をここにおいてはいけない」

 なにそれ~!と自分は笑っていた。
 確かに慶太は野球は上手かったが、ドラフト一位とかで指名されるような選手ではないのだ。
「まあ慶太の好きなようにしたほうがいい」と言うと、あいつは
「当たり前だ。俺の人生、俺の好きなようにさせてもらう。まあでも大学でも野球はやりてぇなあ」と言って意気込んでいた。
 
 だが、それから彼の運命は大きく変わった。
 兄はたまたま大学帰りに寄ったコンビニの前で、信号無視をしたトラックに跳ねられそうになった子供を助ける代わりに、社会人野球でさえ諦めらめないといけない決断を迫られるくらいの重傷をおったのだ。

 その時は思わず、何かあったら電話してもいいと言われた兄慶太からの預かっていた非常電話番号に電話してしまった。なぜなら柳さんは海外に仕事の為いなかったからだ。

 電話に出たのは、海斗の運転手兼、のお付きの者の電話だった。てっきり柳さんの知り合いかあまり会いたくない親戚の電話だと思っていた自分はびっくりした。
 兄と海斗が手紙でやり取りをしているのは知っていたが、まさかこんな約束をしていたのは驚きだった。
 オドオドとしている自分に電話口の老人が、「那月様ですか?」と聞いて来た。

 ただ「いかがなさいましたか?」と優しく聞いてくる老齢の男の声に、兄の怪我の話をした。そして、兄がこの電話に電話する様にと言われたことも説明した。あちらは全て納得しているようで、このさかきと呼ばれる男に聞かれたことと事実だけを話した。

 もしかして、このまま海斗に直接繋がるのかと思っていた私は、最後に「ではその旨を海斗さまにご連絡いたします」と言われてちょっと落胆した。懐かしい彼の声を聞いてみたかったのだと思う。

 でも、榊さんに話していくうちに、どんどんと自分が冷静になり、前から兄と話し合っていた、いざという時に使う銀行口座のことや印鑑はどこにしまってあるかとか、現実的な問題が頭を過った。柳さんにそこまで迷惑はかけられなかったし、自分たちのことは自分たちですると兄と決めていたからだ。
 いまならわかるが、兄を失うかもしれないという恐怖から、違うことを考えたくて逃げていたのだ。

 幸い、一晩集中治療室に入っていた兄だが、夜が明けてみると命には別状がないことがわかってホッとした。主治医や看護師さんの説明を聞いた後、プツンと途切れた糸の様に、学生の制服を着たまま自分は眠り込んでしまった。
 
 ふと目覚めると、外来の患者さんや入院患者さんがパタパタと通り過ぎる音がした。
 春先だが、冷えている病院内のベンチがお尻に痛い。
 ハッと顔になんだかいい石鹸の匂いが香った。

 ふと見上げると自分は誰か男性と思われる人の肩にずっと寄り添って寝ていたらしい。
 柳さんが帰って来れたのかと思った。

「や、柳、さん? 」

 起き上がりながら、自分の上にかけられていた毛布を手に取りながら目の前の男性を見る。

「大変だったね」
「か、海ちゃん?」
「那月ちゃん…慶太、大丈夫だよ」

 熱い何かが急に湧き上がる様に体を押し殺していく。
 海斗がぎゅっと自分を抱きしめた。彼の体温が暖かった。

「那月ちゃん、大丈夫だから。慶太、生きている…し。大丈夫だって…」

 すでに知っていることをまた海斗は言った。
 それがなぜか胸にツーンと響いた。誰かにこうやって抱きしめて欲しかったんだと今更気が付いた。

「…うん。知っている。聞いた」

 そう言うと海斗が、また「大丈夫」と言って来た。
 自分の弱さを見られたような恥ずかしさから彼を手で押しやる。

「あ、ちょっと会計にいくら位かかるかきいてこないと。個室なんか入れられたらたまんないし…あと、入院するためのもの家から持ってこないと」

 焦るように自分が立ち上がった。
 つい足元がフラフラした。

「那月ちゃん、落ち着いて」

 ただそれだけだった。海斗の見た目よりももっと大きい胸に支えられた。彼の心臓がバクバクをいっている。
 それがなぜか安心させてくれた。
 そのしっかりと抱擁されている安心感が自分をきわへと押しやった。
 ブワッと高波の様に押し寄せる安堵と強烈な感情の高まりは自分で抑えきれなかった。
 海斗に抱きしめられながら、わあわあと泣き始めてしまう。
 海斗がまるで赤子をあやす様に自分の背中をトントンと叩いたり、頭を撫でたりする。

 これじゃーあの草野球とは全く反対の立場になってしまったじゃん。

 泣きながら、自分で不遜なことを思ってしまった。
 でも今日はそれでいい。
 それも許す。

 それぐらい急遽わざわざこのために帰国してくれた海斗のことはきっと那月は一生忘れないと思っていた。
 そして、両親の葬式以来に泣き喚いていたことのない自分は、出張先から急いでこれまた海外から帰ってきた柳さんがかけつけていたことなど全く気が付かなかった。

 そして、問題のゲイ発覚?までもう少しのことだった。
 桜が満開の季節を迎えていた。
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