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第5章 照り輝く「橙地」の涙雨

83.光なき夜を越えるには

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 どうして、だろう。

 2人だったときは、お互いを慮ることができたのに。どうして1柱になった途端に、解決しなければならない問題ばかり、見えるようになってしまったんだろう。

 レインと辿った道を引き返しながら、彼の助言を耳奥で繰り返した。



『アンタ、フィーユちゃんとティアちゃんを侮辱されたことに対して、「黒虚」に激怒していましたよね。
 それと似たようなもんです。あの2人はアンタと同じで、誰かの為に本気で怒れる人種だ。大切に思ってる人を、侮辱されるのは許せない……たとえ侮辱しているのが、アンタ自身だったとしてもね』
 
 別れ際に、レインは持っていた本を渡してくれた。きょとんとしながらも受け取ると、

『迷ってる最中も準備を進められるよう、適当に見繕っておきました。殴り書きですが、前回みたいにリストを挟んでありますから、鍛錬に疲れた時にでも読んでみてください。書庫への返却は、前回の分も含めて、アンタが責任を持って司書さんにどうぞ』

 ふっと、頬から力が抜けた。
 しみじみと思ったままのことを告げる。

『……優しいな。ありがとう』

『は?
 ……あー、ハイハイどうも。勘違いしないで欲しいんですけど、オレはあくまでも自分の為に動いているだけですから。んなこと、「黒虚」の件を通して、充分過ぎるほど解ったと思ってたんだが……』

『うん、わかっている。それでも、嬉しい』

 その横顔は、苦い薬を飲んだ後のようで。『成功を祈ってます』と残して背中を向け、利き手を顔の横でひらひらさせながら去っていった。

 レインが角を曲がり、その背中は見えなくなる。俺も歩き出した。ひとつの決意を固めて。





「ただいま……」

「クロニア、おかえりなさい、……あら? 随分と疲れた顔をしてるみたいだけれど、何かあったの? それに、その包みは……?」

 既にばっちり見つかっているにも関わらず、俺は茶色の包装紙に包まれたものを背に隠した。

「あ……ええと、服を一着。フィーユとティアと、出かける約束をしているから……」

 明日、フィーユとティアが服を選んでくれる。だけど俺は、明日の為の服さえも持っていなかったから。

 服装、髪型、化粧に至るまで、2人が俺の為に準備を整えてくるのなら……俺も、普段通りの格好のままではいけないと思った。

 でも俺は、お洒落のことなんてわからないから。だからギルドで既読の本を返却した後、一番最初に見つけた服屋に飛び込んだ。そして品物を見るより先に、恥を忍んで女性店主にお願いしたのだ。デートに相応しい服を一揃いください、と。

 ふくよかで、ラピットのように優しくつぶらな瞳をした中年の女性店主は、最初は茫然としていたけれど……その視線で、俺の爪先から頭頂部までを3度ほど往復した後、どこか興奮した面持ちで、

『あらあらまあまあ、なんて楽しそうなオーダーなんでしょ! 承りましたとも!』

 と言ってくれた。

 色々と話しかけられて、必死の思いで色々返事をした気がするけど、包みを抱えて店を出るまでの記憶は殆どない。

 結果として俺は疲れ果て、制御しきれずに我が家の門柱の前まで瞬間移動した。帰宅に時間を費やさなかった分だけ鍛錬を積めると、前向きに考えてみたのだが……

 紅茶を淹れようかという母さんの配慮を感謝しつつ断り、まっすぐ自室に戻った。レインから受け取った本と、明日の為の服を机上に置いてから、俺は久々にベッドの上に転がった。睡眠は必要ない筈なのに、何だか酷く眠かった。

 ブランケットが、常時風邪を引いているみたいに高くなった体温を吸って、すぐに温くなる。

 ……実のところ、眠るのが怖かった。

 目が覚めたら、何もかも灰になっているような気がした。『黒虚』を封じている鎖が、溶け落ちてしまっているような気がした。

 俯せていた状態から90度横を向き、自分の手のひらを見た。黒手袋越しに視える……心に波が立つたびに、外へ外へと流れ出しそうになる、他人のもののように荒ぶる紅色の魔糸が。

 存在を信じる人がたった3人しかいない今でさえ、これだ。秘密を共有する人が増えるのに比例して、魔力量が膨れ上がっていくとしたら……

「……これでは、どんな魔物、よりも……」

 ぼやけていく視界。重みを感じるままに目蓋を閉じ、暗澹たる思考を漏らそうとした唇もまた閉じた。防護結界を二重に展開。

 怖いけれど、少しだけ眠ろう。
 大切な人達に、心配をさせるのは嫌だ。





 夢を見た。

 木々が風にざわめく音、その風が運ぶ濃厚な深緑の香り。夜の森に独り、残されていると分かった。

 俺の身体は小さかったけれど、心は今よりずっと強くて冷静だった。見上げた空に星月の輝きがないことを確かめると、恐る恐る手を前に出し、爪先を使って足元を慎重に確かめながら進んだ。

 指先が、木に触れた。
 しっとりと冷たい木肌の感触を手のひら全体で認めてから、そっと背を向けて、木に凭れるようにして座り込んだ。

 炎はまだ上手く使えない。火球を出すことは出来ても、一定の大きさを保ったまま、傍らに置いておくことはできない。草木に燃え移れば火事になる。紅光は俺の居場所を、探しに来てくれた人……サリヤ師匠《せんせい》に知らせてくれるかも知れないけれど、魔物を引き寄せてしまう可能性も孕んでいる。

 だから、じっと待つ。
 視覚が役立たない分、耳を澄ませて。カタカタと震える身体を両腕で抱きしめて、呼吸の音さえも殺して、ひたすらに待つ。

 師匠はきっと怒鳴るだろう。怒鳴られるだけのことをしたのだから、怒られて怖いのも、安堵に泣きたくなるのも、我慢しないと。ありがとうございますと伝えて、ごめんなさいと伝えて、それから……

 身体の震えが止まるくらいの時間が過ぎた。

 虫達が歌っている。
 京の身体がこのくらい幼かった頃、京の家族と古都ちゃんの家族と、山奥のキャンプ場に泊まったことがあって。好奇心に目が冴えたあの夜も、同じ歌声を聞いた。異世界での出来事だというのに。

 ……もう、誰も来てくれないかも知れない。
 夜が明けたら、独りで故郷に戻らないと。

 そう思ったときに、声が聞こえた。

 クロニア、クロニアと、名前を呼ぶ懐かしい声が。迷子を探すがゆえの烈しさのようなものはなく、休日の午前に目覚めを促すように優しい。待っていた声ではなかったけれど、ずっとずっと聞きたかった声だった。

 思わず立ち上がった。きょろきょろと必死に首を巡らせて、とっくに闇に慣れた筈なのに何も見えない瞳を凝らした。堪えていた様々な感情が、喉元まで込み上げてくる。

 二度と、会えないと思っていた。このまま誰の命も奪わなくても、俺は決して天国へは行けない。そもそも死ぬことがないのだから。

「……っ」

 声の聞こえる方角が分かって、感情が弾けた。

 走り出す、奈落に堕ちるかも知れないだなんて考えもせずに。いつの間にか成長を遂げた身体で、漆黒を掻き分けるように手を振って、前のめりに柔らかな地面をひたすら蹴って。

 紅色の灯りがひとつ。炎属性の魔石のランプを掲げた、逞しく優しい人影がぼうっと浮かぶ。光量が乏しく、顔ははっきりと見えないけれど、そんなことは構わなかった。

 光差す方へ、光差す方へ……広げられた腕の中へ、飛び込んだ。
 力強く俺を抱きとめ、後頭部を撫でてくれる、大きな手。あたたかい。

『クロニア。大きくなった』

 ぼろぼろと、溢れ落ちていく。縋り付いた胸を決して濡らすことのない涙が。

 声が聞きたくて、記憶に刻み直したくて、嗚咽する。そんな俺に、ロッシェ・アルテドット……父さんは言った。

『お前を、誇りに思うよ。いついかなる時でも、この想いだけは……傍らに、ずっと在り続けることができる。
 光差す方へ生きなさい。私の、愛しい息子』





 ……目蓋を、開ける。
 明るさに慣れるまで、まばたきを繰り返した。

 優しい夢ほど、儚く終わるものだ。窓が切り取った空には夕暮れの名残がある、眠っていたのはほんの僅かな時間だったらしい。もうじき、母さんが夕飯の支度を終える頃だろう。

 上体を起こし、指先で目尻を拭った。

 結界のおかげか、身体に触れていたブランケットでさえも、灰にならずに済んでいた。『黒虚』との繋がりにも変化はないようだ。

 ……風呂に浸かってから、もう少し眠ってみようかな。安心できるまで、防護結界を重ねて。独りで夜を越えられそうにないなら、思い出に身を委ねるひとときがあったって良いのかも知れない。

 それから。今はまだ、出来そうにないけれど……母さんに真実を話そうと思った。

 嘆き悲しませてしまうかも知れない。魔力がどれだけ増大するのかもわからない。それでも、秘密を抱えたままでいては、いけない。

 俺は、父さんと母さんの息子なのだから。
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