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第4章 悠久を渡る「黒虚」の暇つぶし

76.「生きていこうよ」

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【藤川 京】



 ゲームは光陣営の勝利で終わった。くろは唯一有効な「指名」を行ったプレイヤーである、ベルくんの元へ返還された。

 9日間以上に渡る拘束。
 くろは夢と現の狭間でずっと「彼女」と……この世界の天上に座す女神、その権能の一部である「大いなる意志」との統合に、必死で抗い続けて……
 考えただけで、気が狂いそうだ。

 何の抵抗もしない少女ラウラの口を塞いで、見えない地面に押さえつけたままでいる片割れの元へと、

『くろっ!』

 飛んで行こうとした僕の身体を、ベルくんが掴んで引き止めた。僕は仲間の手から逃れようと、四肢と翼をじたばたと動かして、

『ベルくんお願いだ、止めないでくれ!
 くろをこれ以上独りには、ッ』

「無策に飛び込むな! ずっとクロニアと一緒にいたアンタなら解んだろ! 姿はクロニアだが、中身があの人だとは到底思えない……自分自身の呼びかけにさえ、反応を返さねえんだぞ!!」

『……っ、』

 くろはようやく、僕等を見た。

 無表情。比喩でなく仄かに輝いている紅色の瞳から、感情の熱は全く感じ取れない。『瞳とは事実を視認する為の器官である』と、そう主張しているかのようで。

 最初から僕等に興味がなかったみたいに、くろは再びラウラを見下ろす。危機的状況にも関わらず、銀色の瞳には、一途に想い続けてきた初恋の人と結ばれたかのような、歓喜と興奮が満たされていた。

 くろはラウラの顎を掴んだまま、徐ろに立ち上がった。軽々と持ち上げられた白く細い四肢、一切を重力に委ねて垂れ下がった華奢な身体……

 くろの整った唇が微かに動く。

「粛清を」

 ラウラの顎から手を離す。それと同時に、ラウラの腹部に中段回し蹴りを叩き込んだ。

 ゔぐっとくぐもった声を発し、ラウラの身体は残影を残す程の速度で後方へ吹っ飛んだ。透明な壁に背を強かに打ちつけ、止まる。この空間は物理的限りのある閉鎖的なものらしいと、僕は知った。

 ひび割れることも凹むこともない滑らかな壁を、ずりずりと落ちて。やがてラウラは透明な床上に、ぺったりと座り込んだ。内側に綿しか入っていないテディベアみたいに、ぐったりと首を傾けて。

 これ以上、傍観することはできない。

 藤川京は、生前の19年間と、転生後の10年間を費やしてもなお、平穏に生きたいという曖昧な夢しか抱くことができない、どうしようもなく曖昧な人間だ。

 でも。そんな僕でも……
 未来を諦めることは、できないや。

 四方八方が燃え踊る地獄の再現のような世界で、僕とレインくんが高熱に喘ぎ苦しんでいないのは、それがくろの意志だからとしか考えられない。くろはまだ、手の届くところにいるんだ。

『……ベルくん!』

 藤川京として話せるのは、これで最後だ。
 それなら……ありったけの感謝を、伝えたい。

『僕の身を案じてくれて、ありがとう。
 僕等を勝利に導いてくれて、ありがとう。
 ……くろと一緒にいてくれて、ありがとう』

「おい……アンタ、まさか、……っ」

 ベルくんは、眉間に深々と皺を刻んで。苦悩に奥歯を噛み締めながら、それでも僕を包んでいた右手を広げた。

『ありがとう。どうか、許して。
 どうか……これからもよろしくね?』

 僕は、羽ばたいた。
 高温にゆらゆら揺らぐ空を、くろの意志に護られながら全速力で駆けていく。

 粛清を果たす為に、くろは悪しき神に向かって歩き出す。右の手のひらの上に……『神格化』に伴って著しく増大した魔力の、ほんの一欠片を集中させていく。

 させない!

『くろぉぉぉおおーっ!』

 僕は速度を落とさないまま片割れの肩に突撃、はっしとしがみついて反動を堪えた。

 ああ。あの憎い特殊結界に充満していた甘い匂いが、ぶかぶかのカーディガンに染み付いている。

 こんな服、脱いだら燃やしてしまおう。フィーユちゃんと一緒に服を新調しよう。みんなでティアちゃんの昇級を祝おう……平穏な日常に、戻るんだ。

 僅かな衝撃だった筈。
 だけど、くろは立ち止まった。
 瞳の奥にはまだ、彼の抵抗が在る。

「……、だい、じょう、ぶ……から、……
 けい、さ、は……」

 譫言のような、彼の言葉。

『僕を、待っていてくれたんだね……!
 ありがとう……待たせてごめん、独りにさせて、ごめん……僕がもっと早く統合を果たしていれば、つらい思いをさせずに済んだのに……!』

 もう一人でも大丈夫だなんて思わずに。
 ずっと、手を繋いでおけばよかった。

『ごめん、本当に本当に、ごめんね……!
 でも……仲間のおかげで、君まで辿り着いた!』

「な、か、まあ?』

 不気味な沈黙を保っていたラウラの唇から、再び流れ出す悪意の旋律。

「言葉は正確に使いなよ、邪魔物がぁ!
 役に立ったのはぁ、ベルスファリカ・リグ・ラーヴェルだけで! その他女子2人は、お話にもなんない役立たずの雑魚だっただろぉ!?」

『ラウラ、君って神は……、ぐっ!』

 紅色の魔糸、一本一本が鋭利な針と化す。くろがくろとして大切な人達の為に激昂している。感情という不安定なものに突き動かされているのに、あまりにも美しい統率がその証。

 ラウラは怒りで理性を濁らせて、統合を促進させるつもりなんだ……!

 こんな、最低の女神様の思うままになんて、絶対に絶対に、させてたまるか。

 神様と成ることを、止められないのなら……人の心に寄り添う「優しい」神様に成りたい、若造の綺麗事だと言われたって構わない!

 だから、叫んだ。
 ぎゅっとくろにしがみついたまま叫んだ。届けと願いながら、叫んだ。
 くろを、僕とも統合させる為の台詞を。

『女神様から授けられた色は「紅」、授けられた名前は「粛清者」! 心のままに平定せよ、我成す道こそが正義なり!』

 くろの紅色の瞳が、揺れた。

 僕の小さな身体が、くろの瞳と同じ色に輝く。視覚を除く感覚の喪失……小さな小さな星粒となって、僕等の身体へ流れ込んでいく。

 ……よかった、間に合った。

 少しも痛くない。少しも怖くない。
 フィーユちゃん。約束破って、ごめんね。


 空っぽになったミニラピットの身体が、僕等の足元に、ぽてりと落ちた。





【    】



 一色だった視界に、誰かの姿が映った。

 紅色の火炎が踊るだけの空間。
 その中央で、ただのエネルギー源として……四方八方から伸びた紐状の炎に固く絡め取られた俺は、目蓋をゆっくりと押し上げる。

 眼鏡の奥の、優しげな眼差し。

「ただいま、くろ」

「京、さん……ごめん、なさい……。
 待っているって、約束したのに……クロニアのままで、待っているって……」

 京さんは困ったように微笑んで、

「少し、混ざっちゃったんだね。
 謝らなくても大丈夫だよ。僕等は……1人なんだからさ」

 意識を、保ち続けていた。

 痺れを切らした『彼女』は、待つのをやめて俺の手を捕らえた。逃れようと抗ったけれど叶わなかった。少しずつ『彼女』が侵食してくるのを……『彼女』が俺の身体を作り変えていくのを、止めることができなかった。

 取り返しのつかない過ち。
 俺はもう、人ではない。もう、戻れない。

「…………俺は、大丈夫だから。
 独りでも、大丈夫、だから……あなたには……小さな、作り物の身体でも……限りある、1人の人間として、『生きていて』、欲しかった」

「……そっか。さっきはそう言いたかったんだ。あはは、本当に……君は、人のことばっかりだなあ。
 ねえ、くろ」

 京さんは、俺に両手を差し出した。
 抱っこを強請る幼い俺に、母さんや父さんがしてくれたように。

「生きていこうよ」

「……生き、て?
 俺の身体には、もう、限りが……」

「そうだね。僕等の身体は『神格』に昇って、人の性質とは離れてしまった。
 それでも、君の心は、変わらないだろ?」

 ……こころ?

「変わらず死を恐れて、生の儚さを愛して。

 僕等の心が、大切だって……失いたくないって思う人達と寄り添って、ときどき喧嘩もして。想い合って、護り合って、支え合って。

 『いってきます』の後に、『ただいま』を言える日常を。『いってらっしゃい』の後に、『おかえり』を言える日常を。

 そんな……何でもない一分一秒を、これまで通りに愛してさ。生きていこうよ、一緒に」

 ……生きて、いく? 人として?
 そんな……そんなことが、許されるのかな。
 
 躊躇った。躊躇いながらも結局、唯一自由が効く右手を、伸ばさずにはいられなかった。『黒虚』によって俺の心から、京さんが分たれてしまったときのように。

 藤川京。俺に魂を継いでくれた人。
 生きていきたい、あなたと。

「……おかえり、なさい……」

 京さんは、俺の……自分自身の手を握った。凶刃によって理不尽に生を奪われながら、清くあり続けた偉大な手で。

「くろ。僕の、最高の継承者さん……
 末永く、よろしくね……!」

 ふにゃと、頬から力を抜いた笑顔を残して。


 藤川京は、俺の視界からいなくなった。


 熱く熱く。溶解していく枷。
 『統合』の果て、研ぎ澄まされていく意識。

 自分自身と繋いだ手のひらを、見つめた。
 痛みを覚えるほどに強く力を込めて握り、感情と理性を均衡させる。そしてその手を、真横へと素早く振り払った。

 硝子が割れるように崩壊した、精神の牢獄。
 視界の中央には『黒虚』がいる。そして、

「……クロニア、なのか?」

 振り返る。軍師として光陣営の仲間を導き、『黒虚』とのゲームに勝利してくれた俺の教師が、正解を探すような眼差しで俺を見つめていた。

 俺は返答の代わりに微笑み、

「ありがとう、ベル。
 ここから先は、俺が役目を果たすから」
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