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第3章 明日を願う「白氷」の絶唱

52.メッセージ、片思い

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【ティア】



 ほわあと思わず吐き出した息が、白くなって、雪雲へと昇っていきます。

 結界さんの内側に一歩踏み込むと、乾いた冷気があたしの身体を包みました。あたしの耳に合う防寒具はフィーユちゃんでも見つけられなくて……剥き出しの耳が、早くも冷たくなっていきます。

 白い花びらのような雪が、音もなくひらひらと舞い落ちています。降り積もった雪の上には、動物さんが駆けた跡さえありません。

 でも、周りの木さん達を見ると、雪の下に緑色の葉っぱが眠っているのが見えました。あまりにも突然に冬が来てしまったから、森は冬支度を済ませることができなかったんですね……。

「静かですね。どうやらこの結界には、外界からの音を遮る機能があるらしい。魔法を知らない女の子が、単独でこれを……ね」

 レインさんが長い首を縮めて、口元を菫色のマフラーに隠しました。

「まだ私達の侵入には気づいてないみたいね。それなら、今のうちに!」

 フィーユちゃんが身体の芯と並行になるよう、正面に武器を構えて目を閉じます。

 足元に翠色の線で、複雑な魔法陣が築かれていって……風のない空間で、その魔法陣の上にだけ上昇気流が発生して、艶々のピンクブロンドが舞い上がります。

 準備が整ったのでしょうか。目を開いたフィーユちゃんは、人差し指の先に小さな風の刃を創り出して、うっとりするほど綺麗な髪を少しだけ切りました。そして、その髪を気流の中に放ちます。

「来て、ズッピー!」

 フィーユちゃんの頭の上に、足元に描いてあるものと同じ魔法陣が現れました。それがちかっと光ったかと思うと、大きな……

「めぇ~」

 雪で作ったようなまあるい身体、親近感が湧く長いお耳、ちょっとだけ短い4本足。背中からはふわっとした翼が生えています。

「お、大きなラピットさん!?」

 リャニール山まで乗せてくれたラピットさん達とそっくりなのですが、大きさはその2羽分ほどありました。

 これが召喚魔法なんですね、初めて見ました……フィーユちゃんのおそばにのちっと着陸した大きなラピットさんは、手袋を嵌めた手に撫でられて嬉しそうです。

「私が召喚の契約をしてる子なの、名前はズッピーよ。ティアちゃんとレインくんは、この子に乗って待機していて。何かあれば通信機で連絡、忘れずにね」

「は、はいっ! ズッピーさん、よろしくお願いします!」

 あたしがしゅばっと頭を下げると、ズッピーさんはめぇ~と鳴いてくれました。よろしくお願いされてくれるみたいです。

「ありがとう、フィーユ。俺達はもう少し先へ行こう。ここは入口に近過ぎる」

 クロさんは、あたしとレインさん、そしてズッピーさんを順番に見て、

「気をつけて」

 そう言って、なだらかな斜面に足跡を残していきます。

 クロさんに続こうと歩き出したフィーユちゃんが、立ち止まってこちらへ振り返りました。翠色の瞳にあたしを映し、口元に力強い微笑を浮かべて、はっきりと頷きました。

『こっちは任せて。そっちは任せた!』

 そんな声が聞こえたようで。

 あたしが、大きくこくりと頷いたのを見届けると、フィーユちゃんはクロさんを軽やかに追いかけていきました。

 ズッピーさんにはレインさんが先に乗って、背の低いあたしをぐいと引っ張り上げてくれました。

 レインさんが前、あたしは後ろ。いつ移動することになっても大丈夫なように、レインさんの腰にしっかり手を当てておきます。

「……落ち着いてるな、ティアちゃん」

 あんまり抑揚のない低いお声。このお声も、羽のような普段のお声も、どちらもレインさんなのだと思います。

「さっきの大将の魔法、見たろ。あの人はこれから、あのレベルの魔法を乱れ撃つ。メメリカ・アーレンリーフ次第ではあるけどな。この結界内がどう変容するかわからない、だから……君のその状態は心強いのさ、すごくね」

「あ、ありがとうございます! あたしも、レインさんと一緒で心強いです!」

 レインさんはふっと笑い声を漏らしたきり、薄く整った唇を結んでしまいました。

 あたしは白い息を吐き出しながら、耳を澄ませます。いつもと変わらないレインさんの心音。間隔の違う2人分の足音……あ、立ち止まったみたい。

 そのとき、

「……動く。
 ティアちゃん、しっかり掴まっててくれよ」

 斜面を物凄い速さで駆け降りてきた、白く色づいた魔力の波。あたし達の身体を通り抜けていった……

『でていけ』

 悲しいほどに激しい、メメリカさんの拒絶。

 ただでさえ凍えるようだった空気が、更に冷たくなりました。唸り声を上げながら山から吹きおろす風……穏やかだった雪の降り方が、肌を叩きつけるような鋭さに変わって。

 わかっています。メメリカさんが、クロさん達を追い出そうと願ったこと。そして、クロさん達は……そのお願いを聞いてあげられないこと。

「飛んでくれ。吹雪の中心へ向かって、なるべく低く。メメリカ・アーレンリーフの周囲は凪いでいる筈だ」

 レインさんがそうお願いすると、ズッピーさんはゔぇ~と鳴きました。そして翼を動かすことなくふわっと浮かび上がり、大きな身体で木々の間を縫うように飛んでいきます。

 冷たい雪に思わず目蓋を閉じたとき、あたしの眼から、あたしの体温を宿した雫が落ちていくのを感じました。

 苦しいのも、悲しいのも、メメリカさん。
 なのに……

 どうしてあたし、泣いているの?





【フィーユ・ドレスリート】



『でていけ』

 音もなく、でも脳に刻み付けるような烈しい言葉。そこから攻防は始まった。

 幻だった吹雪が、現実のものとなる。

 『紅炎・零級』は前を向いたまま、斜め後ろに立つ私を庇うように、右手を横へ振り抜いた。私の身体を包むように、淡い紅に色づいた球状の結界が生じる。

 結界に触れた雪が溶けていく。それに、寒さが大幅に緩和されている。けれど、全てを遮っているわけじゃない。

「内側からの攻撃は通る。その分、威力の高い氷属性攻撃を防ぐことはできない。なるべく躱してくれ」

「わかったわ、ありがとう!」

 クロは昨夜、私達の部屋に訪れて、カルカから持参したという薬剤を私に手渡した。対氷属性魔法に効果があるから明日の朝食の後に飲むといい、すごく苦いけれど、って。

 そこまで配慮されて……この場で護られるだけなんて、絶対に嫌。彼が自分自身の周りには結界を張っていないのが悔しいくらい。

 幼馴染の隣、かつ、互いの武器のリーチ外へ進み出る。

 紅色の瞳が、すうと細く鋭くなる。
 直後、前方で白光が炸裂した。

 「大禍」のような魔力の炸裂!?

 冷気の中にいるのに、嫌な汗が背中を伝いはじめる。怯まずに注視するの、その正体を冷静に見極めなきゃ。

「……あ」

 ……違う。

 文字だわ。あの書置きで見た筆致。
 吹雪の中でも読めるまばゆさで、

『お願いだから、独りにして』

 クロは痛みを堪えるような表情をしていた。それでも……「願い」を叶えるわけにはいかない、そう宣言するように手のひらの上で炎を燃やす。

「フィーユ、風を貸してくれ」

 火炎球がクロの手を離れ、私の正面で止まった。

 彼の意図を汲み取って、棒の先端に素早く魔法陣を展開。なるべく広範囲にと意識した風で、クロの火炎を前方へ広げる。降り積もった雪が溶け、メメリカさんの文字を掻き消す。

 再び、文字。

『わたしは誰も傷つけたくない』

 文字を確認した直後。まばたきの間に冷気が凝結し、巨大な雪の壁が現れた。なんて展開の速さなの!?

 疎に生えた樹を薙ぎ倒しても緩まない力。自らのメッセージさえ踏み倒して、無表情にこちらへ迫ってくる。上か横か、でも範囲が広すぎる、判断が遅れた、逃げる時間が足りない!

 素早くクロが私の前に出た。
 無詠唱、無描陣。右腕を前へ伸ばすだけ。

 指先に接触するかしないかというタイミング。熱源から雪壁を「まばたきの間」に駆け抜けた熱波。巨大な雪塊が悪夢だったかのように完全消滅した。

 安堵の息を吐く暇は、ない。

『傷つけたくない』

 壁の消えた向こうに、今度はそう書かれていた。

 はっと周囲を見回す。全方位の地面から、植物を模した白雪が立ち上がる。無数の細い蔓が、私達を拘束しようと迫ってくる。

 私はクロの背に自分の背を合わせ、足元に巨大な魔法陣を展開。その間の第一波、第二波は、自律式の火炎の蛇3体が、周囲を駆け回って燃やし尽くしてくれた。

 全身の魔糸よ、地に潜れ!

 風属性、攻撃特化型の魔導士として……
 降りかかってくる全てを、刻む!

「準備完了、行くわ!
 はぁぁァァァアア!」

 火炎の蛇がふっと消える。

 吹雪を巻き起こす風さえ巻き込んで、魔法陣の外円から、雲を掻き混ぜんとばかりに立ち昇った竜巻。模擬植物を雪塊へ、更に小さな結晶へと還す。

「クロっ! あの文字は、メメリカさんからのメッセージよね!? 私達からも、彼女にメッセージを送ることはできないの!?」

 轟々と唸る風に負けないよう、受付業で鍛えた声帯を駆使して問いかける。普段は大声を出さないクロも、

「無駄だ! あのメッセージもこれまでの攻撃も、メメリカさんが意図したものじゃない! 彼女はただ他者の侵入に気づいて、出ていくように願い続けているだけだ!

 恐らく、今ここで何が起こっているかさえ把握できていない! メッセージを送ったとしても、願い自体が途絶えない限り効果がない!」

 外へ押し出そうとする「壁」。
 捕らえて無力化しようとする「植物」。

 私はぐっと歯を食い縛る。

 『願い』が勝手に暴走している……散々自分の口で言ってきたことじゃない、『彩付き』に常識は通用しないって! 『転生者』なら尚更のことよ!

 こうなった場合の私達の役目は、ティアちゃんとレインくんがメメリカさんを「止める」まで意識を引き続けること。これ以上維持すれば後に響く。魔法を解除し、地面に潜らせた魔糸を体内へ吸い上げる。

 雪の粒が、私の周囲の結界を叩いては萎んで消える。模擬植物は影も形もなかった。

 けれど……
 振り返ったその先に記された、願いは。

『消えて』

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