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第3章 明日を願う「白氷」の絶唱

42.大失敗、転じて

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「すみませんでした」

 怒っていたはずの俺は、盛大におろおろしていた。

 あのいつも飄々としているレインが、微かに震えながら頭を下げているなんて……

 翡翠色の馬車に大急ぎで乗り込んでみると、内装もとんでもなかった。

 外観は翡翠色でも、客室は白と焦茶を基調とした、上品で落ち着いた印象の室礼だった。目に優しい橙色を放つ照明はちょっとしたシャンデリア。ところどころに風をモチーフにした優雅な彫刻が施されている。

 座席はギルドのソファーよりふわふわ、状況が状況じゃなかったら背中を預けた瞬間に即入眠できるほどのふわふわだ。しかも、座席の下は収納扉になっていて、それぞれの荷物をすっかり呑み込んでしまった。

 カーテンは繊細なレース編みのものと、深緑色の地に金糸で控えめに刺繍の施された厚手のものの二重体制。

 おまけに、飛行中全く揺れない。御者……いや王国騎士様が天馬達に、鋭く威勢の良い出発の号令をかけたのを聞き、窓が切り取る風景が滑らかに流れ始めたのを確かめていなければ、カルカの大地を離れたことさえわからなかっただろう。

 レインは普段の軽やかさを感じさせない低い声で、

「呼んだのは確かに私……オレです。だが、こんな筈じゃなかった……4人乗りの馬車を一台手配してくれって頼んだだけで……いや、それだけしか伝えなかったのが間違いだよな……もう嫌がらせじゃねえか完全に、マジでいい性格してるよ、人のこと言えねえけどさ……」

「れ、レイン……そう気を落とさずに……快適な空の旅が楽しめそうで、むしろありがとうと言わせて欲しい……!」

「そ、そうですよっ! ティアなんかがこんな素敵な馬車さんに乗って良いのかなって申し訳なく思っちゃいましたけど、今は何だか童話の中のお姫様になった気分ですっ!」

「いや、姫君御用達のはこの程度じゃ……つーか大将、アンタ乗り込むときに真っ青になってたでしょ……気ぃ遣わなくてもいいですよ、はは……」

 ほ、本気で落ち込んでしまっている……乗り込む前までは爽やかににこにこしていたけど、どうやら痩せ我慢だったようだ。一体誰に馬車の用意を頼んだのだろう?

 フィーユが翡翠色の瞳をじとーと細めながら腕を組む。レインを魅了して止まない胸が持ち上がるような格好になっているが、彼に顔を上げる余裕はなく。

「レインくんって、あんまり失敗したことないでしょう? いいえ……レイン・ミジャーレっていうのは偽名で、本名は別にあるのかしら?」

「ふぃ、フィーユ……」

「止めないで、クロ。これから挑むのは一筋縄ではいかない依頼よ。この馬車の件がなくても、道中で問い詰めようと思っていたの。少なくとも私は、素性のはっきりしない人に背中は預けられないから」

 厳しく情け容赦のない口調だった。けれど、他でもない幼馴染のことだから何となくわかる。

 こうして疑うのは、パーティ全体のため。フィーユは滞りなく任務を遂行するために、不安要素を可能な限り潰したいのだ。俺とティアの初依頼でも、依頼主との交渉で、念入りに確認を繰り返していたのを思い出す。

 そして。逆に言えばそれは、目の前にいる人間を信じようとしている証でもある。

 ようやく頭を上げたレインは、両膝を掴む自分自身の手の甲に憂いを帯びた視線を落としていた。

 けれど、やはり決断は早く。

「フィーユちゃん、それにティアちゃん……君達のような、清く誇り高い女性達に対して、身分を欺いていたことについても謝らせて貰う。レイン・ミジャーレは、確かに偽名だよ」

「え……? そ、それって、あのぉ……レインさんはレインさんじゃない、別のどなたかだったってこと、ですかぁ……?」

「ごめんな、ティアちゃん。
 『ベルスファリカ』。それが、オレがこの世に生まれたときにいただいた名だ」

「ベルスファリカ、って……まさか、ベルスファリカ・リグ・ラーヴェル!?」

 フィーユが瞳を真ん丸にし、ふわふわの座席から弾かれたように腰を浮かした。

 俺も驚きはしたけれど、真実を知ったのは『大禍』との戦闘直前で、まともな精神状況ではなかった。だから比較はできないが、幼馴染のこの驚き様は尋常ではないような……?

 呆然とした表情になったフィーユは、すとんと腰を落として、

「信じられない、厄介なはずだわ……軍務卿ラーヴェル様の第三子……ブラマリア動乱の折に、12歳って若さで将に抜擢された、あのベルスファリカ様だったなんて……」

 ブラマリア動乱で、将を?

 亡くなる前の父さんに聞いたことがある。ケラス教の異端の指導者が、王都北方に位置する都市・ブラマリアにて挙兵。一時は都市の中枢が占領され、王国軍及びケラス教団による大規模な鎮圧作戦が展開された、と。

 思い起こせば父さんは、その動乱において、俺とそう年齢の変わらない名門貴族のご子息が将として活躍したらしいと話していた、ような……ぐっ、自分の修行にばかり気を取られていたことが情けない!

 アンゼルでの一件の後、長い眠りから覚めた俺は、レインが自室で兵法書を読んでいるのを見た。ガレッツェ家の捜査のためにカルカを訪れていた王国軍兵が、「大禍」に対抗するため彼に助力を求めていたのは、既に実績があったからだ。

 レインは俺のことを大物と言ったが。彼の方こそ、その知略と武勇で以て、若くして見事な戦績をおさめた大物じゃないか……!

 正体を晒したレインは、やはりどこか寂しげで。

「光栄だな、君に知って貰えていたなんて。あれはうちの領地が近いって理由で駆り出されただけなんだが……どうか、様とつけて呼ぶのは勘弁してくれ。オレは……君達の傍にいる間だけでも、ただのレインでいたいんだ。この名はオレの、抵抗の証だからさ」

「抵抗の、証……」

 フィーユは俯きながら、レインの言葉を繰り返した。瞳には葛藤が映っている。名家に生まれた彼女だからこそ、見えるものがあるのだろう。

 一方、ティアの方はというと。

「よ、良かったあ……」

 安堵に微笑んで、小さな背をふかふかの背凭れに預けた。耳からも力が抜け、とろんと前に傾いている。

「レインさんの中からぱっと、別のどなたかが現れちゃうのかと……本当のお名前が違っても、レインさんは別の方じゃなくて、あたしたちの大切な仲間のまま……レインさんのまま、なんですよね?

 ええっと、上手く言えないんですけど……あたしは、お母さんのことをお母さんって呼んでますけど、お母さんにも名前があって、名前で呼んでる方もいて……きっと、そういうこと、ですよね?」

 ティアがはっと、その場にいる全員の視線が自分に集中していることに気づき、あたふたし始めるまで……俺と同じように、レインもフィーユも、彼女の言葉を咀嚼していたんだと思う。

『良いこと言うね、ティアちゃん』

 京さんの声。これまでのやりとりを聞いていたらしい。俺は心の中で同意する。

「あ、ああああのっ、あたし、また変なこと言っちゃいましたぁあ……!?」

「いいや。全然、変じゃない。
 ……そういうこと、なんだよな?」

「ふふっ、ええ、そういうことにしておきましょう! 疑惑は一応晴れた、レインくんの懺悔のお時間はここまで。空の旅はまだまだ長そうだし……私達のパーティ名でも考えておく?」

 フィーユが、パーティ名を?

 偉そうなことは言えないのだが、フィーユの命名のセンスは、昔から独特だ。例を挙げるとするなら……ドレスリート家の自室にある、大きなネコのぬいぐるみの名前はドコドコという。

 そのふっくらと形の良い唇から、今回はどんな味のある名前が飛び出すのだろう。俺が身構える前に、レインが再び頭を下げ、

「寛大な我が同胞たちに、感謝を。オレは確かにしくじったが、結果は案外……悪くなかったな。

 さて、ここから先は通常運転で行かせてもらいますよ。改めまして、よろしくお願いします」

 その笑顔は、いつもよりも幼く見えた。
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