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第3章 明日を願う「白氷」の絶唱

40.あなたの力になりたいから

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【フィーユ・ドレスリート】


 強さ、というのは相対的なものだと思っていた。

 『一人の魔導士が立ち尽くしている』。それだけの状況で強さを測ることはできない。

 各職級の基準となる難易度の魔法を、特定の相手に対して成功させてみせること。基準となる相手を討ち倒してみせること。それらが、ギルドにおける強さの証明になる。

 けれど。一人と一人が優劣を競ったとき、職級は意味を成さない。相手の命という権利を奪い取ったものこそが、勝者となり、強者となる。だから、強さは相対的なもの。

 ……そう思っていた。

「はあッ!」

 横一閃。リーチというアドバンテージを活かし、間合いに入ってきた影を狙って、得物を振り抜く。

 魔物との戦闘時と変わらない速度、威力。わかっている、これは訓練。でも……出し切らなきゃ追い縋れない、彼にとっての訓練には到底ならない!

 当然、断ち切ったのは影だけだった。どこへ避けられたのか、風の微かな流れと熱から読み取って、

「ッ、せえぁあああっ!」

 先端で円を描くように、上から叩きつける。空を切って勢いのままに地面を打つ重い衝撃、ここにもいない!

 まだまだ逃がさない、素早く右へ払って、

「っ!」

 更なる重みに、腕がじんと痺れる。

 武器が、私の手を離れた。
 飛んでいき、跳ねて、転がって、止まる。

 浅く荒くなった呼吸と、どっどっと走る心臓が生存を主張している。これが訓練じゃなかったら、どちらもとうに止まっている。

 彼が、私の首筋に無骨な片手剣の鋒を当てないのは、敢えて宣言する必要がないからだ。

 対峙するたびに、思い知るの。
 絶対的な強さが、存在すると。

 圧倒的な敗北。私の……15敗目。

 雑に切り揃えた黒髪が、穏やかな風に揺れている。瞳の紅は艶やかで、縁取る睫毛も長く密生している。私の足元を見つめているようだけど、恐らくは私を見ていない。

 先程の一本を通して、見えたこと。殆ど条件反射で重ねていった情報を反復し、整理し、言語化しようとしている。

 やがて、彼は今度こそ私を……私の瞳を見た。
 準備が整った合図。

 私は、余韻でなお跳ねる胸に右手を当てて、最早癖みたいになった強がりで、笑う。

「聞かせて。今の私、どうだった?」

 『熟練の戦士はあらゆる戦いから学ぶ。その相手が、台所を駆け抜けるネズミ一匹であろうとも』。そう聞いたことがある。

 ようやく三級を掴み取った。それでも、私はきっと……ネズミにさえ、なれていない。





 よく陽の差し込む窓辺。綺麗に並べられた鉢の中で、うんと身体を伸ばした緑が、鮮やかな花を咲かせている。手入れがよく行き届いているのがわかる……オウゼに滞在している間は、大家さんにお世話をお願いするらしい。

 話題に出た2羽のうさぎのぬいぐるみは、ベッドに仲良く座っていた。

 荷造りのお手伝いは終了。これまた可愛い丸いテーブルに向かい合った椅子はひとつ。ティアちゃんは私にその椅子を譲ってくれて、自分はベッドの上で正座している。その後ろにうさぎさんがいるから、きょうだいみたいで微笑ましい。

 ふーふーしてから、橙色のどっしりとしたマグカップに口をつける。すっきりとした苦味と爽やかな香り……心の中に立ち込めていたもやもやを、そっと払ってくれるような。

 ほっと息を漏らすように、

「……美味しい」

「ほ、本当ですかっ!?」

「うん……とっても優しい味! ティアちゃんのお母さまは素晴らしい方ね、可愛いうさぎさんを作れるし、こんなに美味しいお茶を調合できるんだもの!」

「えへへ……ありがとうございますっ。お母さん、絶対に喜びます……」

 ティアちゃんは、ほっぺをふにゃーとさせて笑った。可愛い耳が前後にゆらゆらしてる。自分のことを褒められると戸惑っちゃうけれど、家族への賛辞はすごく嬉しそうだわ。

 マグカップを両手で包み込んで、尋ねてみる。

「一人暮らし、寂しい?」

「……はい、ちょっぴり。あうっ……でも、フィーユちゃんやクロさんやレインさんが仲良くしてくださるから、最近は寂しい気持ちが、本当に本当にちっちゃくなって!

 今回のお仕事は一緒に遠出ですしっ、皆さんの足を引っ張らないように頑張ろうって気持ちでいっぱいで! それに今は、フィーユちゃんがそばにいてくれてますし……えへへ」

「もう、そんな嬉しいこと言われちゃったら、またお邪魔しちゃうわよ? ふっふっふ~、しかも今度はレインくんのときみたいに突然!」

「ふえぇっ、お、お掃除のお時間がぁああっ!? で、でもでも、フィーユちゃんなら、いつでもようこそって言えちゃうかも……?」

 ティアちゃんはまた、ふにゃーと笑う。

 ティアちゃんはきっと、大切な誰かのためならどんな困難にも立ち向かえる人なんだわ。

 危機に直面したとき、その人達のことで思考が満たされるあまり、自分のことは後回しになっちゃう……そういうところが、クロに似ている。

 初めはライバルだと思っていた。
 今も……そうなんだと思う。

 でも、この子は私のことを無垢に慕ってくれている。そして私も、この子のことがすっかり大好きになってしまった。勝手に対抗心を燃やしていた自分が、何だか恥ずかしい。

 本当に、私は、幼馴染のことになると……

『フィーユ。訓練に付き合ってくれて、ありがとう。時間を割いてくれた分を無駄にはしない。
 ただ……無理は、しないで欲しい』

 水分を摂りながら、木陰の大岩に座っていたとき、同じ岩にもたれかかっていたクロがそう言った。

 感情の起伏はあまりない。けれど、幼馴染だからわかる。あの言葉に込められているのは、彼の純粋な優しさなんだ。

 ……紅炎で、零級で。痛いほど、わかっているのに。今回の依頼では隣にいられる、それなのに。

「……フィーユちゃん?」

 ティアちゃんが少し首を傾げて、琥珀色のつぶらな瞳で私を覗き込んでいた。

「ん、なあに? あっ……ごめんね、ちょっとだけぼんやりしちゃっていたかも知れないわ。あはは、ティアちゃんのお部屋、本当に可愛くて居心地が良いからつい、ね?」

「そ、そうなんですか? あの、そうだったら、それはすっごく嬉しくて、光栄なことで……でも、ティアなんかが、こんなこと言うのは恐れ多いんですけど……」

 自分なんか、なんて言わないで?

 いつもの私なら、そう笑うことができたと思う。だけどできなかった、全然余裕がなかった。澱みのないつぶらな瞳に、何もかも見透かされているようで。

 ティアちゃんは迷いながら、

「何か、悲しいことがあったのかなって……はわぁっ!?」

 取り柄の強がりが、剥がれて落ちた。
 もう。本当に、自分に腹が立つ……

「も、もしかして、やっぱりお茶、お口に合いませんでしたぁあ!? だから、我慢できなくて涙が……っ、ご、ごめんなさいぃぃ!」

「違う、違うの……! お茶が美味しくて、ほんの少し気が抜けちゃっただけ……本当にそれだけなの、何でもないのよ……びっくりさせちゃって、ごめんね…………っ、私らしく、ないよね……がっかり、させちゃうよね……!」

 笑えたのは口元だけ。だから、震える両手で顔を覆って俯いた。自分の弱さを、醜さを、これ以上曝け出したくなかった。

 明け方に雪のしんしんと積もるような、静けさ。

 やがて、ベッドが微かに軋む音がした。私の隣へ歩み寄ったティアちゃんは、恐らくは沢山迷った後に、小さな温もりで私を包み込んだ。

 これは、豊穣の香りだわ。
 草花の咲き乱れた大地の香りが、焦茶色のブラウスから漂っている。

「ご、ごめんなさいっ! フィーユちゃんを泣かせてる理由さんがわからなくて、ごめんなさい……いきなりぎゅってして、嫌だったらごめんなさい!」

「ティア、ちゃん……」

「頼りないかも、知れませんけど……その、ティアが、おそばにいますよ!? あたしがフィーユちゃんに、たくさんたくさん、支えてもらってるように……クロさんのお力になりたいって思うのと同じくらい、フィーユちゃんのお力にも、なりたくて……う、うぅぅ、お、おこがましくてごめんなさぁぁあい!」

 もう、もう、私の馬鹿……ティアちゃんまで泣かせちゃったじゃない!

「ありがと……」

 私は、ティアちゃんを抱き締め返した。今度は、無理矢理に口角を動かさなくたって笑うことができた。ううん……心の底から嬉しくて、思わず笑ってしまったの。

 それでも、涙は止まらなくて。

 どうするのよ、この状況! 収拾つかないわよ、何とかしなさいよ、『諍い起これば笑顔でとめる』カルカギルドの受付嬢でしょ!

 できないなら……
 ううん、今はできなくても。

 そうよ、自分で言ったんじゃない。
 貪欲に経験を積み重ねるのみ、だって。



 結局、やがてオウゼへと旅立つ2人の女性職員は、それからしばらくの間、2人して泣いていた。

 そして。真っ赤になったお互いの目を見て、白うさぎさんみたいねって笑い合った頃には……私の中のもやもやは、綺麗さっぱり消え去っていた。
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