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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

24.俺と僕の違うこと

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「少しややこしい話になるんだけど……僕はくろと、視覚と聴覚を、ほぼ共有できるんだ」

 京さんは、視覚と言うときに右目を、聴覚と言うときに右耳を指差した。

「嗅覚、触覚、味覚……それから、君たちの言う魔力やその糸も、全くってわけではないけど、少なくとも君のようには感じられない」

 嗅覚と言うときに鼻を、触覚と言うときにもう片方の手を、味覚と言うときに唇を。そして魔力のことを言うときには、宙にすっと一本線を書いて見せた。

「共有って言っても、ずっとじゃない。殆ど僕の任意で、君の目か耳を借りるか、それをやめてここに引きこもるかを決められる」

 ここ。

 俺は、改めて周囲を見回した。間違いはなかった。文机の上に置かれた薄っぺらな機械の箱、よく陽を浴びるよう隅に飾られた、ぷくっと膨れてトゲトゲした植物の……サボテンの小鉢。本棚に大きさを合わせて丁寧に並べられた本。

「……京さんが、生活していた、部屋……」

「覚えてるんだね、なんだか嬉しいな。そうだよ、ここは僕が死ぬまで住んでいた、実家の部屋を再現してるんだ」

「……再現」

「ここはある程度、僕の思う通りになるんだよ。たとえば、さっき出したお水もそう。他には……こんなこともできたりする」

 京さんは窓を振り返った。たちまち青かった空に夕暮れの赤みが差し、それも息を呑む暇に過ぎて、夜闇に星灯りがまたたきはじめた。

 京さんが立ち上がり、照明から下がっていた紐を引く。暗くなった部屋が光に満たされた。明かりを灯すのは、手動が良いらしい。

 よいしょ、と言葉を漏らして座り、

「お腹がすくことはないけど、その気になれば、ぱっと食べたいものも出せる。お風呂にも入れるし……休みたいときにはこうやって夜にして、目が覚めるまで眠るんだ。そういうシステムだから、朝日が眩しくて目を覚ます、ってことはないんだけどね」

 頭が上手く働かないなりに思考してみた。京さんはどうやら、ここでの生活に不自由はなくて、むしろ快適だと言いたいんだと思った。俺に、心配要らないと言いたいんだと思った。

「えっと……話を戻すね。さっき言った通り、僕はくろの意思に関係なく、くろの見ているものをこっそり盗み見できたり、くろが仲間と『悪巧み』してるのを盗み聞きしたりできるんだよ。

 これが謝りたいひとつめのこと、プライバシーの侵害。今まで無断でやってきちゃって、ごめん」

 俺には、わからなかった。

「この身体は……あなたの、ものでもある。気持ちはありがたいです、でも……謝らないとって思う必要は、ないような、気が……」

「……僕のものでもある、か。うん……うん、確かにそうだよね。でも……それはすごく、繊細な問題だ」

 京さんは微笑んだまま、少しだけ視線をうつ伏せた。けれど俺が次にした質問で、長めの睫毛を閃かせるようにしてこちらを見た。

「京さんは、この身体を、使えないんですか」

「……それは、くろとして?」

「あなたとして。藤川フジカワケイとして、俺の事情を知っている、誰かと話をしたり……」

「フィーユちゃんとか?」

 頷くことができなかった。

 フィーユは俺の事情を知っている。約束通り、俺は俺であり、京さんは京さんのままだ。そう説明して京さんに身体を譲ったとして、フィーユはどう思うんだろう?

 京さんは眉を下げて笑った。

「くろの幼馴染、色々と完璧だよね。僕にも幼馴染がいたんだけど……大人しくて普段は無口なのに、意志は鋼の強さの子でさ。よく……うん、『進路相談』してたな」

「進路、相談」

「あなたの夢はなんですか、ってやつ」

 胸が締めつけられる、ような。

 京さんの部屋には、記憶と違わず扉がある。その扉を開けたとしても、京さんは家族や、幼馴染に会うことができない。会うことができたとしても……それはきっと、精巧に再現された「人形」。

「そんな顔、しないで?」

 優しい声。

「……俺は、どんな顔をしていましたか」

「えーと、すっごく優しくて、すっごく悲しそうな顔。

 夢の途中に不慮の死を……みたいな言い方しちゃったけど、そもそも僕には夢なんかなかったんだ。ただ、ぼーっとしながら平穏に毎日を過ごせれば、それで良いかなって思ってただけでさ」

 英雄とか無理。
 平穏に、今度こそ長生きしたいし。

 夢なんてないと言うけれど、かつて聞いた言葉は、紛れもない京さんの夢だ。そして今は、俺の夢でもある。

「あはは、また脱線してるや。さっきの質問に答えるね。確かに、僕は君の……いいや、僕らの身体を使うことができるよ。

 意図してではないけど、君が意識を失ったときに一度だけ、僕が外に出てしまったことがあるんだ。それも、黙っててごめんなんだけど」

 俺はまばたきを繰り返す。
 外に、出てしまった?

「う~ん……未だに原因はわからないんだけど、気づけばせんせい……サリヤさんの前でさ。わりと大変な目に……あ、いいや何でもない」

「せ、師匠せんせいの前……!?
 立ち姿だけで既に弱いとか、酷いこと言われたりしませんでしたか、もしかして俺の代わりに鍛錬を……貴様の一振りの間に一睡できるとか、わけのわからない理不尽を」

「ストップストップ! ほんのちょっと話をしただけだよ、一度寝たらすぐにこっちに戻れたし? あれから僕が外に出たことは一度もないし、たまたま何かの条件を満たしちゃってたのかもね、あは、ははは……」

 確かにあの人相手だと、ほんのちょっと会話を試みるだけで大変ではある。無邪気だった頃はあの人の凄さを全力で尊敬していたんだが……京さんのこの様子、確実に何かしらの被害に遭っているよな……

「代わりにお詫びします、すみませ……」

 あれ。

 ようやくはっきりしてきた視界が、また暗く……? 確かに感じていたベッドの温もりが、緩やかに遠ざかっていく……

「くろ? くろ、眠いの? あ、もしかしてタイムリミットかな……やばっ、一番謝りたかったこと、言えてない!」

 黒く、目の前を閉ざした幕が燃えていく。
 ああ、そうか。紅の中に、戻って……

「おーい、くろー! お願いだ、届いてくれ……僕の独り言を聞かせちゃって、ごめん! 話そうとしてくれたのに逃げて、ごめん!」

 京さんの叫ぶ声がした。
 大声を出すのに慣れていないんだろう、今にもひっくり返ってしまいそうな声で、

『僕はそばにいるから! 迷惑にならないように、でも、ちゃんとそばにいるから! 僕が必要になったら、今度はちゃんと……!』





「……い、さ……あり、が……
 ん、ぅ……、ん……?」

「はあ~……何が『明後日の朝』ですか、もうすぐ昼なんですけど。すやすや静か~に寝てくれてたんで助かりました、イビキとか煩かったら耳栓買わなきゃなんねえかと思ってたんで」

 のりで貼り付けられていたかのような目蓋を抉じ開ける。知らないかどうかもわからない、ありふれた白壁が目の前にあった。

 ぱち、ぱち、ぱち。
 ぼーっと、まばたきを3度繰り返してから……

 俺は素早く上体を起こす。状況を確認するべく振り返ると、左のこめかみに、低級の雷魔法のような細い痛みが走った。

「つぅ……ッ!」

「いやいや、寝起きでそんな俊敏に動きます? それはそれは長い間ずーっと寝てたんだし、そりゃ頭痛も起きますって」

 呆れ果てたレインの声。
 サイドテーブルにかつんと音を立てて置かれた、水を湛えたグラス。

 見上げると、レインは紫色の垂れ目を細め、尖った犬歯を見せてにっと笑った。

「おはようございます。ここはカルカ、狭苦しいけど快適なオレの下宿先です。

 ちゃんと勝って……いや。
 生き残っておきましたよ、大将」
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