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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

23.瓦解の果てに墜ちる

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 カイグルス・ガレッツェは、アンゼルの馬車通りに飛び出した。芦毛の馬の高い嘶きとともに停車した、2人乗りの馬車に、転がり込むようにして乗車した。

 顔色は青褪めて、呼吸は荒く。態度も強引で、激しく焦り憤り、今にも何かを蹴飛ばしそうなほどだったので、御者は「面倒な客を乗せたもんだ」と早々に後悔した。

 カイグルスは、実家の在るカルカへ最速で走るよう依頼した。御者が料金を提示するとその奇妙な客は、家にいるもんが支払う、とだけ言い黙り込んだ。御者の座る位置まで振動が伝わるほど、大袈裟な貧乏揺すりをしながら。

 カイグルスは帰路を辿る最中、繰り返しこう言い聞かせていた。

 「あれ」は人間ではない。ヘラヘラした優男の皮を被った魔物だ。きっと「あれ」に心臓はない。心を持たない魔物の言うことなんて嘘っぱちだ。真実であるはずがない。



『オレの標的は、正確に言えばアンタではなく、ガレッツェ家そのものだった。まあ……もっと正確に言えばそれも違うが、アンタに明かしても意味ないですからね。

 どうしても「紅炎」が欲しかったでしょ? 純粋に「ムカついてた」って理由もあるだろうが、あの子分だけじゃ承認欲求を満たすには足りませんもんね。アンタはどんな手を使ってでも勝ちたかった……そういう場合、アンタは必ず、パパとママにお願いする。

「絶対に勝つことができる舞台を用意してくれ。僕にアドバンテージがある魔物を用意し、僕に都合の良いフィールドを提供してくれ。こんなに優秀な僕が、真正面から敵に挑めないのは、パパとママが僕に魔力をくれなかったせいなんだから」』



 違う。違う。違う。

 カイグルスは頭を掻きむしった。岩のように育った手……全ての指にはめた、自らの力の証である指輪が、頭皮に擦れて痛みを覚えさせる。

 俺様は間違っていない。俺様はしくじっていない。俺様は負けていない。俺様の駒がなくなるなんて、そんなことは起こり得ない。

 何とかしてくれる、必ず何とかしてくれる。望めば何もかも叶えてくれた、今まではずっとそうだった。これからも、そうだ。

 まだ着かねえのか、遅えぞ。
 カイグルスは吠えたが、舌がもつれ、意味をもたない呻き声として虚しく響いた。

 時間の流れが酷く緩やかに思えた。これで最後ではないのだと、一刻も早く確かめたいのに。

 先に、夜が来てしまう。



『先攻はオレらでしたよね。アンタとアンタのご両親に、望み通りの手札を引いてもらえてほっとしましたよ。

 ティアちゃんとオレは新人で、ギルドに蓄積された情報量はかなり少ない。オレに至っては、これが記念すべき初依頼ときた。

 さあ、「恐らく紅炎に頼り切りだろう六級と、よくわからないけど自分より格下っぽい相手」が、最高の駒をちらつかせて挑んできましたよ。何をぶつけましょうか? 

 アンタはティアちゃんやオレが死のうが何とも思わないでしょう、それどころかせいせいするかも知れませんね。でも、アンタのご両親は違った。禁忌に触れながらも、自分たちの行いによって誰かが損害を受けることを恐れていた。

 だから「紫影」を相手に選ぶと思いました。あの魔物は、オレ達が真っ向からきょろきょろ探し出そうとしたって姿を現しちゃくれない。2人ペアで、互いの視界を補い合っていれば尚更です。それに出発は、依頼を決めてすぐだった。オレたちが攻略法を既に知ってるなんて、思いもしませんでしたよね?

 依頼人にはいつも通り、表向きにはガレッツェ家と無関係な商人を見繕って……とまあ、細かい話を並べ立てるのはこれくらいにしましょうか。これ以上は「他」が調べることですからね。オレがあんたに言わなきゃならないことは、ひとつだけです』



 そうだ、そういうことじゃねえか。

 散々ぐしゃぐしゃになった認識を、なお抱きしめる。

 ひゅー、ひゅー、と喉の奥から音を漏らしながら、カイグルスは唇の端を歪に上げた。

 俺様じゃねえ、俺様じゃねえ。あいつらがしくじったんだ。あのペテン師に、ギージャが魔石を盗られたから。あの老いぼれどもが、マシな策を考えつかなかったから。だから負けたんだ、俺様は悪くない。

 俺様に責任はない。俺様は、罰されない。

 御者は度々、恐る恐る背後を覗き見ながら、このおかしな客の様子が、前をひた走る馬たちに影響を及ぼさないよう、神経を張り詰めなければならなかった。

 アンゼルとカルカの間を移動する客は大勢いるが、今日はどうやらついていない。今夜はカルカの酒場で強めの酒を飲まなければ、上手く寝付けないかも知れない。



『魔物を創る……こいつは重罪だ。オレみたいなのが企みを暴けるんです。ギルドの勘のいい誰かか、あるいは耐えきれなくなった身内が密告を済ませ、国軍の捜査の手はもうすぐ側まで来ているはずだ。もうじき春が来るが……アンタの両親、特に父親の方は、もう故郷に花が咲き乱れる様を見ることはできないでしょう。

 オレが言うのもなんですが、法の番人はつれない連中です。地方で生まれ育ったからそんな法律は知らなかった、なんて、どんなに言い張っても通用しません。最早どんな理由を説明しようが……いや。

 もしも、の話ですけど。罪の所在に関する重大な証言があれば……もしかすると寿命までは、生き繋ぐことができるかも知れませんね』



 馬車が止まるなり、カイグルスは客席から転がり落ちて、黒狼のように姿勢を低くし、喘ぐような声を落としながら走った。

 御者は思わず、毛のまばらになってきた側頭部をガリガリと掻く。幾度もまばたきを繰り返しながら見やるも、間違いはなかった。土色の大路の前方に停まっているのは、囚人を輸送するために用いられる、国軍の鉄の馬車だ。

 星がまだ目を閉じる薄闇の中に、ガレッツェ邸は煌々と浮かび上がっていた。

 全ての部屋の灯りが灯されている。それだけではない。紅の徽章を胸に縫い付けた、ベージュの軍服を纏った集団……シェールグレイ国軍が、持ち運びが可能な簡易照明を手に、屋敷を取り囲んでいた。

 そして、カイグルスは見た。

 重たげな手錠を嵌められた父が、母が、深く項垂れながら、自分より大柄な兵士たちに連行されていく姿を。

 脚から力が抜け落ち、カイグルスはがくりと膝をついた。不審に思った兵士の一人が彼に誰何し……その声にはっと顔を上げたガレッツェの当主は、それまでの従順な態度が嘘だったかのように抵抗を始める。

 その抵抗は勿論、自らとその妻のためではなく。

「カイグルス! カイグルスッ、私たちのことは放っておいてさっさと行きなさい! お前を尊敬してくれる仲間のところへ、早く……ああ、兵士さんたち、あの子は無関係です! 全ては、私たちが知的好奇心を満たすためだけに行ったことなんです! あの子は無関係だ、あの子は、私たちの子は、」

 父は必死に、息子は潔白だと繰り返した。母は静かに項垂れたまま、目に涙を溜めて、

「ごめんなさい、カイグルス……今年のお誕生日は、一緒にお祝いしてあげられないわ……いつものケーキ、用意できなくて、ごめんなさい……ごめんなさいね……」



 もう誰のものかわからない、無数の指が。
 彼を指していた。糾弾していた。

 罪を叫ぶ、ひとつひとつの声は小さい。積み重なってもまるで聞こえなかった。他者を嘲り笑う自らの声で、何もかも掻き消してきたのだから。

 だが、にわかに足元が揺らぎ、瓦解して初めて、罪の所在をようやく知る。

 カイグルス・ガレッツェは、天を仰いで咆哮した。声が枯れ、血の味が喉に迫ってもなお、長く長く、ああ、ああと、傍に立つ兵士にとっては何の意味も持たないただの一音を叫び続けた。

 天上の星々は何事かと目を開き、そして見届けることになる。渇望に溺れ続けたとある一人の男と、彼を愛し続けた家族の結末を。
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