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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

11.狙撃手・四級

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 カロローンと、入店を伝えるドアベルが明るく鳴る。視界がひらけると同時に、俺は後悔した。
 飲食店、のようだった。他に客の姿はない。
 飴色をした猫脚の椅子が向かい合うのは、端にレースをたっぷりとあしらった、純白のクロスが掛けられた一本脚の丸テーブル。テーブルの中央には、まだ寒いこの季節に南方からわざわざ仕入れているらしい小さなブーケが、これまた丸っこくて可愛らしいガラスの花瓶に生けてある。
 床は白とピンクのチェック柄で、フィーユの父さんが時々やっている盤上遊戯の駒になったような気分だ。壁と天井を構成する木材は、カルカの建築物に一般的に用いられているサウリ材のようだが……壁には画題をぴたりと当てるのが至難の業どころか不可能だろう抽象画が飾られ、天井から吊り下がった照明は、教会のシャンデリアに似た煌びやかなものだ。
 カウンター席もいくつか用意されている。その向こうで、のんびりした仕草でカップを磨いているのは、赤毛を高い位置でくるっとお団子にまとめ、ゆったりとしたピンク色のワンピースに純白ヒラヒラエプロンを合わせた女性だった。その衣装がよく似合うくらい童顔だけれど、醸し出す雰囲気からして二十代後半くらいだろう。
 そして、彼女の背後には、コーヒー豆の入ったガラス瓶がいくつも並んでいる。うう……これだけ様々な種類を飾ってあるということは、ここは、コーヒー専門店なのか……?
「ハーバルさ~ん、貴女のレインが来ましたよ~! いやあ、片恋がこんなにつらいなんて知らなかったなあ、たった二日間顔を見ていないだけで、この胸がしくしく啜り泣いてさ……って、大将? 何突っ立ってるんです? 言いましたよね、ここはオレの奢りだって」
 ここまで案内してくれた「彼」の二重人格っぷりに、突っ立っていた俺は一歩後退した。
 ええと……片恋? ここに辿り着くまでに散々ティアに、
『駄目だなあ、オレ……君のその耳、チャーミング過ぎて直視できないよ。こんな可愛い罪、あるんだな』
 とか、
『焦らなくて構わないぜ。気持ちを落ち着かせるためにも、ゆっくり歩いて行こう。ほら、まだ花は咲いてないけど……代わりに、オレの笑顔は満開にしとくから、さ』
 とか、よく分からないけれど絶対に声に出して読みたくない台詞を微笑みながら告げたり、ティアのふわっとした横髪をその長い指でそっと掬ってみたり……あからさまに好意をぶつけるような言動を全力でしていたけれど、もしかしてこの人物は複数の女性に、その……片恋? をしているのか? それって何と言うか……アリ、なのか?
 ……いや、それはまあ、一旦置いておくとして。
 長い耳を激しく上下にシェイクする、ティアの初対面の人に対する爆速お辞儀をどーどーと止め、店内のちょうど真ん中あたりの席に座らせてから、「彼」……同期の一人であるレイン・ミジャーレさんは、俺にも来い来いと手招きした。
 しかし、俺は目を逸らす。
「いや、その……遠慮、しておきます。俺は、外で待っています」
「はあ? 何でです? 俺がティアちゃんと2人きりになっても良いんですか? ……ん? 麗しのハーバルさんも傍らにいるし……ちょっと待てオレ、もうこの状況って両手に花じゃねえか、はぁ~最高だなァおい!」
「うふふ~、レイン君は本当に面白い子ね~。でも、確かにこのお店、私の好きなものを突き詰めているから、男の子はちょっと入りにくいのかも~」
 のんびりとした印象そのままに、ハーバルさんが鼻歌でも歌うような調子で言葉を紡ぐ。
 そうだ、それもある。このお店は可愛すぎて、男子には入りにくい。外食なら頻繁にしているものの、十割が「屋外」での食事である俺には尚更ハードルが高い。だが、一番の理由は……
「……苦手、なんです」
「苦手? 主語忘れてますよ、大将」
「くうッ……こ、コーヒーが、苦手なんです! 他の薬粉なら水なしでも飲めますが、コーヒーの苦味だけは駄目で……どんなにミルクを入れても飲めず、ならば砂糖をと試してみても、飲めるレベルの甘さまで入れるとジャリジャリした飲み心地になってそれはそれで苦行で、そうこうしている間に母さんは俺にコーヒーを飲ませるのを諦めて……」
 俺の悲痛な告白を聞いて、レインさんは垂れ気味の目を丸くした。雷霆の、紫色の瞳をしていると、その時初めて気がついた。
 レインさんは左手を腰に当て、前髪に右手の指を差し入れながら逡巡してから、
「……大将。アンタ、喫茶店って入ったこと、あります?」
「あり、ます。……小さい頃に、何度か」
 確か、だけれど、前世でも、何度か。
 レインさんが盛大に溜息を吐く。
「あっちゃー、まじかー。そりゃ、噂には聞いてましたけど? まあ、その歳で『紅炎』なんて授かってるわけだし? そりゃあ、遊んでる暇なんかねえくらい訓練漬けの毎日だったろうし……他んとこがちょっとくらい欠けてても当然かな、って言うか……」
「……お恥ずかしい、限りです……」
「あのですね。ここは確かにコーヒーが絶品で看板メニューで、いつも香ばしい良い香りがしてますけど、紅茶とか他にも飲めるもんありますから、他の店とおんなじで」
「紅茶……紅茶は好きです!」
「そりゃ良かった。そんじゃ、さっさと入ってください、冷たい風が吹き込むでしょ」
 ドアを飾る色硝子が、日差しを一足早く茜色に染めていた。俺はそそくさとドアを閉め、店主さんに頭を下げてから、余っていた席に腰を下ろした。

 それから数分後。
「はぁい、いつものコーヒーに、本日の果実茶に、あったかいミルクね~。おまちどおさま、ごゆっくり~」
 三人の新人ギルド職員の手元に、それぞれ温かなカップが届けられた。
 レインさんは、それがここの常識だとでも言うかのような自然さで、ハーバルさんの手の甲を掬い上げて接吻した。硬直する俺とティアをよそに、カウンターの向こうへと戻っていくほっそりとした背を恍惚として見送ってから、
「それじゃ、自己紹介タイムと行きますか。あ、お二方はいいですよ。同期の女の子たちのことを遍く調べておくのは紳士のマナーってやつですし……野郎は正直どうでもいいが、アンタみたいな大物なら話が別です。集めようとしなくても、勝手に情報が入ってきますし、ね」
 レインさんは信じ難いことに、コーヒーに何も入れずに一口飲んだ。
「オレはレイン、レイン・ミジャーレ。生まれ育ちの話はほぼ初対面なんで割愛するとして、職級は『狙撃手・四級』です。なーんか入会試験と相性が良かったみたいで、分不相応なクラスを頂いちゃって、幸運でもあり不運でもあり、って感じですかね……ま、実質は五級そこそこだと思ってもらえれば」
 狙撃手。弓や、主に外国から入ってきた魔導銃などの武器による、遠距離攻撃を得意とする職種だ。
「あ、あのぉ……でもでも、相性が良かったからって、実力以上の職級を貰っちゃうことなんて、あるんでしょうかぁ……? やっぱりレインさんも、ティアなんか足元にも及ばないほど凄い方なんじゃ……?」
「そんな! ティアちゃん、初めて出会ったときから思っていたが、君はもっと堂々としていた方が良い! その儚いまでの可憐さの内に秘めた『膨大な魔力量』というポテンシャル、オレにはお見通し、だよ」
 ティアはレインさんのウインクよりも、言葉に戸惑ったようだった。
「えっ、えっ? 魔力量……ですか?」
「それについては俺も言おうと思っていたんだが、ティアは魔力量がかなり豊富な方だと思う。課題は……いや、何でもない。
 レインさんが分不相応だとは、実力を見ない限り分からないけど、相応しくない職級を貰うケースはあると思う。俺が、その最たるものだから」
「大将、ちょっと大好きな紅茶に癒されててくれます? 言ってることよく分かんないっつーか、魔力の『マ』の字も分かんねえようなお子様でも薄ら分かるほどの爆弾抱えといて、それで力量把握できてないっつーなら魔法控えてください、一歩でも間違ったら多分天災起きるんで、アンタの場合。ロビーで止めといてマジ良かったわ」
 辛辣だ、フィーユ以上だ、普段は魔力を制御してるから、勘が良い人でなければ気づかれないはずなのに……!
 俺は黙って紅茶を口に運んだ。苦味の中に果実の柔らかな甘み、豊かな香り……はあ、癒される。
 優しすぎるティアはおろおろと傷心の俺を見ていたが、ふっと、白地のカップに添えられた自分の両手に視線を落とした。その琥珀色の瞳はどこか迷っているようで……レインさんと俺の言った、自分の潜在能力について考えているのかも知れなかった。
「……それで、だ。
 何でお二方をオレのとっておき癒され空間までお誘いしたかと申します、と。目的を簡潔に言えば、一緒に『憂さ晴らし』しませんか、ってことです」
 穏やかではない単語に、俺はカップをソーサーに戻した。
 ブラックコーヒーを傍によけて。組んだ両腕を机上に乗せて、これから内緒話をしますよ、とばかりに身を乗り出し……レインさんは、紫色の瞳をすうと細めた。優しげだった印象に、猛禽類のごとき鋭さをした影が差す。口調も朗らかさと軽やかさを失い、俺の耳元で囁いたときのように低く淡々としたものへと変わっていた。
「カイグルス・ガレッツェとその子分、ギージャ・ぺドリー。あれはカルカの『癌』だ。
 あの場じゃ大将を止めはしましたが……正直、少しスッとしましたよ。四級なんて威張れた職級でもないのに、言い訳だけ達者で見てるのは下ばっか。カルカは全体的に職級が低めですから、アイツにとって理想的なコミュニティーなんですよ。自分より強く出られない女の子を見つけだして、優越感に浸るためのオモチャにしてるんです。
 ほら、アイツ割といい歳でしょ? ずっとああやってきて、周りからくだらねえって無視されてきて……それでも、どうしてもアイツらを無視できないような繊細な子を標的にして……過去には、アイツのせいでギルドを辞めた子がいるそうです。原因は『恐らく』って話でしたけど、ね」
『へえ……ギルドにもいるんだね、典型的ないじめっこってやつ』
 はっ、と。カップの中で凪いだ飴色の水面に、視線を落とす。
 頭の中だけで響くような、今の声は……「京さん」?
 レインさんの話を聞くうちに、ティアを侮辱されたことへの怒りが鮮やかになり、精神が攻撃的に研ぎ澄まされていって……心の内に、揺らめく火炎を視た。こういった状況下で、「京さん」の存在を感じることは珍しくない。だが、こんなにはっきりと声が聞こえたのは初めてだ。
 しかも……俺たちの会話を、聞いていた?
「どうしました、大将」
「く、クロさん……大丈夫、ですか? 何だか、ショックを受けているような……」
 はっ、と。内側から外側へと、意識が切り替わる。
 俺は茫然と、
「……ショック? そんな、はずは……」
 そんなはずはない。「京さん」は俺の中にいる、だから……その存在を感じるのは当然のことのはずだ。彼と会うことが叶うなら、会って話をしてみたい。
 でも。幼い約束をしたときの、フィーユの泣く声が、鈍い痛みを伴いながら頭に響く。
『わたしの、大好きなクロじゃ、なくなっちゃう……違う人に、なっちゃうぅ……!』
 目蓋を閉じ、頭を軽く左右に振る。切り替えろ、と鋭く念じる。
 瞳を開ける。目の前の……レインさんに視線を返した。
「……いや。ある意味では、ショックと言えるかも知れません。カイグルスに改めて腹が立ちましたし、何らかの行動に出る必要性を感じて。ティアが理不尽な侮辱を受けたことで、俺はカイグルスと明確に敵対しました。レインさんのお話通りの非道な男なら、俺と一緒にいることが多いティアやフィーユを、ますます狙ってくるかも知れない……」
「狙ってくるでしょうね、まず間違いなく。ただ、フィーユちゃんについては心配要らないと思いますよ。強くて、可愛くて、凛々しくて、家柄も申し分なく、歩くたびにサラサラストレートな美髪と、魅惑の果実が揺れに揺れて……しかも、超攻撃型の棒術使いときた……っ!」
 フィーユについて語っている間、レインさんは完全に、自己紹介する前までの調子に戻っていた。
 何故だろう。全く心配要らないと分かっていながら、カイグルスではない別の何かから、フィーユを護らなければと強く思った。
「……とまあ、軽く脱線しましたが。オレは正義の味方なんて柄じゃないが、可愛い女の子が任務の外でつらい思いをするのは見たくないんです。
 もちろんティアちゃんもだ! 毎朝、ギルド併設の訓練場が開放されるなり、一番早く飛び込んでいって、隅っこでうんうん唸りながら可愛いポーズの数々を決めて……あんなに健気に努力してる姿を見て、放っておけるやつがいたら男じゃねえ! そうでしょう、大将!?」
「みっ……み、み、み、見られてたんですかぁぁあああ!? ひゃわわっ、は、恥ずかしすぎですぅぅううう!」
 真っ赤に熟れた顔を、ティアが小さな両手で懸命に隠す。
 何故だろう。カイグルスに対処してから、あの男ではない別の何かから、ティアを護らなければと強く思った。
「ん? どうしたんです大将、怖い目して……あー、オレが提案する前からやる気満々ってやつですね? 気が早くて助かっちゃうなあ!」
「そう、ですね……レインさんがカイグルスを大人しくさせたいと画策しているのなら、ぜひ役割を与えて欲しいとは思っています」
「あ、あの……あ、あたしも、頑張ってみたいです! あの人たち、すごく怖くて、すごく冷たい感じがして……で、でも、ティアだけじゃなくて、あたしの大事な人たちまで、悪く言われちゃった気がして……だ、だからティア、立ち向かってみたいですっ!」
 レインさんは、組んだ両指の上に形良い顎を乗せ、尖った犬歯をにいと見せて笑った。
「んじゃ、オレの奢りでデザート追加。……健全に悪巧み、しましょっか」
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