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3章 握り過ぎた手
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「せ、先生……今朝、直春が警察に逮捕されてしまったのですが」
翌日、灯美がいつものように虚間鷹彦カウンセリングルームに入ったところで、こんな会話が聞こえてきた。灯美はぎょっとした。逮捕とはいったい何事だろう。
「ああ、菊池さん、息子さんのことは、今日のニュースでもやっていましたね。お気の毒です」
と、ウロマはしれっと答えた。顔面蒼白な信子とは対照的に平静そのものである。
ニュースでやっていたって、どういうことだろう? 灯美はあわててスマホをポケットから取り出し、ポータルサイトから今日のニュースをチェックしてみた。するとサイトのトップに、
『違法アップロードの「フラゲ神」自首。逮捕』
という見出しがあり、菊池直春という男が、著作権法違反で逮捕されたとあった。なんでも、公式発売日前の雑誌の内容を常習的にネットにアップロードしていて、それで広告収入を荒稼ぎしていたらしい……。
「先生! なんで直春が逮捕されないといけないんですの! 意味がわかりませんわ!」
「そりゃあ、直春君が違法なことをしていたからでしょう」
「そうじゃありませんわ! 直春は自首したんですよ! わざわざ自分から警察に捕まりに行ったんですよ! そんなことしなければ、逮捕されることはなかったのに!」
「そうですね。きっと、直春君は罪の意識に耐えられなくなったのでしょう。何か急に心変わりするようなきっかけでもあったんでしょうかねえ?」
「あったも何もないですわ! 先生のくれたあの変な角砂糖のせいでしょう! あれを口にしたせいで、直春は――」
「きれいな直春君に生まれ変わったんでしょうかね。そのおかげで自分の罪を悔い改めることになった、と……。なるほど、それはめでたいことですね。菊池さん」
はっはっはと、ウロマは楽しげに笑った。「ふざけないで!」と、そんな彼を信子は顔を真っ赤にしてにらんだ。
「何がめでたいんですか! 自分の息子が逮捕されて喜ぶ母親なんていません!」
「そうでしょうか。あなたは昨日、言っていたじゃないですか。息子の暴力に悩んでいると。その息子さんが、しばらくは警察にお世話になるという形で、家からいなくなったのです。つまり、あなたは当分、彼からの暴力に悩まされることはありません。実におめでたい話じゃないですか」
「バカを言わないで!」
信子はもはや涙目だった。
「あの子は重い喘息持ちで、一人では生きていけないんです! だから、母親の私が、ずっとそばにいてあげないとダメなんです! それなのに、離れ離れになるなんて……」
「まだそんなことを言っているのですか、菊池さん」
ふと、ウロマの濁った目が冷たく光った。
「昨日、あなたからの話を伺う限り、彼が一人では生きていけないほどの重い喘息持ちだとはとうてい思えませんでしたけれどね」
「何をおっしゃってますの? 私、ちゃんとそう説明したでしょう」
「ええ。あなたは言っていましたね。彼は子供のころから喘息を患っていると。それはつまり小児喘息を患っていたということではないでしょうか」
「え……ええまあ……」
「実は、小児喘息というものは、大人になると治ることが多いのですよ」
「そ、そんなの知りませんわ!」
「まあ、そうですね。大人になっても、治らずに引きずるケースも多いです。しかし、あなたはさらに、彼が二種類の薬を服用していることを僕に話しました。それは、実に奇妙な説明でした。あなたの口からは、なぜか飲み薬の名前しか出てこなかったのですから。どうして、一人で生きられないほどの重い喘息患者が使っている薬がそれだけなのでしょう? 普通はまっさきに気管支拡張剤やステロイドなどの吸入薬の名前が出てくるものではないでしょうか? それらは喘息の患者にとって絶対に欠かせないものですからね」
「あ……」
信子はそのウロマの言葉にはっとしたようだった。
「きゅ、吸入薬なら昔は使っていましたわ! 最近はそんなに使っていないので言い忘れていただけです!」
「そうですか。では、直春君の具合は、昔に比べてずいぶんよくなっているのですね。吸入薬がなくても生活に支障がないくらいに」
「そんなことはありませんわ! 直春は今も重い喘息なんです!」
「しかし、実は、その後のあなたの発言も大変おかしかったのですよ」
「その後の発言?」
「その後、あなたはこう言いましたね。直春君は、時々お酒を飲むことがあると。実は、これは、一人では生きていけないような重い喘息をもっている人なら考えられないことです。多くの場合、アルコールは喘息を悪化させます。少しばかり喘息のケがある人ならともかく、重症の喘息患者なら、まず主治医から止められるはずです。絶対にお酒は飲むな、と」
「そ、そうなんですの……」
それは信子には初耳の話のようだった。
翌日、灯美がいつものように虚間鷹彦カウンセリングルームに入ったところで、こんな会話が聞こえてきた。灯美はぎょっとした。逮捕とはいったい何事だろう。
「ああ、菊池さん、息子さんのことは、今日のニュースでもやっていましたね。お気の毒です」
と、ウロマはしれっと答えた。顔面蒼白な信子とは対照的に平静そのものである。
ニュースでやっていたって、どういうことだろう? 灯美はあわててスマホをポケットから取り出し、ポータルサイトから今日のニュースをチェックしてみた。するとサイトのトップに、
『違法アップロードの「フラゲ神」自首。逮捕』
という見出しがあり、菊池直春という男が、著作権法違反で逮捕されたとあった。なんでも、公式発売日前の雑誌の内容を常習的にネットにアップロードしていて、それで広告収入を荒稼ぎしていたらしい……。
「先生! なんで直春が逮捕されないといけないんですの! 意味がわかりませんわ!」
「そりゃあ、直春君が違法なことをしていたからでしょう」
「そうじゃありませんわ! 直春は自首したんですよ! わざわざ自分から警察に捕まりに行ったんですよ! そんなことしなければ、逮捕されることはなかったのに!」
「そうですね。きっと、直春君は罪の意識に耐えられなくなったのでしょう。何か急に心変わりするようなきっかけでもあったんでしょうかねえ?」
「あったも何もないですわ! 先生のくれたあの変な角砂糖のせいでしょう! あれを口にしたせいで、直春は――」
「きれいな直春君に生まれ変わったんでしょうかね。そのおかげで自分の罪を悔い改めることになった、と……。なるほど、それはめでたいことですね。菊池さん」
はっはっはと、ウロマは楽しげに笑った。「ふざけないで!」と、そんな彼を信子は顔を真っ赤にしてにらんだ。
「何がめでたいんですか! 自分の息子が逮捕されて喜ぶ母親なんていません!」
「そうでしょうか。あなたは昨日、言っていたじゃないですか。息子の暴力に悩んでいると。その息子さんが、しばらくは警察にお世話になるという形で、家からいなくなったのです。つまり、あなたは当分、彼からの暴力に悩まされることはありません。実におめでたい話じゃないですか」
「バカを言わないで!」
信子はもはや涙目だった。
「あの子は重い喘息持ちで、一人では生きていけないんです! だから、母親の私が、ずっとそばにいてあげないとダメなんです! それなのに、離れ離れになるなんて……」
「まだそんなことを言っているのですか、菊池さん」
ふと、ウロマの濁った目が冷たく光った。
「昨日、あなたからの話を伺う限り、彼が一人では生きていけないほどの重い喘息持ちだとはとうてい思えませんでしたけれどね」
「何をおっしゃってますの? 私、ちゃんとそう説明したでしょう」
「ええ。あなたは言っていましたね。彼は子供のころから喘息を患っていると。それはつまり小児喘息を患っていたということではないでしょうか」
「え……ええまあ……」
「実は、小児喘息というものは、大人になると治ることが多いのですよ」
「そ、そんなの知りませんわ!」
「まあ、そうですね。大人になっても、治らずに引きずるケースも多いです。しかし、あなたはさらに、彼が二種類の薬を服用していることを僕に話しました。それは、実に奇妙な説明でした。あなたの口からは、なぜか飲み薬の名前しか出てこなかったのですから。どうして、一人で生きられないほどの重い喘息患者が使っている薬がそれだけなのでしょう? 普通はまっさきに気管支拡張剤やステロイドなどの吸入薬の名前が出てくるものではないでしょうか? それらは喘息の患者にとって絶対に欠かせないものですからね」
「あ……」
信子はそのウロマの言葉にはっとしたようだった。
「きゅ、吸入薬なら昔は使っていましたわ! 最近はそんなに使っていないので言い忘れていただけです!」
「そうですか。では、直春君の具合は、昔に比べてずいぶんよくなっているのですね。吸入薬がなくても生活に支障がないくらいに」
「そんなことはありませんわ! 直春は今も重い喘息なんです!」
「しかし、実は、その後のあなたの発言も大変おかしかったのですよ」
「その後の発言?」
「その後、あなたはこう言いましたね。直春君は、時々お酒を飲むことがあると。実は、これは、一人では生きていけないような重い喘息をもっている人なら考えられないことです。多くの場合、アルコールは喘息を悪化させます。少しばかり喘息のケがある人ならともかく、重症の喘息患者なら、まず主治医から止められるはずです。絶対にお酒は飲むな、と」
「そ、そうなんですの……」
それは信子には初耳の話のようだった。
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