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1 お隣の黒川さん
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「いったい何を探していたんですか」
「耳かきです」
「こんな時間に?」
「僕は夜行性なので」
「なるほど」
まあ、この男の生態なんかどうでもいいのだが。
「いやー、参りますよね。耳かきみたいな小物って、なぜか必要なときに限って、見つからなかったりして。こういうのって、妖怪なんとか隠しとかの仕業なんですかね?」
黒川はハハハと笑う。確かに、あるあるな話である。妖怪のせいにもしたくなる。
「それで、見つかったんですか、耳かき?」
「いや、それが見つかる前にごらんの有様でして」
黒川は荒れ果てた室内に振り返り、はあと重くため息をついた。体が前のめりになり、そのやせぎすの体がますます頼りないシルエットになった。
「あの、よかったら私の使いますか、耳かき?」
「おお、それはありがたい! お願いします! さっきからもう、耳の奥がむずむず、むずむずしてつらいのです。最初は右の耳の穴だけだったのに、なんだかだんだん左の耳までむずむずしてきちゃって」
「ああ、そういうことってありますよね」
雪子はそこでいったん自分の部屋に戻り、耳かきを取ってすぐに黒川のところに戻った。今日の昼間に近くの百円ショップで買ったばかりのものだった。
「どうぞ使ってください」
「これは、またありがとうございます、やさしいひと赤城さん。このままでは仕事が手につかないところだったのですよ」
黒川は新品未開封のそれをすぐ受け取り、その場で開封して使い始めた。よほどむずむずしていたのだろう、たちまち恍惚の表情である。
「仕事って、こんな時間に家でしてたんですか?」
「ええ、まあ。そろそろ締め切り前なので原稿を」
「原稿?」
「僕、一応プロの漫画家でして」
「え、黒川さんって漫画家さんなんですか?」
雪子はその単語に、とたんに激しく食いついた。実は彼女、高校生時代は友人と一緒に同人漫画を描いていたことがあったのだ。高校を卒業してからはその友人と疎遠になり、漫画制作からも遠ざかっていたが、内心はそういう業界に憧れを抱いていた。
それがまさか、引っ越した先の隣の住人が漫画家とは……。黒川の部屋の奥をもう一度よく見ると、確かに作業中だったようで、机の上に描きかけの漫画の原稿のようなものがあった。
「あの、あれ雑誌に掲載される前の原稿ですよね? ちょっと見てもいいですか?」
「ええ、かまいませんよ」
と、許可が出たので、雪子はすぐにサンダルを脱いで黒川の部屋に入り、机のほうに行った。こんな未明の時間に、知り合ったばかりの男の家にパジャマ姿で上がるなど、無防備にもほどがあったが、今は興味と関心のほうがまさった。
見てみると、なるほど確かにプロの原稿らしく、未完成ながらもしっかりとした画力を感じさせるものだった。ペン入れの途中のようだった。そばにGペンが転がっていた。
ただ、そのページだけ見ても漫画の内容はよくわからなかった。どうやらひょっとこのお面をつけたスーツ姿の男が何かしているようなのだが……。
「黒川さん、これどういう漫画なんですか?」
「ひょっとこリーマンの日常の悲哀を描いたものです」
「ひょ、ひょっとこ?」
しかもリーマンて。日常の悲哀って。
「すみません、よく意味がわからない――」
「ああ、コミックスがこちらにあるのでどうぞ。現在、二巻まで絶賛発売中です」
黒川は床に散らばっていた本の山からそれらを拾い上げ、雪子に手渡した。
見ると、普通の漫画の単行本よりは一回り大きいタイプの本だった。そして、その割には妙に薄かった。出版元は菱田出版。業界最大手の一角だ。表紙にはひょっとこのお面をつけたサラリーマン風の男がデカデカと描かれており、タイトルもズバリ「ひょっとこリーマン」。著者は黒川ミミックとある。この男のペンネームだろうか。
「ちょっと読んでみてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。漫画は読むものですからね!」
黒川は雪子が自分の漫画に興味を示したことがうれしそうだった。ウキウキですすめてきた。
だが、雪子は微妙な気持ちだった。というのも、この漫画……全然面白そうじゃあ、ない……。
そして、その予感は想定よりもっとひどい形で的中した。読んでみると、それは面白いとか、面白くないとか、そういう判断ができるタイプに漫画ではなかったのだ。
つまり……。
「あの、黒川さん、これって何目的の漫画なんですか?」
「目的?」
「はい、どういう楽しみ方をすればいいのか、よくわからなくて」
そう、それは本当に「ひょっとこのお面をつけたサラリーマンの日常」が淡々と描かれているだけの内容で、どう評価していいものかどうか、さっぱりわからないものだったのだ。とりあえず、面白くないことは確かなのだが。
「た、楽しみ方がわからない……?」
黒川は雪子の率直な感想にたちまち狼狽したようだった。もともと死体のような顔色がますます青白くなった。
「い、いや、普通、漫画を読んでもっと他に言うことはあるでしょう? でしょう?」
「そうですね。普通は話の展開がどうかとか、設定やキャラがどうだとか」
「そうです、そうです! 読んでみて、そういうの何か感じるでしょう!」
「いえ、この漫画は、私の中ではそういう評価ができる土俵に上がってない――」
「土俵ってなんですか! 相撲ですか! どすこいですか!」
黒川はますます狼狽したようだ。見ると、餌を求めて水面にやって来た鯉のように口をパクパクさせている。
「耳かきです」
「こんな時間に?」
「僕は夜行性なので」
「なるほど」
まあ、この男の生態なんかどうでもいいのだが。
「いやー、参りますよね。耳かきみたいな小物って、なぜか必要なときに限って、見つからなかったりして。こういうのって、妖怪なんとか隠しとかの仕業なんですかね?」
黒川はハハハと笑う。確かに、あるあるな話である。妖怪のせいにもしたくなる。
「それで、見つかったんですか、耳かき?」
「いや、それが見つかる前にごらんの有様でして」
黒川は荒れ果てた室内に振り返り、はあと重くため息をついた。体が前のめりになり、そのやせぎすの体がますます頼りないシルエットになった。
「あの、よかったら私の使いますか、耳かき?」
「おお、それはありがたい! お願いします! さっきからもう、耳の奥がむずむず、むずむずしてつらいのです。最初は右の耳の穴だけだったのに、なんだかだんだん左の耳までむずむずしてきちゃって」
「ああ、そういうことってありますよね」
雪子はそこでいったん自分の部屋に戻り、耳かきを取ってすぐに黒川のところに戻った。今日の昼間に近くの百円ショップで買ったばかりのものだった。
「どうぞ使ってください」
「これは、またありがとうございます、やさしいひと赤城さん。このままでは仕事が手につかないところだったのですよ」
黒川は新品未開封のそれをすぐ受け取り、その場で開封して使い始めた。よほどむずむずしていたのだろう、たちまち恍惚の表情である。
「仕事って、こんな時間に家でしてたんですか?」
「ええ、まあ。そろそろ締め切り前なので原稿を」
「原稿?」
「僕、一応プロの漫画家でして」
「え、黒川さんって漫画家さんなんですか?」
雪子はその単語に、とたんに激しく食いついた。実は彼女、高校生時代は友人と一緒に同人漫画を描いていたことがあったのだ。高校を卒業してからはその友人と疎遠になり、漫画制作からも遠ざかっていたが、内心はそういう業界に憧れを抱いていた。
それがまさか、引っ越した先の隣の住人が漫画家とは……。黒川の部屋の奥をもう一度よく見ると、確かに作業中だったようで、机の上に描きかけの漫画の原稿のようなものがあった。
「あの、あれ雑誌に掲載される前の原稿ですよね? ちょっと見てもいいですか?」
「ええ、かまいませんよ」
と、許可が出たので、雪子はすぐにサンダルを脱いで黒川の部屋に入り、机のほうに行った。こんな未明の時間に、知り合ったばかりの男の家にパジャマ姿で上がるなど、無防備にもほどがあったが、今は興味と関心のほうがまさった。
見てみると、なるほど確かにプロの原稿らしく、未完成ながらもしっかりとした画力を感じさせるものだった。ペン入れの途中のようだった。そばにGペンが転がっていた。
ただ、そのページだけ見ても漫画の内容はよくわからなかった。どうやらひょっとこのお面をつけたスーツ姿の男が何かしているようなのだが……。
「黒川さん、これどういう漫画なんですか?」
「ひょっとこリーマンの日常の悲哀を描いたものです」
「ひょ、ひょっとこ?」
しかもリーマンて。日常の悲哀って。
「すみません、よく意味がわからない――」
「ああ、コミックスがこちらにあるのでどうぞ。現在、二巻まで絶賛発売中です」
黒川は床に散らばっていた本の山からそれらを拾い上げ、雪子に手渡した。
見ると、普通の漫画の単行本よりは一回り大きいタイプの本だった。そして、その割には妙に薄かった。出版元は菱田出版。業界最大手の一角だ。表紙にはひょっとこのお面をつけたサラリーマン風の男がデカデカと描かれており、タイトルもズバリ「ひょっとこリーマン」。著者は黒川ミミックとある。この男のペンネームだろうか。
「ちょっと読んでみてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。漫画は読むものですからね!」
黒川は雪子が自分の漫画に興味を示したことがうれしそうだった。ウキウキですすめてきた。
だが、雪子は微妙な気持ちだった。というのも、この漫画……全然面白そうじゃあ、ない……。
そして、その予感は想定よりもっとひどい形で的中した。読んでみると、それは面白いとか、面白くないとか、そういう判断ができるタイプに漫画ではなかったのだ。
つまり……。
「あの、黒川さん、これって何目的の漫画なんですか?」
「目的?」
「はい、どういう楽しみ方をすればいいのか、よくわからなくて」
そう、それは本当に「ひょっとこのお面をつけたサラリーマンの日常」が淡々と描かれているだけの内容で、どう評価していいものかどうか、さっぱりわからないものだったのだ。とりあえず、面白くないことは確かなのだが。
「た、楽しみ方がわからない……?」
黒川は雪子の率直な感想にたちまち狼狽したようだった。もともと死体のような顔色がますます青白くなった。
「い、いや、普通、漫画を読んでもっと他に言うことはあるでしょう? でしょう?」
「そうですね。普通は話の展開がどうかとか、設定やキャラがどうだとか」
「そうです、そうです! 読んでみて、そういうの何か感じるでしょう!」
「いえ、この漫画は、私の中ではそういう評価ができる土俵に上がってない――」
「土俵ってなんですか! 相撲ですか! どすこいですか!」
黒川はますます狼狽したようだ。見ると、餌を求めて水面にやって来た鯉のように口をパクパクさせている。
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