青のパラレルズ

白川ちさと

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第二話 水色のハンカチ

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 花火大会が始まるのは午後七時三十分。その五分前に家を出た。空を見上げると、まだ明るい。

 しかし、あいにくの曇り空だ。花火の見え具合はいまいちだろう。

「マル、行くよ」

 ハーネスをつけたマルのリードを引いて、雪花は歩き出した。
日が暮れたとはいえ、空気には昼の熱気と湿気が残っている。風が吹いても、肌にまとわりつくような不快感があった。

 やがて、ヒュー……、ドンと花火が上がる音が聞こえ始める。案の定、マルは耳を立てて吠え出した。

「大丈夫だよ、マル。遠くで鳴っているだけ。わっ!」

 マルがいきなり走り出そうとする。リードをグッと引いて止めるが、ぐいぐいとマルは音が鳴る方へと向かおうと必死だ。

「分かったよ。行ってみよう」

 雪花は観念して、マルが行きたい方へと向かう。

 走らない程度に早足で。家の近くの大通りを越えると、あまり通らない道だ。小さな神社の前を通って、坂を上っていく。

 マルが連れて来たのは、町が一望できる高台の住宅街だった。崖上の路上から眺めるとショッピングモールも遠くにあり、花火も小さいが見ることが出来る。他にも小さな子供連れの人が花火を眺めていた。近所の人たちの穴場スポットのようだ。

 マルはガードレールの下から顔を出して、食い入るように花火を見つめていた。

 吠えたりはしない。いつもは家で音を聞くだけなので、実物を一度見て見たかったのかもしれないなと雪花は思う。

 ガードレールに手を掛けて、雪花も花火を見つめる。去年は近くで見た花火だ。顔をそらさないと見えなかった花火が、今はあんなにも遠い。

「あ、雨」

 近くで見ていた誰かが言った。大粒の雨がぽつりぽつりと、雪花の頭もうつ。

 顔を上げると、曇天の空が気まぐれにしずくを落としていた。いつの間にか花火が止んでいる。あちらも雨が降って来たのだろう。

「短かったね」「残念」

 そこにいた人々が次々に解散していった。

 スマホを見ると、七時五十二分。八時三十分まであるはずの花火大会はこれから再開されるかは、ここからでは分からない。

「マル。わたしたちも帰ろう」

 マルは名残惜しそうに花火が上がっていた空を見つめていたが、やがて諦めたのか歩き始めた。しかし、雪花たちは簡単には帰ることが出来なかった。

 端的に言えば、道に迷ったのだ。

 辺りは薄暗く右を向いても左を向いても、同じような家ばかりが並んでいる。空はどんどん暗くなっていき、雨脚も強くなってきていた。

 ここまで引き連れて来たはずのマルは全く役に立たない。その上疲れてしまったのか、道路にしゃがみ込んで動かなくなる。仕方なくマルを抱えて分かる道を探した。

「あ。神社」

 鳥居の上には彩見神社さいけんじんじゃと書かれている。行きにも通った小さな神社だ。ということは、この先に進めばよく知っている大通りに出る。

 やっと道が分かったことに雪花は安堵するが、同時にバケツをひっくり返したかのように雨が降って来た。

「わっ!」

 ゲリラ豪雨だ。かなり雨脚が強い。

 家に帰るまで耐えられず、雪花は急いで神社の階段を駆け上った。

 神社は本当に小さな神社だった。鳥居をくぐって短い石畳の参道の奥に古いおやしろがある。雪花は屋根の下に駆け込んだ。本殿に向かって、小さく頭を下げる。

「お賽銭はありませんが、雨宿りさせていただきます」

 ただの散歩のつもりだったので、持って来ていたのはスマホだけだ。

 位置情報で家へ案内させることも出来たのだが、すっかり頭から消えていた。雪花が濡れていないか、スマホをデニムのポケットから取り出したときにやっと気づく。

 はぁと自然とため息が出る。

 雪花はとにかく濡れた服を少しでも水気を切ろうと、裾を握って絞った。

 ぽたぽたと垂れるしずくが木の床にシミを作る。髪も濡れていて、腕で前髪が張り付いた額を拭う。隣でマルがブルブルと全身を震わせて、水滴を辺りに飛び散らせた。

 そのときだ。

「……あの。これ、使って、ください」

「え」

 突如、後ろからか細い声で話しかけられ、ハンカチを差し出された。

 まさか他に人がいるとは思わなかった。

 固まって身動き一つ出来なくなる雪花。差し出されているのは水色のハンカチだ。

 声も男性だろう。マルも一緒だとはいえ、こんな薄暗い場所で見知らぬ人と二人になっていることに、ほんの少し恐怖を覚えた。

 振り向きもしないことで、男性は雪花が身構えていることを感じ取ったのだろう。

「それじゃ」

「ちょ、ちょっと……」

 男性は雪花にハンカチを押し付けて、大雨がまだ降る中、走っていってしまった。ずぶ濡れの後ろ姿しか見ることが出来ない。

 だが、特徴的なライムグリーン色のズボンは雪花と同じ高校だ。完全に彼が鳥居の向こうに消えてしまい、雨音だけが聞こえる神社にマルと二人だけになった。

「これ、どうしよう」

 手元の水色のハンカチ。綺麗にアイロンがかけてあり、使った形跡はない。

 雪花は遠慮がちに前髪をそのハンカチで押さえる。すぐに水を吸い上げて、ハンカチに濃いシミが出来た。

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