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むしろ誘拐される方なのは貴方なのでは?

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「今、帰ってくれたら何も、起きませんから……。」
「でも、満さんはどうするんですか?」
「それは、なんとか、します。」
「具体的には?」
「……失敗したと言えば、なんとかなります。兄と違って、出来損ないですから。」
希望は対策を練ろうとするも満は中々納得しようとしない。
「満さんにはお兄さんが居るんですか?」
「います、とても俺と違って優秀です。」
満は道端に捨てられて餌だけ与えられたような、諦めた子犬のような表情をしていた。
「えっと、満さんは鈴鹿グループの息子さんの一人ということですか?」
念のため、確認を行う。
「はい、僕はいわゆる鈴鹿グループの社長の姉の父の弟の母の妹の従兄弟の_____。」
つまり、どういうことだろうか。一瞬、もう社長とは無関係な遠い親戚なのでは?とすら、希望は思った。
「でも、社長の息子さんなんですよね?」
「間違えて言ってしまいました……。いつもは姉の父の弟の母の妹の従兄弟の、って言葉を言わねばならないんですけど、動揺して本当のことを言ってしまった……。でも、希望さんにこの台詞を全部言うのは少し大変だったので、本当のことを言って良かったかも知れない。」
ほんの少しだが、満は希望に慣れてきたようで、色々と話すようになってきた。
「ちなみにその『姉の父の弟の』云々ってどれくらい長いんですか?」
「えっと。」
五秒ほど満は考え、呪文のように唱える。
「『クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット』程度です。」
「はい?」
「えっと、『クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット』、です。タイのバンコクの正式名称、です。」
「長い。よく覚えてられますねそれ。というか、そんなに長くなるってどういう_____。」
「姉の父の弟の母の妹の従兄弟の祖父の娘の兄の母の従兄弟の_____。」
「もう、色々と十分です。ありがとうございます……。」
満の記憶力に圧倒されてしまう。しかし、そんなに記憶力が良いのにどうして誘拐する人を間違えたのだろう。
「どうして、間違えて私を誘拐したんですか?」
「えっと、それは……。緊張してしまって、情報が混乱して、本来は兄がやる予定のはずだったのに急に数日前に、俺がやることになってしまって、だから急遽人工音声など作ったんです。そして、誘拐を行い、前田グループの娘さんから情報収集をする予定でした。」
「そして、見事に失敗したと。」
「仰る通りです。本当に申し訳ないです……。」
だんだんこの満の家族について、希望は好奇心を抱き始める。
「さっき、満さん、『お父さんに怒られる』みたいなこと言ってましたよね?社長というか、満さんのお父様はそんなに怖い人なんですか?」
しばらく沈黙する。聞いてはいけないことだったのだろうか。
「あの人は期待してるから、でも子供の頃から兄と違って、俺は失敗ばかりして、気付けば鈴鹿家の名汚し、汚れと呼ばれるようになってました。」
満は引きつった笑顔を浮かべる。でも、当人にとってはあまりにも過酷だっただろう。
「そういえば、自分の名前を呼ばれたのも久々です。父含め、皆からは『お前』呼ばわりだったから。満なんて、自分には相応しく無い名前だと思います。誰の期待にも応えられない、心を満たせない。」
満のことが少しずつ解ってきた。彼は家族に自信を壊された。そして、失敗をする悪循環になったのだろう。ここまで、人間が苦手なのもきっと。自分自身が迷惑だと思っているからか。そんなことを希望は考える。
「……さっきのピザ、嬉しかったです。」
希望は笑顔で話し始める。
「満さんは誘拐した人間の私に対して、すごく優しかったと思いますよ。下手したら殺されるような環境に私は居るはず。でも、こうして今、拘束もされずに私は満さんと話すことが出来ている。満さんは犯罪なんて、出来る人では無いってすぐに分かりませんでした。上手く言えないけれど、もっと自信を持って良いと思います。」
「……そんな、そんなこと言われたの初めてです。あり、がとうございます。」
満は泣いていた。膝から崩れ落ちる。そんな中、何処からか振動が聞こえた。
「あっ、」
満は服のポケットからスマートフォンを取り出す。そして、表情が固まる。だんだんその顔は青ざめているようにさえ見える。
「ど、どうかしました?」
しばしの沈黙。満が呟く。
「これから、父が、帰ってくるようです、いつもなら、もっと遅い時間に帰って、くるのに。」
満の目は死んでいた。
「今から案内するので、希望さんは逃げてください。タクシー代も用意するので_____。」
急いで部屋を出そうとする満を追いかけ、希望は満の腕を掴む。
「……一緒に逃げましょう。この家から。」
「えっ。」
「私が貴方を誘拐します。この家から。満さんのために。」
「それはどういうこと、」
「今から作戦を立てましょう。」
希望のまさかの台詞に満は戸惑っていた。でも、彼女は自分にとって一筋の光、それが希望か。納得した。彼女の真剣な眼差し。この家から自分が居なくなったらどうなるか、彼女は知らない。それでも、彼女は助けようとしてくれている。
「希望さんも、良い人ですね。」
満は今までに無いほどの優しい声で応えた。
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