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台本は頭の中で
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「神様が本当にいるならば私達中間層の人間が一番生きづらいのよ。」
大里スミレはいつもそう言っていた。
「暗闇から這い出して光を浴びることもなければ光に包まれて自分の姿が見えないわけでもない。影が濃くなったり薄くなったりを繰り返す、常に緊張を強いられているのよ。」
「へーじゃあ、スミレは中間層なの?」
深山翔一はそう言って笑った。
「人生は舞台よ。役割が決まってるの。翔一にはわからないのよ。」
僕はいつになくヒートアップしているふたりの会話を聞きながら台本に目を通した。
僕たちは芸能事務所ホープの若手俳優と女優だ。
今までパッとした業績はなかったものの、翔一はこの春から始まるドラマの助演の仕事を貰った。
スミレは美人だが古風な美人で華がない。
「なかなかこの台本は面白い話だね。」
僕は翔一に台本を返しながら笑った。芸能界のキャリアは僕が一番長い。
僕はオムツモデルに選ばれた頃からこの業界にいる。両親からは辞めたかったら辞めて良いと言われながら僕はキャリアを積んだ。
「次回作は津ヶ谷は映画だもんな。」
「エキストラ並みに出番がないんだよね。」
そう言って僕たちは笑った。
スミレは面白くないという様子で僕たちを見ている。
「役者として成功したいとかじゃなくて私が私として存在していることが唯一無二じゃないことが嫌なのよ。」
そう言ってスミレは帰っていった。
翌日から翔一はドラマの撮影に入った。僕は映画だ。舞台は東京。部活を通して教師に恋心を抱いた余命僅かな女子高生の話だ。僕は主演の友人役だった。
『無理することないよ。僕はずっと君の味方だ。』
月並みなセリフだ。センスがない。この業界に入って友達はたくさんいた。けれど、余命僅かな友達にかけてあげる言葉がこんな薄っぺらい言葉なのだろうか?僕は思った。
そんな僕に気づいてかこのシーンは3度撮り直しになった。
監督は苦々しい顔をしていた。
「お疲れさま。津ヶ谷君。」
主演の葵小春が話しかけてきた。葵は昨年、全日本美少女コンテストで優勝し、今売出し中の若手女優だ。僕を見ながらニコニコしている。
僕はその様子を見ながらあんまり好きじゃないなぁ、と思った。
葵は僕の様子を気にすることなくスタッフにお礼を言い続けていた。
「津ヶ谷君と共演出来るって聞いて母がサインを貰ってきて欲しいって言うんです。」
「へーそうなんだ。僕で良ければ書くよ。」
「連絡先とか交換しませんか?」
「そういうのはもっと仲良くなってからだよね。」
僕は少し語気を強めた。
「すみません。気をつけます。」
葵がそう言うと、監督が撮影を再開すると言ってきた。僕はこの仕事は引き受けるべきではなかったかもなぁ…そう思いながら現場に戻った。
事務所ではスミレが次のオーディションの相談をマネージャーとしていた。
「着物だったら映えるんだけどねぇ…。」
マネージャーの若谷はそう言って頭を悩ませた。
「大里さんはしょうゆ顔だからなぁ。」
そう言って直近のオーディションの書類を何枚か広げた。
「舞台はどう?稽古は大変だけどなかなかやりがいはあるよ。」
若谷はそう言ってスミレの反応を待った。
「舞台でもテレビでも良いんです。ただ私の替えがきかない現場が良いんです。」
スミレは不服そうに話した。
「替えがきかない役者に大里さんがなるしかないね。」
若谷は笑った。
「数をこなさない事にはそんな役者にはなれないよ。」
「津ヶ谷君は重宝されてるじゃないですか?」
「彼は特殊なんだよ。自分という物が無いのかと思うほど色んな役をこなせるんだ。」
「…。」
「人と比較しないで自分のキャリアを積もう。」
若谷がそういうとスミレは舞台のオーディションの詳細に目を通した。
撮影2日目、僕は図書室で葵と勉強するシーンを演じた。葵は字がきれいな子だった。
昨日、連絡先を僕と交換できなかったのに関わらず休憩中は変わらず他の役者さんと連絡先を交換して回っていた。
オムツモデルから芸能界にいた僕には分からなかったが、葵は今、自分は芸能界にいるんだ、私は役者になったんだ、そういう事を噛み締めていたのかもしれない。
それでも僕は葵と特に話すこともなく相変わらず淡々と撮影に臨んだ。
休憩中は翔一とラインをした。タイミングが合えばすぐに返事が返ってくる。
『葵ちゃん可愛い?』
と何度目かのラインで翔一は尋ねてきた。僕は可愛いとは思わなかったが、
『やっぱり優勝してるだけあって可愛いよ。』
と、返事をした。
翔一からは、
『マジで羨ましいわぁ。』
と返事が来た。僕はそれを見て苦笑した。
僕と翔一はお互いにドラマの撮影と映画の撮影が続くなか、スミレが舞台の主演に抜擢されたと言う話を聞いた。
何でも舞台監督がスミレの哲学的な思考に興味を示したかららしい。
ドラマや映画と違って舞台は通し稽古だ。脇役しかしてこなかったスミレが心配だった。
スミレの舞台は土井佐武郎原作の『花つむぎ』という作品だった。
女中の娘として産まれた少女がその美貌から旦那様の嫁に選ばれると言うような話だった。
僕は撮影の合間を縫って神社でスミレの舞台が成功するように祈願してお守りを買った。
マネージャーを通してお守りはスミレの手に渡った。ラインで御礼が来た。
スミレはいつもと変わらずに、
『中間層の人間は善にも悪にも染まる。そしてそれを1番身近に見ているのも中間層だ。』
という文章を送ってきた。
僕はスミレは哲学者になったほうがどれだけか良かったのではないのだろうか、そう思った。
1か月の稽古を終えてスミレは舞台に立った。僕は撮影が休みの日、スミレの舞台へと足を運んだ。
幕が上がると、順調に芝居は続いた。
『旦那様、私は女中の身分ですのよ。』
『小夜、私ではだめなのかい?』
あのスミレがこんな役をこなせるのかと思うほど作品は完成されていた。
僕は花束を用意して楽屋へと向かった。
楽屋でのスミレは、
「小夜は自分が正しいと思った方に最後は進むんです。それが小夜の私達に伝えたいことだと思います。」
と、監督と語っていた。
僕は邪魔にならないように花束を渡してそそくさと退散した。
スミレが追いかけてきて僕を捕まえた。
「ごめんね。今日は演技に熱が入って語りたかったのよ。」
そう言って笑った。
「迷ったら明るい方を選べば良いのよね。小夜はきっとそうするわ。」
「それってどういう意味?」
僕は尋ねた。
「神様の導く方に進めば良いのよ。」
やはりスミレは哲学者だ。話が通じない。僕は用事があると言ってその場を後にした。
それからのスミレは舞台での芝居が高く評価され様々な分野から出演依頼が舞い込んだ。
マネージャーの若谷は、
「ここからが正念場だよ。国民に愛される女優になるか一発屋で終わるか。」
そう言って嬉々としていた。
ある日の午後、僕はスミレが脇役で出演した作品をぼんやり眺めていた。
役者としてのキャリアが浅いとはいえこだわりの強さだけは際立つ演技だった。
それでも舞台で見せたような輝きは見られない。
スミレは舞台に立つ前言っていた。人生はなりたいものになれるわけではない、それでも続けていればいつか本物になる。
僕はスミレは本物になったのか…そう思ってテレビを消した。
映画の撮影も中盤に差し掛かった辺りで葵は失速した。連日の撮影、トレーニング、発声練習、たぶんほぼ休みはなかったのだろう。
続けても続けてもセリフが出てこない。
監督は見るに見かねて休憩を挟んだ。葵はメイクが崩れるのもお構い無しで涙を流した。
ベテラン俳優の黒金が葵を励ました。それでも時間は迫ってくる。
結局この日は葵の出番がない場面を撮影して終わった。僕は初日に浮かれていた葵を思い出して、だからだよ、そう思った。
スミレは次回も舞台に立つことを希望した。運良く舞台のオファーがあった。
「舞台にこだわらなくても良いんだよ。」
若谷はそう言ってスミレに他の仕事も提案した。
「私は舞台役者です。舞台に立つと閃きが降りてくるんです。作品のテーマが降りてくるんです。天職だと思います。」
そう言って意気込みを語った。
「自分の可能性をそんな若いうちに定めてはいけないよ。」
若谷はそう言ったがスミレには何も聞こえていなかった。
映画の撮影は葵によって随分と遅れを見せた。それでも葵は泣かないようになった。女優として生きていく覚悟でも出来たのだろうか、僕は変わらず淡々と仕事をこなした。
その日の休憩中、葵は久しぶりに僕に話しかけてきた。
「津ヶ谷君がそれだけ幅の広い演技が出来るのはマイペースだからなのね。」
葵はクスリと笑った。僕はそんなつもりはない。ただ、台本を貰った時点で登場人物のイメージが湧くのだ。それと同時に脚本家の腕も分かる。この登場人物はこんな事は言わないだろうな、そんな会話が予定調和のように入っている脚本はだめだ。
思えばこの脚本はあんまりいいものではなかった。主人公の悲劇を際立たせるために試練が山のように起こる。それなのにいとも簡単にそれを乗り越えていく。僕は脚本家ではないため脚本家の苦労は分からない。それでもこの作品は葵が出演する以外の見どころはない。
葵は女優ではなくアイドルにでもなったほうが良い。そんな事を思った。そのほうがリアルな葵が思い描けるのだ。
「ごめん、僕は昨日あんまり寝てないんだ。」
そう言って僕は葵との会話を切った。
スミレは次の舞台に向けて稽古を始めていた。
次の舞台は『瑠璃黄金』という作品だった。若手脚本家の話で内容は分からない。若谷が言うにはスミレは舞台が性に合ってるのか、随分とイキイキしている、それと同時に哲学的な話をしなくなってきた。そう言っていた。
舞台に立つことでフラストレーションが解消されているみたいだね。とも言っていた。
それでも演者さんの間では『紫の哲学者』と呼ばれていることを僕は知っていた。
映画やドラマや舞台には見る側に向けてメッセージがある。作品は直接、それを言われても動かない人々が疑似体験することでそのメッセージをすんなり受け入れてくれる魔法だ。
何か1つが余計でも何か1つが不足しても、その魔法は成立しない。
僕たちは魔法使いだ。
この頃、翔一は、無事にドラマの仕事をオールアップしていた。僕は葵が足を引っ張る現場で怒りをあらわにすることもなく深いため息をついていた。実年齢が近いとは言え、僕たちのキャリアは天と地ほど違うのだ。僕にだって僕を育ててくれた現場はある。それと同時にスミレが心配だった。脇役から主役に抜擢されるケースは確かにあるが、スミレが主役というのはイメージが湧かないのだ。
『花つむぎ』はスミレのイメージ通りの配役だった。彼女が立たなければ誰が立つというような演技だった。
ここでこけて終わるならスミレはその程度の女優だった、そういうことになるだろう。
しかし、僕らにとってスミレは未知数だった。今まで誰にも相手にされないで哲学を語るスミレから舞台を通してメッセージを伝えるスミレへと成長を遂げた。
それ以前に美しくなった。
僕はスミレの次の舞台の前売りチケットを買って、その日を待ち望んだ。
久しぶりの休みに僕はスミレの舞台を見に出かけた。満員御礼だとネットでの書き込みがあった。そうして舞台の幕が上がった。
『瑠璃黄金』はお金持ちの娘の友達がそれに嫉妬して家宝を盗んだものの、それを無くしてしまう、そういう話だった。
ああ、こけたな。僕はそう思った。
しかし観客の反応は違った。『花つむぎ』の頃からのファンが付いているのか予想外の熱気を帯びていた。スミレは生き生きとしている。彼女に必要なのは舞台だったのか、僕はそう思うと同時にスミレが離れていく存在になったことに気づいていた。
あんなに中間層だと主張を覆さなかった人間が、今では大スターだ。僕は楽屋に立ち寄ることなく家へと戻った。
帰ってからスミレにラインをした。
『舞台お疲れさま。もう中間層とは言えないね。』
そう送った。
スミレは手が空いていたのかすぐに返事を返してきた。
『神様の声に従って動けばいつかはその配役も回ってくる。』
そう書かれていた。僕には見えない世界がスミレの前には広がっているのだろう。僕はスミレの言うことがなんとなく分かる気がした。
それからの僕たちは精力的に仕事に励んだ。翔一は、
『自分は助演以上にはなれないんだなと気づいたよ。』
と、ラインをしてきた。それでも僕は翔一を励ました。葵の映画は無事にクランクアップを迎えて、世間に公開された。観客動員数は伸び悩んだものの、葵見たさにファンが押し寄せていた。スミレは舞台役者としてコツコツとキャリアを積み始めた。そんなスミレに呼応するように舞台の仕事は舞い込み続けた。
それでもスミレはまだ自分の人生がしっくり来ていない、そう言って嘆いた。
僕はスミレとラインしながら、スミレが今後も変わらずに舞台に立てる気がしなかった。
僕は次も映画の仕事を受けた。舞台は北海道。ハーブを育てる母親と思春期の息子の話だ。口下手な息子と、背中で語る母親。今回の脚本は当たりだと思った。すべての流れが自然なのだ。僕は主演の友人役だった。僕は基本的に主演を引き受けることはない。お芝居の中で主演というのは学ぶことが多い人生を送る。だが僕はなんとなく人生の筋道が見える。その雰囲気が主演にはふさわしくない。そう思っているからだ。
「津ヶ谷さん、初めまして。大空晴人と言います!」
主演の大空だ。お互いにキャリアは同じくらいだが共演したことは一度もない。
「津ヶ谷ジョウです。よろしくお願いします。」
僕は笑った。大空は普段は葵のような天真爛漫なキャラクターだった。しかし演技に入ると、内気でおとなしい、それでいて母親に対する葛藤を抱えている繊細な少年を見事に演じているのだ。
僕はその様子を見ながらスミレのことを考えていた。僕はスミレが舞台に立ち続ける想像が出来ない。しかし、僕がこうして北海道で撮影している間もスミレは舞台に立っているのだ。
僕は人生を悟ったようなふりをして実は中間層だったのかもな、そう思った。
それから少しして、スミレからラインが届いた。共に舞台に立つ横山るりとのツーショットが送られてきた。横山は主演の経験もある。それなのに主演はスミレだった。
僕はその夜、スミレに電話した。
「遅くにごめん。」
「気にしないで、津ヶ谷君。」
そう言って久しぶりに会話した。
「僕は君が主演に立つイメージが湧かないんだ。」
「そうでしょうね。」
スミレは笑った。
「私は私が思い描く自分であることを手放したの。神様が与えてくれる役割を素直にこなせば、いつかどこかにたどり着く。そんな事を思いながらオーディションを受けたの。そこから一気に世界が変わったわ。」
「僕には君の見えている世界が見えないんだ。」
「私だって津ヶ谷君が見えている世界は見えないわよ。」
そう言ってスミレは笑った。
「葵さんのような絶対的存在には私達はなれないのよ。演じ続けるしか無いのよ。」
「僕たちから演技を取ったら何も残らないのかもね。」
僕たちはそう言って笑った。
僕はその後、映画でアドリブをして良いと言われたシーンで、主演の大空にホースで水をかけた。大空は笑っていた。
アドリブとは言えど芝居は芝居だ。
大空はその場をうまく収めてくれた。人の数だけ物語がある。もしかすると僕は酷く狭い世界でスミレを判断していたのかもしれない。
スミレは舞台女優だ。僕が否定しようとも日に日に彼女は頭角をあらわしていく。
僕はクランクアップを待って、次の仕事を入れた。主演の話だ。
翌日スミレからラインがあった。
『主演おめでとう。』
僕たちは確かに中間層だ。僕はそう思った。与えられた役割をこなせば新しい世界が見える。
そうして僕は新しい台本を受け取った。僕たちは頭の中にある役割に従って今日も演じ続ける。新しい世界に出会う日まで。
大里スミレはいつもそう言っていた。
「暗闇から這い出して光を浴びることもなければ光に包まれて自分の姿が見えないわけでもない。影が濃くなったり薄くなったりを繰り返す、常に緊張を強いられているのよ。」
「へーじゃあ、スミレは中間層なの?」
深山翔一はそう言って笑った。
「人生は舞台よ。役割が決まってるの。翔一にはわからないのよ。」
僕はいつになくヒートアップしているふたりの会話を聞きながら台本に目を通した。
僕たちは芸能事務所ホープの若手俳優と女優だ。
今までパッとした業績はなかったものの、翔一はこの春から始まるドラマの助演の仕事を貰った。
スミレは美人だが古風な美人で華がない。
「なかなかこの台本は面白い話だね。」
僕は翔一に台本を返しながら笑った。芸能界のキャリアは僕が一番長い。
僕はオムツモデルに選ばれた頃からこの業界にいる。両親からは辞めたかったら辞めて良いと言われながら僕はキャリアを積んだ。
「次回作は津ヶ谷は映画だもんな。」
「エキストラ並みに出番がないんだよね。」
そう言って僕たちは笑った。
スミレは面白くないという様子で僕たちを見ている。
「役者として成功したいとかじゃなくて私が私として存在していることが唯一無二じゃないことが嫌なのよ。」
そう言ってスミレは帰っていった。
翌日から翔一はドラマの撮影に入った。僕は映画だ。舞台は東京。部活を通して教師に恋心を抱いた余命僅かな女子高生の話だ。僕は主演の友人役だった。
『無理することないよ。僕はずっと君の味方だ。』
月並みなセリフだ。センスがない。この業界に入って友達はたくさんいた。けれど、余命僅かな友達にかけてあげる言葉がこんな薄っぺらい言葉なのだろうか?僕は思った。
そんな僕に気づいてかこのシーンは3度撮り直しになった。
監督は苦々しい顔をしていた。
「お疲れさま。津ヶ谷君。」
主演の葵小春が話しかけてきた。葵は昨年、全日本美少女コンテストで優勝し、今売出し中の若手女優だ。僕を見ながらニコニコしている。
僕はその様子を見ながらあんまり好きじゃないなぁ、と思った。
葵は僕の様子を気にすることなくスタッフにお礼を言い続けていた。
「津ヶ谷君と共演出来るって聞いて母がサインを貰ってきて欲しいって言うんです。」
「へーそうなんだ。僕で良ければ書くよ。」
「連絡先とか交換しませんか?」
「そういうのはもっと仲良くなってからだよね。」
僕は少し語気を強めた。
「すみません。気をつけます。」
葵がそう言うと、監督が撮影を再開すると言ってきた。僕はこの仕事は引き受けるべきではなかったかもなぁ…そう思いながら現場に戻った。
事務所ではスミレが次のオーディションの相談をマネージャーとしていた。
「着物だったら映えるんだけどねぇ…。」
マネージャーの若谷はそう言って頭を悩ませた。
「大里さんはしょうゆ顔だからなぁ。」
そう言って直近のオーディションの書類を何枚か広げた。
「舞台はどう?稽古は大変だけどなかなかやりがいはあるよ。」
若谷はそう言ってスミレの反応を待った。
「舞台でもテレビでも良いんです。ただ私の替えがきかない現場が良いんです。」
スミレは不服そうに話した。
「替えがきかない役者に大里さんがなるしかないね。」
若谷は笑った。
「数をこなさない事にはそんな役者にはなれないよ。」
「津ヶ谷君は重宝されてるじゃないですか?」
「彼は特殊なんだよ。自分という物が無いのかと思うほど色んな役をこなせるんだ。」
「…。」
「人と比較しないで自分のキャリアを積もう。」
若谷がそういうとスミレは舞台のオーディションの詳細に目を通した。
撮影2日目、僕は図書室で葵と勉強するシーンを演じた。葵は字がきれいな子だった。
昨日、連絡先を僕と交換できなかったのに関わらず休憩中は変わらず他の役者さんと連絡先を交換して回っていた。
オムツモデルから芸能界にいた僕には分からなかったが、葵は今、自分は芸能界にいるんだ、私は役者になったんだ、そういう事を噛み締めていたのかもしれない。
それでも僕は葵と特に話すこともなく相変わらず淡々と撮影に臨んだ。
休憩中は翔一とラインをした。タイミングが合えばすぐに返事が返ってくる。
『葵ちゃん可愛い?』
と何度目かのラインで翔一は尋ねてきた。僕は可愛いとは思わなかったが、
『やっぱり優勝してるだけあって可愛いよ。』
と、返事をした。
翔一からは、
『マジで羨ましいわぁ。』
と返事が来た。僕はそれを見て苦笑した。
僕と翔一はお互いにドラマの撮影と映画の撮影が続くなか、スミレが舞台の主演に抜擢されたと言う話を聞いた。
何でも舞台監督がスミレの哲学的な思考に興味を示したかららしい。
ドラマや映画と違って舞台は通し稽古だ。脇役しかしてこなかったスミレが心配だった。
スミレの舞台は土井佐武郎原作の『花つむぎ』という作品だった。
女中の娘として産まれた少女がその美貌から旦那様の嫁に選ばれると言うような話だった。
僕は撮影の合間を縫って神社でスミレの舞台が成功するように祈願してお守りを買った。
マネージャーを通してお守りはスミレの手に渡った。ラインで御礼が来た。
スミレはいつもと変わらずに、
『中間層の人間は善にも悪にも染まる。そしてそれを1番身近に見ているのも中間層だ。』
という文章を送ってきた。
僕はスミレは哲学者になったほうがどれだけか良かったのではないのだろうか、そう思った。
1か月の稽古を終えてスミレは舞台に立った。僕は撮影が休みの日、スミレの舞台へと足を運んだ。
幕が上がると、順調に芝居は続いた。
『旦那様、私は女中の身分ですのよ。』
『小夜、私ではだめなのかい?』
あのスミレがこんな役をこなせるのかと思うほど作品は完成されていた。
僕は花束を用意して楽屋へと向かった。
楽屋でのスミレは、
「小夜は自分が正しいと思った方に最後は進むんです。それが小夜の私達に伝えたいことだと思います。」
と、監督と語っていた。
僕は邪魔にならないように花束を渡してそそくさと退散した。
スミレが追いかけてきて僕を捕まえた。
「ごめんね。今日は演技に熱が入って語りたかったのよ。」
そう言って笑った。
「迷ったら明るい方を選べば良いのよね。小夜はきっとそうするわ。」
「それってどういう意味?」
僕は尋ねた。
「神様の導く方に進めば良いのよ。」
やはりスミレは哲学者だ。話が通じない。僕は用事があると言ってその場を後にした。
それからのスミレは舞台での芝居が高く評価され様々な分野から出演依頼が舞い込んだ。
マネージャーの若谷は、
「ここからが正念場だよ。国民に愛される女優になるか一発屋で終わるか。」
そう言って嬉々としていた。
ある日の午後、僕はスミレが脇役で出演した作品をぼんやり眺めていた。
役者としてのキャリアが浅いとはいえこだわりの強さだけは際立つ演技だった。
それでも舞台で見せたような輝きは見られない。
スミレは舞台に立つ前言っていた。人生はなりたいものになれるわけではない、それでも続けていればいつか本物になる。
僕はスミレは本物になったのか…そう思ってテレビを消した。
映画の撮影も中盤に差し掛かった辺りで葵は失速した。連日の撮影、トレーニング、発声練習、たぶんほぼ休みはなかったのだろう。
続けても続けてもセリフが出てこない。
監督は見るに見かねて休憩を挟んだ。葵はメイクが崩れるのもお構い無しで涙を流した。
ベテラン俳優の黒金が葵を励ました。それでも時間は迫ってくる。
結局この日は葵の出番がない場面を撮影して終わった。僕は初日に浮かれていた葵を思い出して、だからだよ、そう思った。
スミレは次回も舞台に立つことを希望した。運良く舞台のオファーがあった。
「舞台にこだわらなくても良いんだよ。」
若谷はそう言ってスミレに他の仕事も提案した。
「私は舞台役者です。舞台に立つと閃きが降りてくるんです。作品のテーマが降りてくるんです。天職だと思います。」
そう言って意気込みを語った。
「自分の可能性をそんな若いうちに定めてはいけないよ。」
若谷はそう言ったがスミレには何も聞こえていなかった。
映画の撮影は葵によって随分と遅れを見せた。それでも葵は泣かないようになった。女優として生きていく覚悟でも出来たのだろうか、僕は変わらず淡々と仕事をこなした。
その日の休憩中、葵は久しぶりに僕に話しかけてきた。
「津ヶ谷君がそれだけ幅の広い演技が出来るのはマイペースだからなのね。」
葵はクスリと笑った。僕はそんなつもりはない。ただ、台本を貰った時点で登場人物のイメージが湧くのだ。それと同時に脚本家の腕も分かる。この登場人物はこんな事は言わないだろうな、そんな会話が予定調和のように入っている脚本はだめだ。
思えばこの脚本はあんまりいいものではなかった。主人公の悲劇を際立たせるために試練が山のように起こる。それなのにいとも簡単にそれを乗り越えていく。僕は脚本家ではないため脚本家の苦労は分からない。それでもこの作品は葵が出演する以外の見どころはない。
葵は女優ではなくアイドルにでもなったほうが良い。そんな事を思った。そのほうがリアルな葵が思い描けるのだ。
「ごめん、僕は昨日あんまり寝てないんだ。」
そう言って僕は葵との会話を切った。
スミレは次の舞台に向けて稽古を始めていた。
次の舞台は『瑠璃黄金』という作品だった。若手脚本家の話で内容は分からない。若谷が言うにはスミレは舞台が性に合ってるのか、随分とイキイキしている、それと同時に哲学的な話をしなくなってきた。そう言っていた。
舞台に立つことでフラストレーションが解消されているみたいだね。とも言っていた。
それでも演者さんの間では『紫の哲学者』と呼ばれていることを僕は知っていた。
映画やドラマや舞台には見る側に向けてメッセージがある。作品は直接、それを言われても動かない人々が疑似体験することでそのメッセージをすんなり受け入れてくれる魔法だ。
何か1つが余計でも何か1つが不足しても、その魔法は成立しない。
僕たちは魔法使いだ。
この頃、翔一は、無事にドラマの仕事をオールアップしていた。僕は葵が足を引っ張る現場で怒りをあらわにすることもなく深いため息をついていた。実年齢が近いとは言え、僕たちのキャリアは天と地ほど違うのだ。僕にだって僕を育ててくれた現場はある。それと同時にスミレが心配だった。脇役から主役に抜擢されるケースは確かにあるが、スミレが主役というのはイメージが湧かないのだ。
『花つむぎ』はスミレのイメージ通りの配役だった。彼女が立たなければ誰が立つというような演技だった。
ここでこけて終わるならスミレはその程度の女優だった、そういうことになるだろう。
しかし、僕らにとってスミレは未知数だった。今まで誰にも相手にされないで哲学を語るスミレから舞台を通してメッセージを伝えるスミレへと成長を遂げた。
それ以前に美しくなった。
僕はスミレの次の舞台の前売りチケットを買って、その日を待ち望んだ。
久しぶりの休みに僕はスミレの舞台を見に出かけた。満員御礼だとネットでの書き込みがあった。そうして舞台の幕が上がった。
『瑠璃黄金』はお金持ちの娘の友達がそれに嫉妬して家宝を盗んだものの、それを無くしてしまう、そういう話だった。
ああ、こけたな。僕はそう思った。
しかし観客の反応は違った。『花つむぎ』の頃からのファンが付いているのか予想外の熱気を帯びていた。スミレは生き生きとしている。彼女に必要なのは舞台だったのか、僕はそう思うと同時にスミレが離れていく存在になったことに気づいていた。
あんなに中間層だと主張を覆さなかった人間が、今では大スターだ。僕は楽屋に立ち寄ることなく家へと戻った。
帰ってからスミレにラインをした。
『舞台お疲れさま。もう中間層とは言えないね。』
そう送った。
スミレは手が空いていたのかすぐに返事を返してきた。
『神様の声に従って動けばいつかはその配役も回ってくる。』
そう書かれていた。僕には見えない世界がスミレの前には広がっているのだろう。僕はスミレの言うことがなんとなく分かる気がした。
それからの僕たちは精力的に仕事に励んだ。翔一は、
『自分は助演以上にはなれないんだなと気づいたよ。』
と、ラインをしてきた。それでも僕は翔一を励ました。葵の映画は無事にクランクアップを迎えて、世間に公開された。観客動員数は伸び悩んだものの、葵見たさにファンが押し寄せていた。スミレは舞台役者としてコツコツとキャリアを積み始めた。そんなスミレに呼応するように舞台の仕事は舞い込み続けた。
それでもスミレはまだ自分の人生がしっくり来ていない、そう言って嘆いた。
僕はスミレとラインしながら、スミレが今後も変わらずに舞台に立てる気がしなかった。
僕は次も映画の仕事を受けた。舞台は北海道。ハーブを育てる母親と思春期の息子の話だ。口下手な息子と、背中で語る母親。今回の脚本は当たりだと思った。すべての流れが自然なのだ。僕は主演の友人役だった。僕は基本的に主演を引き受けることはない。お芝居の中で主演というのは学ぶことが多い人生を送る。だが僕はなんとなく人生の筋道が見える。その雰囲気が主演にはふさわしくない。そう思っているからだ。
「津ヶ谷さん、初めまして。大空晴人と言います!」
主演の大空だ。お互いにキャリアは同じくらいだが共演したことは一度もない。
「津ヶ谷ジョウです。よろしくお願いします。」
僕は笑った。大空は普段は葵のような天真爛漫なキャラクターだった。しかし演技に入ると、内気でおとなしい、それでいて母親に対する葛藤を抱えている繊細な少年を見事に演じているのだ。
僕はその様子を見ながらスミレのことを考えていた。僕はスミレが舞台に立ち続ける想像が出来ない。しかし、僕がこうして北海道で撮影している間もスミレは舞台に立っているのだ。
僕は人生を悟ったようなふりをして実は中間層だったのかもな、そう思った。
それから少しして、スミレからラインが届いた。共に舞台に立つ横山るりとのツーショットが送られてきた。横山は主演の経験もある。それなのに主演はスミレだった。
僕はその夜、スミレに電話した。
「遅くにごめん。」
「気にしないで、津ヶ谷君。」
そう言って久しぶりに会話した。
「僕は君が主演に立つイメージが湧かないんだ。」
「そうでしょうね。」
スミレは笑った。
「私は私が思い描く自分であることを手放したの。神様が与えてくれる役割を素直にこなせば、いつかどこかにたどり着く。そんな事を思いながらオーディションを受けたの。そこから一気に世界が変わったわ。」
「僕には君の見えている世界が見えないんだ。」
「私だって津ヶ谷君が見えている世界は見えないわよ。」
そう言ってスミレは笑った。
「葵さんのような絶対的存在には私達はなれないのよ。演じ続けるしか無いのよ。」
「僕たちから演技を取ったら何も残らないのかもね。」
僕たちはそう言って笑った。
僕はその後、映画でアドリブをして良いと言われたシーンで、主演の大空にホースで水をかけた。大空は笑っていた。
アドリブとは言えど芝居は芝居だ。
大空はその場をうまく収めてくれた。人の数だけ物語がある。もしかすると僕は酷く狭い世界でスミレを判断していたのかもしれない。
スミレは舞台女優だ。僕が否定しようとも日に日に彼女は頭角をあらわしていく。
僕はクランクアップを待って、次の仕事を入れた。主演の話だ。
翌日スミレからラインがあった。
『主演おめでとう。』
僕たちは確かに中間層だ。僕はそう思った。与えられた役割をこなせば新しい世界が見える。
そうして僕は新しい台本を受け取った。僕たちは頭の中にある役割に従って今日も演じ続ける。新しい世界に出会う日まで。
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