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盲目の騎士〜第三章〜

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奇跡があるとするならばそれは彼の偉業だろう。私は今なら自信を持ってそう言える。
会社の海外赴任に応募して一番楽だった事は名前を覚えてもらうことだ。下の名前はともかく、青柳の名を出すと皆、その場で覚えてくれる。
「アオヤナギ、ヴンダーマーラー(奇跡の画家)。」
そう言われて私は笑った。
結婚してからいつも一緒に居た期間、私は青柳の一番そばに居た。そのつもりだった。
けれど作品づくりをしている青柳は私の知らない彼だ。
キャンバスに筆を叩きつけながら、絵の具まみれになりながら彼は作品を生み出す。
トイレに行くことも水分補給することもなく黙々と絵を描く。
描けば描くほどにインスピレーションが浮かんでくる。そう言っていた。
高真は相変わらず飄々としたもので、
「山本さん、離婚届を書いたらまず僕に相談してください。」
そう言って笑った。
日本を経つ前に青柳は1枚の絵画を私にくれた。裏面にはF0と印字されていた。荷物にならないように一番小さいサイズだと言っていた。
そこにはウサギの絵が描かれていた。
「ウサギは寂しがり屋だからねぇ。」
青柳がそう言った意味が私には分からなかった。

「あー、もう!」
日本のアトリエでは青柳が苛立って居た。
「最初は毎日電話してたのにぃぃぃ。」
高真は爆笑した。
「それだけ充実してるんじゃないのか?」
「美智香は女子高育ちだからか自分が美人だって自覚がないんだ。それなのに、それなのにぃぃぃ。」
青柳は相変わらず絵を描いていた。高真は手を叩いて、
「はい!休憩!皆もね。」
と言った。
高真と青柳は今までふたりで絵画の展示会やら、ネット販売をしてきたがあまりの忙しさから、会社を立ち上げて従業員を雇うようになった。
社長は高真だ。
「そんなに好きなら毎晩抱いとけば良かったのに…。」
「それはだなぁ…。」
青柳はモゾモゾと動く。
「どうせ、声を聞いたら思い出すから嫌なんだろう?」
「高真ー!」
「本当にヘタレだなぁ…。」
スタッフは笑った。
「高真さん、ここ教えて欲しいんですけど。」
スタッフの南だ。
「ああ、ここはね~。」
南は元々、同業他社で働いていたので仕事は早い。
「あ、すみません。青柳先生の飲み物が先でしたね。」
南はペットボトルの蓋を開けてストローをセットして青柳に手渡した。
「どうせなら裸婦とか描いたらどうだ?お前のことだから念入りに撫で回したんだろう?」
「うぅ…。」
青柳は呻いた。
「出来るわけ無いだろう…体温だけでもドキドキするんだ…。」
スタッフに筆を渡すと青柳は続けた。
「女性の身体は神秘に満ちている…。」
青柳は天を仰いだ。
「聖人は、ただのスケベなおっさんだったんだな。売上が落ちなくて本当に良かったよ。」
「高真…お前は俺に何か恨みでもあるのか…。」
青柳は手ぐすねを引いた。しかし高真は気にすることなく話し続けた。
「うちの嫁がさぁ…。」
「実家に帰ったのか?」
青柳もなかなか負けてはいない。
「今度リビングに飾る絵が欲しいっていうんだけど…。」
「うーん。」
「お前は動物と風景ばっかり描くからなぁ…。」
「リビングかぁ…何が良いだろうなぁ?」
ふたりは頭を悩ませた。
「あの高真さん。」
芸大生アルバイトの木内が話した。
「今、時代はアオヤナギブランドです。なので海外にも販路拡大をはかるべきだと思います。」
「それなんだけどねぇ。うちは語学堪能な人がなかなか来ないんだよね。」
高真は、そう言って欠伸をした。
「ゆっくりやればいいよ。売れなくなったら芋でも売るよ。」
皆は爆笑した。

美智香の勤務支局はドイツだった。ソーセージと芋ばかり出てくるこの国で日本食が恋しくなった。たぶん必要になるでしょうねーと言われ、高真からは粉末の醤油を貰っていた。
米が食べたい…。美智香は思った。
ネットで検索をかけ休みに日本食を買いに出かけた。日本で買うより値段は高い。
お刺し身でもあったらなぁ…そう美智香は思った。インスタントラーメンの売り場に来て味噌味に手を伸ばした。
「失礼。」
若い男性とぶつかった。日本語を聞くのも久しぶりだった。
「あの、日本の方ですか?」
「はい…?」
「私、青柳と申します。この辺でお刺し身とか扱ってるお店って無いですか?」
「え…?」
同じ日本人、彼は悪い人ではない。美智香は無意識にそう思った。
「すみません、僕は結婚してるんで。」
「は?」
美智香は聞き返した。
「あ、いや、そういう意味かと…。」
なんて自信がある男の人なんだろう美智香は思った。
「ナンパじゃないんです…。」
そう言って美智香は沈んだ。お刺し身は食べれないなぁ…そう思ってレジに並んだ。
「あの、うち来ます?」
「え?」
「嫁が捌いてくれるので…。」
彼は魚を袋から出した。鮮度とか大丈夫なのかなぁ…そんな見当違いの事を美智香は考えながら彼に付いていった。

彼は日本人の割合が多いデュッセルドルフという街に住んでいた。
「申し遅れました。僕は岩崎と言って医師をしています。」
「お医者様何ですか?!」
美智香は驚いた。
「これでも外科医なんです…。」
岩崎はニコニコしている。
「嫁の乃々佳です。彼女も外科医なんです。」
「私はライターの青柳と申します。」
「画家の青柳先生と同じ苗字ですよね~。」
「有名人ですね。」
そう言って岩崎夫妻は笑った。
「はい…。画家の青柳の妻です。」
美智香がそう言うとふたりの笑いはピタリと止まった。
「あの盲目の天才の?!」
「はい…。あの盲目の天才の…。」
何故か美智香は萎縮した。海外にも青柳の名前は知れ渡っているのだ…。
「へー。」
岩崎は少し考えて言葉を選んだ。
「虚言では無いんですよね?」
「私がですか?青柳がですか?」
美智香はそう尋ねた。
「盲目で絵が描けるんですか?」
美智香は簡潔に青柳の作画風景の話をした。岩崎夫妻は更に食いついた。
「病気が遺伝する可能性があるから子供は作らないと言われてしまって…。」
美智香は勧められるまま飲んだビールで酔いが回ってきた。
「彼は私の姿を見たこともないんです。それなのに美人だ美人だって言って…。」
「いやいや美人ですよ。」
乃々佳はそう言った。
「嫁の手前、あんまり言えないですけど初めて見た時、こんなキレイな方がいるんだなぁと思いましたよ。」
岩崎は乃々佳の顔色を伺いながらも力強くそう語った。
「ご自宅までお送りしますね。」
乃々佳はそう言って美智香とガレージに移動した。
「夫も一応男なので…。」
今になって美智香は自分がなんてことをしているんだろうと思った。
車に乗ると乃々佳は、
「よかったら今度日本に行った時、遊びに行かせてください。」
と言って笑った。美智香は岩崎夫妻が善人で良かったと心の底からそう思った。

「私って何なのかなぁ…。」
美智香はドイツに来てから尚更そう思った。青柳の名前を出すとフリーパス何じゃあ、そんな事を思った。日本を出て良かったと本当に思った。日本にいたらますます青柳の名前に依存していただろう。ドイツ支局には少ないが日本人も居た。神林が懐かしい、そう思った。
「青柳ー。ちょっとー。」
先輩の向坂に会議室に呼ばれた。
「ドイツでの生活はもう慣れたか?」
「えーと、私がですか?」
「お前以外に誰がいる?体調悪いと思ったらすぐに病院に行くんだぞ。ただでさえ水が合わないんだ。」
「はーい。」
小さい声で美智香は答えた。
会議室のデスクには、ゲラが広げてあった。
「どれが一番目に留まるんだ?」
「はい?」
美智香は悩んだ。
「どれって…?」
「青柳の嫁なんだろう。センスが良いとかそういうのじゃないのか。」
「私は作画には関わっていないので。」
「じゃあお前には何が出来る?ここでお前は何が出来る!」
美智香は黙って立ち尽くした。

「はい。ギャラリーアオヤナギです。」
電話に出たのは木内だった。
高真と青柳はそちらを見た。何やら様子がおかしい。
「ええと、少々お待ち下さい。今担当者に変わります。」
保留ボタンを押して木内は話した。
「作品が剥落したって…。」
「ああ剥落かぁ…たまにあるよね。」
「でも何か様子がおかしいんです。子供の絵だって言うんですよ。」
「子供の絵…?」
高真は怪訝な顔をした。
「お電話変わりました、社長の高真です。木内からお話を伺いました。子供の絵なんですね?それはギャラリーアオヤナギから購入したものでしょうか?」
青柳は高真の声が聞こえるよう杖をカンカン鳴らしながら事務所に近寄ってきた。
「申し訳ありませんが青柳は子供の絵は描いたことが無いんですよね。なので限りなく青柳のタッチに似せた贋作かと…。」
高真はスタッフを見渡して頷いた。
「よろしければこちらでも確認したいので着払いでその作品を送ってください。お待ちしております。」
そして、この日を境に15件の贋作の問い合わせがあった。

「盲目の画家、それだけで価値があるんだなぁ。」
高真は腕組みしてため息を付いた。贋作は限りなく本物に近いものからお話にならないというレベルのものまであった。
「剥落はどうする?」
青柳は高真に尋ねた。自分の絵でもなく作風も分からない。それ以前に盲目の青柳にとって剥落した場合、自分の作品であっても自身での修復は不可能だ。
「僕やります!」
木内が手を挙げた。
「大学ではキュレーターの勉強もしてますから。勿論出来るものだけですけど。」
高真は梱包されてきた送り状の住所や電話番号を控えながら難色を示した。
「取り敢えず警察に行かないと…。」
南は後ろからゆっくりその様子を見ながら、
「僕が昔、居た会社かもしれません。」
と話した。
「青田刈りって言うんですか?美大、芸大を周って著名な作家さんのタッチと似た子を集めて複製画を描かせるんです。」
南は青柳の筆を洗浄液に浸しながら話した。
「最初のうちは複製画として売るんです。でもそのうちに本物そっくりに描ける人が出てくると本人の作品のふりをして売るんです。」
いつも冗談を挟んで話す高真がこの時は笑わなかった。
「うちの聖人にこんな娯楽は必要ないんだよ…。」
高真はうちに怒りを秘めていた。

「美智香さん、久しぶりだね。」
自宅に帰ると高真が携帯から電話して青柳は話した。
「青柳先生、無理してませんか?私だったら大丈夫です。最近、日本人の友達が出来たんです。」
美智香の声は明るい。青柳は贋作の話は今の美智香にすべきではないなとそう思って口をつぐんだ。
「高真さんは相変わらずですか?」
「はい、高真でーす。」
「ははは。」
青柳は笑った。
「山本さんが初めて個展に来た日のことを思い出しますよ。」
高真は楽しそうに話した。
「雨なのに傘忘れてコンビニでも売り切れで、なのにずぶ濡れで会場に来て出した名刺は曲がってて…。」
「ちょっ、高真さん。青柳先生と話したいんです。」
「青柳はウサギですからね。」
「それってどういう意味なんです?」
電話越しに2人が爆笑した。
「ウサギについてはねぇ。」
青柳は笑った。
「寂しいと死んじゃうんですよ。」
高真が後ろから話した。
「それともう1つあるんですけど…。」
青柳は高真から携帯を奪った。
「美智香さんは美人なんだから簡単に友達が出来たと思わない方がいい。日本国内であっても怖い事件はあるんだから。」
青柳は不安だった。最近、夢で美智香から離婚届が届く夢ばかり見る。そんな事は口に出せなかった。
「仕事は慣れたかい?」
美智香は先日の事を思い出してだんまりとした。
「あの、私、仕事では山本の姓を名乗ろうかと思って…。」
離婚…?青柳の脳裏にその言葉がよぎった。
「俺に至らないところはたくさんあると思うんだけど。」
「何の話ですか?」
美智香は不思議そうに話した。
「青柳先生の名前が有名すぎて色んな人から期待をかけられているんです。」
高真は頷いた。
「美智香さんは俺以外追ってる記事はあったの?」
「記事にできたのは14件くらいですけど。」
「凄いのかどうか分からないけど海外赴任にだって選ばれたんだから優秀なんだと思うよ。」
青柳は背筋を伸ばした。
「美智香さんならできるよ。じゃあ明日の準備があるからおやすみなさい。時差って7時間だよね。大丈夫だった?」
「今日は休みなんで洗濯でもします。」
美智香は明るくそう答えた。
「それでウサギの意味って何ですか?」
「秘密。愛してるよ。美智香さん。」
そう言って青柳は電話を切った。

それから青柳は15件の贋作の代わりの作品と手紙を用意することにした。
「この度は、ギャラリーアオヤナギに作品についてのお問い合わせを頂きありがとうございます。当方でも確認させて頂きましたが、お送り頂いた作品は青柳聖人本人の作品ではありませんでした。代わりとしては何ですが青柳聖人本人が描いた作品をお送りいたします。どうぞご査収ください。ギャラリーアオヤナギ代表、高真武彦。」
青柳の言葉に合わせて木内が手紙の文章を起こした。
「次の個展まで時間もないのに15も行けるか?」
高真は不安げな表情を浮かべた。
「俺は絵が好きだ。それを支持してくれる人たちがいたから俺は障害者として家にこもる人生じゃなく人前に出る生き方を選べた。この人たちが青柳を愛してくれるなら、俺は期待に答えたい。何よりもこれがきっかけで絵が嫌いになってほしくない。」
この日は警察が贋作の確認に来ることになっていた。
「オリエンタルアート…。」
高真は検索をかけた。贋作の購入元だ。しかし、画面をスクロールしても青柳と騙る作品は出てこない。
「先に勘付かれたんですかね?」
南は話した。
「いや、話によると贋作を買った人達は元々別の作品を購入予定だったらしい。」
「そこにアオヤナギブランドを持ちかけられた、と。まだアオヤナギブランドを売っているんですかね?」
「この手の犯罪は名前を変えて繰り返されることが多い。被害はたぶんうちだけじゃない。」
高真は悩んだ。
「取り敢えず、今日は警察が来るから見られて困るものは片付けとくんだよ。」
高真がそう言うと笑いが起きた。
「見られて困るものかぁ…。」
「青柳先生の奥さんデッサン集とか…。」
「南、何故お前が知っている…。」
青柳は圧をかけた。
「皆知ってますよ。寂しくなると奥さんのデッサンするんですよねぇ。しかもねっとりみっちりと。」
「聖人、大丈夫だ。俺も知っている。」
高真は力を込めてそう言った。
「ここは弱者に優しくないんだな…。」
そう言って青柳は杖をカンカン鳴らした。皆はクスクスと笑っている。
「弱者って、ここで一番強いのは聖人だろう?」
「はいはい、高真にはかないませんよー。」
そう言って青柳はキャンバスが置いてある場所へ足を運んだ。
「F10が欲しい。でもどのくらいのサイズだったか確認したい。」
南がF10とF15を出して青柳に差し出した。
「なにを描くんですか?」
「なにかを描くんだよ。」
青柳は高真にF10のキャンバスを運ばせて定位置についた。
「裸婦ねぇ…。」
青柳は呟いた。
「描くのか?」
高真はワクワクしながら振り返った。
「誰が描くか!!」
青柳はすかさずそう答えた。

青柳と電話してからの美智香はとにかく進んで雑用をこなした。言葉を覚えないとその先には進めない。ドイツ語は学校で習ったわけではない。基本的な会話は出来る美智香だったが、どうしても分からない場合、携帯の翻訳で言葉を聞き、返事を返した。向坂はそんな美智香を高く評価した。
そうして美智香は徐々にだがドイツ支局での自分の居場所を確立していった。
美智香は仕事とは別に、休みになると岩崎夫妻と食事をするようになった。
美智香は専門的なことは分からなかったが、2人は青柳の病気について調べて回ってくれた。
青柳の病気は眼球そのものには異常がなく、その周りの血管に問題が生じると言うものだった。そのため、角膜移植などでは根本的な解決にはならない。
「彼に新しい世界を見せてあげたいんです。きっと彼は素晴らしい世界を描きあげるでしょう。」
美智香はそう語った。
「医療は日々進歩していますからね。いつかその日がきっと来ます。」
岩崎夫妻はそう言って、美智香を励ましてくれた。美智香は2人にお礼がしたいと言った。すると2人は、
「では、青柳先生の作品をください。」
と言った。やはり青柳なんだなぁと美智香は思った。

次の日の朝、自宅で食事をしていた美智香は日本のニュースを目にした。
それはギャラリーアオヤナギが、贋作作品により損害を被っていると言うニュースだった。
美智香はすぐさま青柳に電話した。しかし青柳は電話に出ることはなかった。
職場についた美智香は向坂に呼ばれた。
「誌面はあけてやる。ギャラリーアオヤナギの詳細を取ってこい。」
そう言われた。
「あの、私は…。」
美智香は戸惑った。
「結婚する時に青柳の記事は書かないと誓ったんです。」
「じゃあ他の人間の名前で出す。それなら調べられるだろう?」
美智香は悩んだ。
「青柳先生は持病を抱えているんです。外からの刺激が多すぎるとストレスで倒れてしまうこともあるんです。」
「もう良い!話にならない!」
向坂は苛立った。
「社長の高真さんになら話が聞けるかもしれません。」
「本当か?!トップとはいかないが良い場所をあけておいてやる。」
美智香は自分の持ち場に戻った。
携帯を出して高真に電話した。3コール鳴ったところで高真が出た。
「山本さん、ニュースを見たんですね?」
そう言って高真は大きくため息を付いた。
「青柳先生と連絡が取れないんですけど…。」
「ああ、それだったらアトリエにこもっているからですよ。」
「何が起きているんですか?」
美智香は今までにないくらい不安だった。ドイツに来て自分が青柳の妻だというのは大変なことなのだ、そして自分はそれについていけてない、そう思った。
「まだマスコミ各社に発表する原稿が上がってないんです。今度はこちらから連絡します。」
そう言って高真は電話を切ろうとした。
「あの、その記事うちの独占取材にしていただけませんか?」
美智香は言った。
「独占取材となると…。」
高真が悩んでいるのが伝わってきた。
「青柳先生と高真さんにご迷惑はおかけしません!お願いします!」
「取り敢えず今日も警察の方と話があるのでその後、時間があればご連絡します。」
「あの高真…。」
そして電話は切れた。

アトリエでは青柳がスケッチをしていた。その横で警察と高真が話をしている。高真と警察は関係者の連絡先や、事の詳細について語っていた。
青柳は高真がいないと色が作れない。描きたいという想いばかりが膨らんで形にならない。そんなもどかしさを抱えながら、警察が帰るのを待った。

3時間が経って警察は帰った。
「聖人、山本さんから連絡あったぞ。」
高真は話した。
「ええ!!」
青柳は事務所の南から携帯を受け取った。
「向こうだって今取れるかはわからないぞ。」
そう言って高真は美智香に電話した。
やはり電話には出ない。高真は青柳の耳元に携帯をかざした。
「ほら、出ないだろう?」
落胆する青柳を見て高真はため息をついた。
「今起きてるこういう事件って業界ではよくある話なんだけどな。」
そう言って、高真は伸びをした。
「山本さんが独占取材を申し込んで来たぞ。お前はどうしたい?」
青柳は黙り込んだ。
「高真にお願いしたいことがある。」
「何だ改まって。」
「美智香の勤務する出版社から美智香の書いた記事を取り寄せて欲しい。」
「構わないけど…。」
「彼女の書く記事は人を動かすものなのか、それを見極めたい。」
青柳はキャンバスの前で座り込んだ。

「お電話かわりました。旭ヶ丘出版、編集部の神林です。え、青柳ですか?今、日本にはいないんですが…。」
元気よく電話に出た神林の方に政岡の視線は向いた。
「え、青柳先生?ギャラリーアオヤナギ?」
神林は電話を保留にして政岡の指示を仰いだ。
「画家の青柳先生だって言うんですけど。」
「どういうことだ?」
「それが分からないんです。」
神林は保留を解除して政岡に電話を繋いだ。
「上司の政岡です。青柳になんの御用でしょうか?」
「わたくし、ギャラリーアオヤナギ社長の高真と申します。お世話になります。」
「はい。それで?」
「昨日、貴社の青柳様から独占取材の申し込みがありました。それで彼女の書いた今までの記事を読ませて頂きたいと思いまして。」
「青柳はお宅の青柳先生の嫁でしょう?何故そんな回りくどいことをするんです。」
「それはあの、結婚する際に彼女は青柳の記事は書かないと約束したんです。ですが、彼女が書いた記事を青柳自身が読んだことがなくて。」
「つまりは彼女の記事を読んで判断したいということですか?」
「そのとおりです。」
政岡はニヤリとした。
「今日中にお出し出来るものは全て用意します。その代わり、独占取材はうちでお願いします。」
政岡はそう言って、電話を切った。
「手伝え、神林。」
「え、何をですか?」
「スクープ取れるぞ!」
政岡はシャツを腕まくりして美智香の記事を探した。

次の日、朝イチで、ギャラリーアオヤナギへと美智香の記事は届けられた。木内が1枚ずつ美智香の記事を読み上げていく。
それはスクープとは到底結びつかないような素朴な記事だった。
「では青柳先生よろしくお願いします。」
神林は政岡とともにそう言った。
「すみません、青柳ではなく私でお願いします。」
高真が話した。
青柳と木内はアトリエに椅子を移して記事を読み続けた。たまにふたりでクスリとした。
「純朴ですね…。」
「学校の校歌思い出すな。」
木内と青柳は盛り上がった。南が千円札を1枚持って事務所から出てきた。
「これで神林さん達の飲み物買って来れるか、木内?」
「僕は行けますけど青柳先生は?」
「青柳先生、事務所で座ってて貰えますか?」
「良いよ~。」
いつもの青柳だ。事務所に入る時、フリースペースに居る高真と神林の声が聞こえた。
高真はいつになく辛辣だ。
青柳は事務所でいつものペットボトルのお茶にストローを差して貰いチューチューとお茶を飲んだ。
「南くんはさ、なんでそんなに情報通なの?」
青柳は前から疑問だったことを聞いた。
南は怯えていた。
「あの、僕が昔居た会社で、僕は絵を描く学生の側だったんです。」
南は深呼吸した。
「絵が好きで好きで描き続けたい。その一心で僕はその会社の言うことを聞いたんです。」
青柳は机にお茶を置いた。
「絵が描きたい、でもお金がかかるのは避けられない。複製画なら練習にもなって良い、そんな浅はかな気持ちでした。」
南は更に続けた。
「自分でも途中から自分がなにをやってきたのか罪の重さを感じてその場から逃げ出しました。僕の描いた贋作は今も市場に出回っています。いつかそれもバレる日が来るでしょう。」
南は涙を拭いて鼻をかんだ。
「それでも僕は絵が好きでこの業界に留まりたい一心で仕事してきました。もう今では筆を握ることはないですけどね…。」
青柳は杖をカンカン鳴らした。
「絵は好きかな?」
「だから好きだって…。」
「好きで好きで眠れない。そんな夜もあったなぁ…。南くんはそのくらい絵が好きだったかい?」
「僕は…。」
南は泣いた。
「描きたかった物が何なのか、もうわからない。それでも好きなんです。きっと今、青柳先生の作品を描かされている人達も同じ様に絵が好きなんだと思います。」
「そうだね。そうじゃなきゃ、飾ってもらえないだろうね。」
少しして木内が戻ってきた。
「オリエンタルアートを業界から追放してやる!!」
木内はいきなりそう言ってポーズを決めた。
「立ち聞きしてたろ?」
青柳がカンカンと杖を鳴らす。
「だって神林さん可愛いんですもん。」
「そっちの話か…。」
青柳はホッとした。
「ブラックマーケットって言うんですか?今どきそんなのあるんですね。」
「へー。」
南は少し赤い目をしていた。
「青柳先生、続き読みます?」
木内は尋ねた。
「うーん、もういいかな。美智香はスクープ取れるような記事書かないって分かったし。」
「でも、これとか凄く面白かったですよ。」
そう言って木内は1枚の記事を手にした。
「子供の安全を守るために、子供自身ができること。」
青柳は黙ってぼんやりした。
「子供…。」
木内は青柳の顔を覗き込んだ。
「美智香も子供欲しいんだろうな。」
青柳はデスクをゆっくり探ってお茶のペットボトルをつかんで、またお茶をチューチューと飲みだした。

活字離れが進んでいるこのご時世にギャラリーアオヤナギの記事は飛ぶように売れた。
それはふたりの歴史でもある。
美智香は神林が書いた記事を読みながら、涙を流した。
高校時代、失明宣告を受けて酒とタバコを少しだけ試してみたこと、絵の具まみれになりながらふたりで喧嘩したこと。試しに国展に作品を応募して惨敗だったこと。美智香の知らない青柳が溢れていた。帰りたい…。美智香はそう思った。
岩崎夫妻が心配して電話をかけてきてくれた。
「今は渦中で大変でしょうけど、少しの辛抱だと思いますよ。無理して倒れませんように。」
そう言ってくれた。
ノートパソコンで、日本の取材風景を見た。オリエンタルアートは架空の会社でホームページに記載されている住所には建物は無かった。
贋作だとは知らずに絵を描いたという人も取材を進める中、出てきた。
真相究明に向けてマスコミ各社は動いた。
オリエンタルアート代表のモザイク映像を出している局もあった。
何が真実で何が虚構なのか。この世はわからないことだらけだ。
ギャラリーアオヤナギは取材拒否の中、旭ヶ丘出版にだけインタビューを許していた。
それでもテレビの取材は続き、
「アーティストのみなさんが作品を作りながら幸せな人生を歩めることを心から願っています。」
と青柳は語った。

次の青柳の個展は会場の外にまで長い列ができた。美智香はサーモンピンクのスーツを着て受付の手伝いをした。
いつも通り、青柳は会場で杖を付きながら多くの人に言葉を投げかけられていた。
受付をしていると神林がやってきて代わります、と言ってきた。
「個展の間しか一緒に居られないんですからこんな雑用、人に押し付けて良いんです!」
神林は何故か自信満々にそう言った。
「雑用…。」
木内が何か言いたげな顔をして神林を見ていた。
美智香は皆に勧められるまま青柳の側に付いた。
「美智香さん。受付は?」
「うちの神林がしてます。」
青柳はドキドキしていた。だが美智香はそれに気付かない。
「こんにちは~。」
「来てくれたんですか!」
後ろに岩崎夫妻が立っていた。
「青柳先生、私がドイツで友だちになった岩崎夫妻です。」
そう言ってお互いに紹介した。
「おふたりに良いお知らせがあるんです。」
岩崎夫妻はニコニコしている。
「青柳先生の病気が治る時代が来るんです。今、最新の研究結果が出てるんです。」
そう言ってふたりは1冊の雑誌を見せてきた。青柳は浮かれもしなければ泣きもせず、淡々と話を聞いていた。
「私はたぶん見えないまま死ぬでしょう。」
青柳は呟いた。
「それは…。」
「未来ある子どもたちのために頑張ってください。」
高真が青柳を呼びに来た。
「私は幸せです。それでも彼女の笑顔がこの目で見れなかったことは残念です。」
そうして慌ただしく個展は最終日を迎えた。
最終日、南が青柳の送迎を担当した。車の中で青柳はこんな事を話した。
「南くんは描きたいものが分からないと言った。それなら自分というものを1番表すものは何か考えてみると良い。」
そうしてアトリエには2つのイーゼルが並ぶようになった。
美智香は次の個展で会いましょう、そう言って青柳にキスをして日本から旅立った。
青柳はそれを見送りながら、いつかこの手に我が子を抱きたい、そう思うようになった。
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