【完結】真実の比喩

九時せんり

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真実の比喩

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物語のなかで「果実」が登場するとき、それは大概「罪」や「密」を指している。
では物語のなかで真実とは何に比喩されているのだろう。

彼女はその日やって来た。
僕が働くオフィスに派遣会社を通してやって来た。派遣会社で働く人たちは美男美女が多いと噂では聞いていたものの彼女はそこそこ普通の女性だった。
明るくウソ臭い自己紹介が鼻についた。
仕事自体はそこそこ出来る方だった。
僕が会議のために営業先から戻ると彼女はいつも通りタイピングをしていた。
速度そのものは人並みだ。
ウソ臭い笑顔と杓子定規な誉め言葉が並んだ。
キャリアが浅いのか優秀なうちの社員に対して自分の経歴を話していた。
それでも彼女の語る言葉はユーモアがあって初めの頃に抱いていた嫌悪感は薄らいでいった。

彼女が勤めて1ヶ月ほどたった頃、ようやく時間がとれた僕は彼女と初めて自己紹介をした。
「井波果奈です。」
苗字は聞いていたが名前を聞くのは初めてだった。
「田口です。」
職場でファーストネームは基本的に必要ないだろうと僕は思った。
「お名前はなんと言うんですか?」
井波は続けた。
「田口真です。」
「じゃあ真さんですねー。」
僕はこの時にまたウソ臭い女だなぁと感じた。
素を出すことのない子だった。
たまに昼休みに会社に戻ると趣味や友人の話をしていた。
ここは学校ではない。
女性に多い習慣だ。
会社内には井波を良く思わない人もいた。
それでも彼女は休むことも遅刻することもなく仕事中は黙々と作業していた。

この日もたまたま会議があって会社へと戻った。お昼ご飯を食べながら井波が上司の大川と話している。
学生時代、校長先生になぞの芋をプレゼントした話をしていた。
僕はあとで知ったが、観葉植物のなかには食べられないいもが出来ることがあるらしい。
随分ふざけて生きているんだなぁと思った。
「田口さんって不思議系ですよねー、絶対。」
彼女は僕に気付いていなかった。僕の方にチラリと目をやった大川が
「仲良くしてあげてください。」
そう言って笑った。

井波の仕事は順調に進んでいった。
井波は覚えは遅いが、覚えると恐ろしく早く仕事をこなす。
仕事のメモも丁寧に取っていた。
これだけきちんと働けるなら少しくらい素を出してもいいのになぁ…と僕は思った。

井波は随分と職場に馴染んでいった。
だが何となく男性を避けているように見えた。
開襟シャツを着ていた時にペアリングをチェーンのトップに付けているのが見えた。
帰りのエレベーターで一緒になったとき、僕は単刀直入に井波に聞いた。
「そのネックレス、ペアリングですよね。」
井波は押し黙った。
「聞かないでください。」
いつものウソ臭い笑顔が消えた。
「話せないなら見つからない方がいいんじゃないですか?」
僕は自分でも意地が悪いなと思いながら話した。
井波はエレベーターを二階で降りた。
僕はそのまま一階まで降りて家へ帰った。

それからの井波はネックレスをつけて来なかった。その代わりに表情が曇ることが増えた。
鼻につくウソ臭い笑顔が消えていった。

仕事終わりに僕は井波をご飯に誘った。
井波は最初断り続けていたが、こないだのお詫びがしたいと言ったら、
「なんのことですか?」
そう言ってきっと僕を睨み付けた。
「つけたいならつけてくれば良いじゃないですか。あのネックレス。」
そう言って僕はエレベーターを降りた。井波は僕と反対方向へと歩いていった。
僕は井波のウソ臭い笑顔を思い出しながらぼんやりしていた。
彼女のなかにある秘めたる物語とはなんだろう。僕は思った。
彼女の物語の真実はきっとあのネックレスなのだろう。

僕は次の日も仕事帰りの井波を誘った。
彼女は相変わらず僕にだけ素の表情を見せる。
僕は井波が気になるようになっていった。
良く見ると彼女は小柄で瞳の大きい女性だった。
たまに眼鏡を外すと大きな瞳が鮮やかだった。彼女がなにを見てなにを食べて誰と話しているのか僕は気になった。
井波の契約期間満了まで三ヶ月をきった。
僕と井波は仕事では話をするものの職場を一歩出ると口をきかなくなっていた。
井波は昔ほど笑わなくなった。たまにあのネックレスをつけてくる。
あれは昔の男の物なのか…?
僕は彼女に尋ねたかったが近くにいくとさっと避けられる。
そんなやり取りが続いたある日、井波とエレベーターの故障で二人で閉じ込められた。
ドアが開くまで話をすることにした。
井波は閉所恐怖症で階段とエレベーターを使い分けていると言った。
不機嫌で降りたわけではなかったのかと、初めの頃を思い出した。
井波は静かに話し出した。

「婚約した彼と買った指輪なんです。彼と海辺をドライブしていて車がガードレールを突き抜けて海に落ちたんです。」
僕はただ黙っていた。
彼氏は窓ガラスを割ったが女性が通れる程度しか開かなかった。

エレベーターが復旧すると井波はいつも通りのウソ臭い笑顔に戻っていた。
「派遣で働きたいわけではないんです。それでもこの方が楽なんです。」
井波はそう言うと僕と反対方向に歩いていった。
良くある話だ。
井波は自分に酔っている。
僕は冷淡にそう思った。
さっさと忘れて新しい恋人でも作ればいいのに…。

僕は次の日、百貨店で女性もののネックレスを買った。自分の彼女に対してだ。
僕は彼女に会うと井波の話をした。
彼女は僕の話を全て聞いたあとに、
「私でもそうすると思うよ。」
そう言って笑った。
僕はぼんやりとそれでもはっきりと口にしていた。
「君とは別れたい。」
彼女は泣いた。その日の夜は一晩中口論になった。
井波に告白したいとか付き合いたいとかそう言う気持ちはさらさらなかった。
ただ、僕はいつか誰かの重りになるような相手は選びたくなかった。

そうして僕は英恵と言う女性と知り合った。
まずは井波の話をしようと思った。
「僕が死んだらどうする?」
「残されたって絶対幸せになるわよ。」
そう言って僕たちは笑った。井波の姿はもうない。
      
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