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兆候

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大ちゃんが小説のあとがきを書くことになって未宙は笑った。
「本当に俺のことを赤裸々に書いたよねぇ…。」
この頃の未宙は大ちゃんのことも少しずつ忘れていった。小説の中では昔と変わらない3人の姿があった。
「平太さんはどこに行ったのかしら?」
「会社だよ。」
「休日なのに?」
「父さんは転職したでしょう?」
「あら、そうだったかしら。」
こんな調子で日々の会話は続いた。明日は、若松先生の診察だ。徘徊が始まった今、未宙を入院させることにした。
未宙の徘徊が始まったことでふたりは静かに泣いた。
「母さん、吉村さんが来るよ。」
「吉村さんって誰だったかしら?」
「櫻川出版社の吉村さんだよ。」
「ああ、そうね。今回は良いものが書けたのよ。」
そして、未宙は小説について語る。その間の記憶はしっかりしたものだった。
「母さんのトリガーは原稿用紙だね。」
「トリガーって?」
「良いんだよ。母さん。俺たちがその分覚えているから。」
未宙はツムギを撫でながらこの家の飼い猫はお利口さんなのねとニコニコしていた。
「私、家に帰らないと。」
「母さんの家はここだよ。」
「私にはそんな大きな子供はいないわ。」
そう言って未宙は笑う。
大ちゃんはアルバムを持ってきて去年の写真を見せた。
「これが母さん。これが父さん。これが俺。」
「よく似た人が居るものねぇ…。」
「母さんはアルツハイマーで、記憶が出来ないんだよ。俺のことも忘れていくんだ。」
「アルツハイマーなんて私はまだまだ若いわよ。」
「母さん。思い出してよ。」
未宙はそう言われて戸惑う。
事情を聞いて仕事を切り上げて帰ってきた平太は大ちゃんと一緒に未宙と荷物を車に乗せた。

病院に着いたら、若松先生が待っていた。
「升本さん。よく頑張りましたね。」
そう言われて、大ちゃんは平太と抱き合って泣いた。
「これがあれば十分だと思います。」
そう言って平太は原稿用紙を差し出した。
「大丈夫ですよ。色んな方がいますから。」
若松はゆりかごに揺られた赤子をあやすようにふたりを穏やかに諭した。
「ご家族の力ではどうしても限界があります。この決断は辛いと思いますが最後には良かったと思えると思います。」
そうして未宙は精神科に入院した。

大ちゃんは講義の合間を縫って原稿を書いた。吉村はそれを読みながら何度かダメ出しをしたが、大半はクリアだった。
入院した未宙は原稿を書き続けた。その中にはあのフランス文学の引用があった。平太はそれを読みながら涙を流した。
原稿を書いている間、未宙は平太に微笑んで、ツムギはどこに行ったのかしら。また脱走したのかしらとニコニコした。
そうしてそのうちに未宙は平太に笑顔で、
「この病院のお医者様ですか?」
と聞いてくるようになった。
「僕はバイオリンも弾けないし歌も歌えませんがあなたの1番近くにいます。」
そう言って平太は泣いた。未宙はそれを聞いてキョトンとしていた。
作品を書きながら未宙は看護士に、
「うちは家族がお見舞いさえ来てくれないんです。」
そう言って、たまに泣いていた。
そうして大ちゃんは精神科医になった。
「バイオリンが弾けなくても彼にはなれるんだよ。」
そう言って平太と笑った。
原稿を書いている間だけ未宙はふたりを思い出した。吉村はふたりから原稿を受け取り、出版化に奔走した。
どこでもない、そんな日のそこで3人は確かに家族だった。
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