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記憶
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「大ちゃん、大ちゃん。誰かうちの子を見ませんでしたか?」
未宙はスーパーの中を駆け回った。まだ2歳にしかならないあの子をどうして見失ってしまったのか。不安と後悔で押しつぶされそうになりながら目を覚ました。
リビングに行くとニュースを見ながらトーストをかじっている大ちゃんがいた。
ああ、そうだ。大ちゃんは大学生だ。
その瞬間、身体の力が抜けた。
「母さん、どうかした?」
「そうよ。大ちゃんは迷子になったことなんて無いわね。」
「朝から何言ってるの?作品書きすぎなんじゃないの?」
「何でも無いわ。」
未宙は部屋に戻り着替えを済ませてリビングに降りた。大ちゃんの姿を見るまでは本当に大ちゃんが2歳の頃の自分に戻っていた。
夢が見せた幻なのか。それとも病気のせいなのかそれは分からなかった。
大ちゃんは皿を洗い、身じたくを整えた。
「今日は午後から雨らしいから室内干しにしなよ。」
大ちゃんはそう言って出掛けていった。
未宙はあの一冊を書き上げてから、作品の反響を知った。エゴサーチをしながら、10件中1件が面白いというような感想を見ていった。
吉村は一冊目にしてはクオリティが高い物になりましたね、そう言って笑っていた。
クオリティ…確かに綺麗にまとまった作品になったな、未宙はそう思った。
しかしこれと言って捻りはない。
これが吉村の望む作品だったのだろうか…?そう思うと吉村の編集者としての腕は少し足りない気がした。
明日の昼にはまた吉村が来る。
原稿用紙を前にして未宙は伸びをした。
ツムギが珍しく寄ってくる。猫にも記憶力はあるのだろう。吉村の持ってきたチュールをくれといったところだろうな、未宙は思った。
「ツムギはお部屋から出てね~。」
ツムギはカリカリとドアを鳴らす。
明日までにアイディアはまとめなくてはならない。
ぼんやりと新聞のコラム欄を読み、手がかりがないか考える。
難聴の女性の話があった。難聴とはよく聞くけど最終的には耳が聞こえなくなったりするのだろうか?未宙は考えた。
アルツハイマー作家が難聴の話を書く。支離滅裂な文章になるかもしれない。それでも、未宙は吸い寄せられるようにその話を読んだ。
「難聴ですか…。」
「パッとしませんか?」
「病気物はノンフィクションに勝るものはないんです。」
翌日、升本家に吉村がやってきた。いつも通り作品について打ち合わせが始まる。
「だったらアルツハイマーの私の話はどうですか?」
「書き上げる前に全て忘れてしまいませんか?」
「日常のことは思い出せない事も増えたのですが作品を書いてる間は思考が鮮やかなんです。」
「思考が鮮やか…。」
「昔のことを今のように思い出すんです。まあ病気の症状なんですけど。」
この頃の吉村は首からネームプレートを下げていた。『櫻川出版社 吉村』と。それでも未宙は吉村が誰か分からなくなることがあった。そういう時はボイスレコーダーで、前回の打ち合わせの様子を流す。
未宙は落ち着くとひとつひとつ思い出す。それでも彼女は忘れたことさえ忘れてしまう。
「忘れていく事は怖くないわ。思い出せない事が怖いの。」
「それはどういう意味ですか?」
「人って忘れてしまう生き物なのよ。その中で大切な事は何度も思い返して記憶を定着させていくの。でも思い出す事が出来なかったらそれは最初からないものなのよ。」
「アルツハイマーの話、書いてみますか?」
「吉村さんが良いと仰るなら是非。」
「では、一ヶ月後にまた来ます。電話でも新着状況は伺いますのでご自分のペースを守って書き上げてください。では。」
吉村は寄ってきたツムギを撫でながら、
「いい子だね~。」
と上機嫌で帰っていった。
「へーアルツハイマーの話かぁ…。」
平太はスーツのジャケットをハンガーにかけながら話した。
「もしかしたら小説にすることで病気もそんなに進まないかもしれないわ。」
「そんな単純な病気ではないだろう?」
「それでも今までの事が鮮やかに蘇るのよ。」
そう言って未宙はふわふわしていた。
「いつからの話にするんだい?」
「それを悩んでいるの。」
「だろうね。」
「大ちゃんが産まれた頃はまだアルツハイマーにはかかってなかったし。でもそこから書き出す事で自分の人生がはっきりするの。」
「僕との出会いはないのかい?」
「そうね。平太さんとの出会いもあったわね。でもそうするとテーマから逸れてしまうわ。」
「テーマかぁ…。どんな事を伝える作品にしたいんだい?」
「それはこれからよ。」
そう言ってふたりは晩酌をした。大ちゃんは大学の飲み会で遅くなると言っていた。
酔いが回って平太は泣き出した。
「未宙に僕は何もしてあげられない。こうしてる間にも君は僕を忘れていくんだ。」
「平太さん、ちょっと飲みすぎよ。」
「昨日、何を食べたか、昨日、何を話したか、君は最近思い出せなくなってきた。そうしていつか僕のことも忘れていくんだ…。」
平太は声を上げて泣き出した。
そこに大ちゃんが帰ってきた。
「父さん、なんで泣いてるの?」
大ちゃんは不思議そうに尋ねた。未宙は平太の背中を擦りながら病気になって初めて泣いた。
未宙はスーパーの中を駆け回った。まだ2歳にしかならないあの子をどうして見失ってしまったのか。不安と後悔で押しつぶされそうになりながら目を覚ました。
リビングに行くとニュースを見ながらトーストをかじっている大ちゃんがいた。
ああ、そうだ。大ちゃんは大学生だ。
その瞬間、身体の力が抜けた。
「母さん、どうかした?」
「そうよ。大ちゃんは迷子になったことなんて無いわね。」
「朝から何言ってるの?作品書きすぎなんじゃないの?」
「何でも無いわ。」
未宙は部屋に戻り着替えを済ませてリビングに降りた。大ちゃんの姿を見るまでは本当に大ちゃんが2歳の頃の自分に戻っていた。
夢が見せた幻なのか。それとも病気のせいなのかそれは分からなかった。
大ちゃんは皿を洗い、身じたくを整えた。
「今日は午後から雨らしいから室内干しにしなよ。」
大ちゃんはそう言って出掛けていった。
未宙はあの一冊を書き上げてから、作品の反響を知った。エゴサーチをしながら、10件中1件が面白いというような感想を見ていった。
吉村は一冊目にしてはクオリティが高い物になりましたね、そう言って笑っていた。
クオリティ…確かに綺麗にまとまった作品になったな、未宙はそう思った。
しかしこれと言って捻りはない。
これが吉村の望む作品だったのだろうか…?そう思うと吉村の編集者としての腕は少し足りない気がした。
明日の昼にはまた吉村が来る。
原稿用紙を前にして未宙は伸びをした。
ツムギが珍しく寄ってくる。猫にも記憶力はあるのだろう。吉村の持ってきたチュールをくれといったところだろうな、未宙は思った。
「ツムギはお部屋から出てね~。」
ツムギはカリカリとドアを鳴らす。
明日までにアイディアはまとめなくてはならない。
ぼんやりと新聞のコラム欄を読み、手がかりがないか考える。
難聴の女性の話があった。難聴とはよく聞くけど最終的には耳が聞こえなくなったりするのだろうか?未宙は考えた。
アルツハイマー作家が難聴の話を書く。支離滅裂な文章になるかもしれない。それでも、未宙は吸い寄せられるようにその話を読んだ。
「難聴ですか…。」
「パッとしませんか?」
「病気物はノンフィクションに勝るものはないんです。」
翌日、升本家に吉村がやってきた。いつも通り作品について打ち合わせが始まる。
「だったらアルツハイマーの私の話はどうですか?」
「書き上げる前に全て忘れてしまいませんか?」
「日常のことは思い出せない事も増えたのですが作品を書いてる間は思考が鮮やかなんです。」
「思考が鮮やか…。」
「昔のことを今のように思い出すんです。まあ病気の症状なんですけど。」
この頃の吉村は首からネームプレートを下げていた。『櫻川出版社 吉村』と。それでも未宙は吉村が誰か分からなくなることがあった。そういう時はボイスレコーダーで、前回の打ち合わせの様子を流す。
未宙は落ち着くとひとつひとつ思い出す。それでも彼女は忘れたことさえ忘れてしまう。
「忘れていく事は怖くないわ。思い出せない事が怖いの。」
「それはどういう意味ですか?」
「人って忘れてしまう生き物なのよ。その中で大切な事は何度も思い返して記憶を定着させていくの。でも思い出す事が出来なかったらそれは最初からないものなのよ。」
「アルツハイマーの話、書いてみますか?」
「吉村さんが良いと仰るなら是非。」
「では、一ヶ月後にまた来ます。電話でも新着状況は伺いますのでご自分のペースを守って書き上げてください。では。」
吉村は寄ってきたツムギを撫でながら、
「いい子だね~。」
と上機嫌で帰っていった。
「へーアルツハイマーの話かぁ…。」
平太はスーツのジャケットをハンガーにかけながら話した。
「もしかしたら小説にすることで病気もそんなに進まないかもしれないわ。」
「そんな単純な病気ではないだろう?」
「それでも今までの事が鮮やかに蘇るのよ。」
そう言って未宙はふわふわしていた。
「いつからの話にするんだい?」
「それを悩んでいるの。」
「だろうね。」
「大ちゃんが産まれた頃はまだアルツハイマーにはかかってなかったし。でもそこから書き出す事で自分の人生がはっきりするの。」
「僕との出会いはないのかい?」
「そうね。平太さんとの出会いもあったわね。でもそうするとテーマから逸れてしまうわ。」
「テーマかぁ…。どんな事を伝える作品にしたいんだい?」
「それはこれからよ。」
そう言ってふたりは晩酌をした。大ちゃんは大学の飲み会で遅くなると言っていた。
酔いが回って平太は泣き出した。
「未宙に僕は何もしてあげられない。こうしてる間にも君は僕を忘れていくんだ。」
「平太さん、ちょっと飲みすぎよ。」
「昨日、何を食べたか、昨日、何を話したか、君は最近思い出せなくなってきた。そうしていつか僕のことも忘れていくんだ…。」
平太は声を上げて泣き出した。
そこに大ちゃんが帰ってきた。
「父さん、なんで泣いてるの?」
大ちゃんは不思議そうに尋ねた。未宙は平太の背中を擦りながら病気になって初めて泣いた。
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