【完結】某日、そこで。

九時せんり

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トリガー

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正しいということは時に誰かを裁き、傷つけて打ちのめす。だから、私達は言葉を選ぶ。表情を作る。
だが、そんな小手先の技術では正しさには到底勝てない。

「進行してるってどういうことです?」
その日、平太は非番だった。未宙の病院への送り迎えをすると言い出して待合室でもひとしきり話すと診察室まで入ってくると言い出した。
未宙はさほど気に留める事なく平太が診察室に入ることを許した。
医師の若松は未宙より大きな声で話す平太相手に気もそぞろになっていた。
「ご主人から見て奥様の様子はどうでしたか?」
平太はそう言われて言葉に詰まる。
当たり前だ。毎日会うと言っても朝と夜だけなのだから。大ちゃんと来れば良かった、未宙はそう思いながら若松相手に口を開いた。
「息子とは毎日、答え合わせをするんです。今日はこれをしたね、あれをしたね、と。」
「それは良いことですね。」
「その内容からは病気が進行してるようには思えないのですが…。」
若松は脳の画像を見ながら考える。
「日常生活には支障が出ない部分で物忘れが出てる可能性はあります。」
「自分の名前が分からなくなる日が来るんでしょうか?」
未宙は診察室の薄暗い蛍光灯の下、そう若松に尋ねた。
「今の時点ではなんとも言えません。徘徊などが見られるなら入院するという手もあります。」
「入院、ですか…。」
「今現在、この病気の治療法はありません。進行を抑えるようにリハビリと薬を使うしかないんです。」
「私は若松先生には全幅の信頼を置いています。先生が仰るならその時が来ればそうします。」
平太はそう言って俯いた。
ああ、この人が下を向く日が来るのだ。未宙は思った。
平太とは友人の紹介で知り合った。最初から向こうは未宙のことが好きで絶対に結婚すると意気込んでいたらしい。それでも彼はブレることなくまっすぐに未宙を大切にしてきた。 
診察を終えて待合室に戻ったとき、未宙は尿意を催した。トイレはどこだったかしら。 
この病院が大きいとはいえ、月に2回は来ている。ああ、忘れたんだな。そう思った。
ひとつひとつの物事を忘れるにつれて今ある世界が憎らしくも美しくなっていく。
「平太さん、お手洗いはどこだったかしら?」
未宙は素直にそう聞いた。
平太は天井からぶら下がっている。案内板に従って未宙を誘導した。
「広い病院だもんなぁ…。」
平太は未宙が今何を考えているか、気にすることなくお手洗いの外で待った。

会計を済ませて車に乗ると平太はシートベルトを付けながら未宙に尋ねた。
「未宙は僕のこと忘れたらどうしたい?」
「どうしたいって…。」
「見知らぬ男から旦那です。って言われても嫌だろう?」
「私が大学時代読んだフランス文学にね、今の私と同じような人が出てくるの。」
「それで?」
「彼女はバイオリンを弾きながら彼の歌を聴くの。その瞬間だけ彼のことを思い出すの。」
「未宙はバイオリンなんて弾けないだろう?」
平太はそう言って車を発進した。
「トリガーって言うのかしら?なにかふたりを思い出せるものが欲しいの。」
「思い出せるものかぁ…。永中さんみたいにコンサートでも行くかい?」
「それは永中さんが熱心に勧めてくださるから行ってるだけでほとんど寝てしまうのよ。」
そう言って未宙は笑った。
反対車線にタクシーが止まり、なかに乗ってる老婆の顔が見えた。
本当ならあのくらいの歳までひとりで買い物に行って病院に行って日々を送れるはずだった。
未宙は大きく息を吸い込んでゆっくりと息を吐いた。
「まだ時間はあるものね…。」
そう言って未宙は一点を見つめた。

大ちゃんは家で郵便物を仕分けしていた。もうお正月モードからほとんど日常の郵便物に仕様が変わって、ああもうこんなに春が近づいたんだなと思う。
その中で見慣れない名前があった。郵便物は未宙宛で、豊岡晃司と名前があった。神戸からの郵便物で、男性にしては洒落た封筒を使っていた。
「ただいまー。」
ふたりが帰ってきた。
「お帰りなさい。ほらツムギ、だめだよー。」
そう言って大ちゃんはツムギを持ち上げる。ツムギはシャーと威嚇する。
「ツムギは今日は朝から機嫌が悪いのねぇ…。」
未宙は靴を揃えながらツムギを撫でる。
「今日は比較的暖かい日だからね。」
居間に戻されたツムギは窓の外を見ながらカリカリとガラスを鳴らす。
「若松先生なんだって?」
「いつも通りよ。」
大ちゃんはいつも通り急須にお茶っ葉とお湯を入れお茶を淹れてくれる。
「だから院長先生にすれば良いって言ってるのに…。」
「若松先生は若いけど常に新しい情報を取り込んで必死になってくださるんだ。大輔はそんなに若松先生の事を知っているのか?」
平太は息巻く。
「父さんの若松信仰は嫌ってほど知ってるよ。」
そう言って一冊の本を開く。大ちゃんらしい英文の本だ。中学時代から彼は英文の本をよく読んでいる。最初はスヌーピーだったのが今では小説だ。父さんみたいに色んな国の言葉は分からないけどね、と口癖のように言っていた。
平太は小説は読まないが海外出張に゙行く度、その土地の本を買ってくる。
未宙もたまに平太の書斎に入って本を手に取る。言葉は分からないが平太は美しい写真の入った本を選んでくるので見ていて飽きない。
「母さん、男の人から郵便物来てたよ。」
「私に?」
「やっぱり心当たりないんだね…。」
ツムギが大ちゃんの膝の上に乗ってくる。
「これ、豊岡晃司さん。」
豊岡…?聞いたことがある気はした。ただ、それはいい知らせではない気がした。
封書を開くとそこには豊岡と名乗る男の妻が急逝して貴女に会いたがっていた、というものだった。
電話番号などは書かれていない。一枚の写真が同封されていた。それは確かに未宙と誰かだった。
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