【完結】帰路につく

九時千里

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帰路につく

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「これで良かったんだ。そう思って人生を終えられる人はどのくらいいるんでしょうね。」
深夜の鈍行列車に揺られながら私と岡崎は話した。私は地頭が良く学校の勉強で苦労したことがなかった。自分が何をしたいのか何が向いているのかわからないまま、担任の勧めで医学部を受験してトントンと医者になった。
もちろん研修医時代は周り同様の苦労はした。それでも病院に訪れる重病患者に比べればたいした苦労はなかった。
「この時期だと藤が見頃ですかね。」
岡崎は少しだけ電車の窓を開けた。夜の闇が迫ってくる。
「夜風は良くないと言いますが、なんとなく落ち着くんですよね。」
岡崎はニコリとした。
「和山先生とこうして旅が出来るなんて一生に一回ですかね?」
押し黙った私に岡崎はポンポンと声をかけてくる。岡崎は親の遺産が入った今年、自分のクリニックを設立した。
あと、何回一緒に働くことが出来るだろうか?私はそんな話をした。それなら一緒に鈍行列車にでも乗りましょう、そう岡崎は言った。
若い頃と違って電車に乗るだけでも体力を使う。
「立河あゆみさんとはどうなんだ?」
「どうって、仕事仲間ですよ。」
そう言って岡崎は微笑む。立河はうちの総合病院で看護士として働いている。
先日泣きながら私に相談を持ちかけてきた。妊娠したかもしれない。心当たりがあるとすれば岡崎先生だけだと。
「立河さんは曲者ですからね。」
岡崎はそう言って笑う。
「何が曲者なんだ。」
「医者と結婚したくて看護士になった人なんです。だから周りの看護士から浮いているんです。」
岡崎は伸びをした。
「どうせクリニックを立ち上げた僕絡みの話でもしてきたんじゃないですか?」
「立河は必死に働いてるじゃないか。」
「そういうふりをするのが上手いんですよ。」
岡崎は姿勢を崩さない。
「そういうことに及んだことはないんだな?」
「和山先生はみんなから純粋培養だって言われてるんですよ。悪人を見たことがないのか、ってくらい紳士だって。」
私はその言葉をあまり良い方に受け入れられなかった。周りからナメられているんだな、そう思った。
岡崎と鈍行列車に乗るべきではなかった。それでも岡崎はポンポンと会話を投げかけてくる。最近読んだ本の話や映画の話をしてきた。私は名作と言われる作品には目を通すがそれ以外には興味を示さない。
何を楽しみに生きてるのかしら、妻は良くそういった。
鈍行列車なのでひとつひとつ駅に止まる。日本に生まれ育ってこんなに知らない地名があったとはな、そう思った。
旅行好きの甥っ子が地図と電車の時刻表を見ながら行ったつもり旅行をしていることを思い出した。彼なら私より地名に詳しいだろう。そう思って少しだけ機嫌が良くなった。
岡崎は変わらず話し続けた。よくよく考えれば人が口数が増えるときというのは心から楽しんでいるか、緊張しているのかどちらかだ。
私は岡崎は後者だと思った。
視線をすっと向けると岡崎は空を見る。
「何故鈍行列車なんだい?」
「僕は田舎の出何ですよ。」
岡崎はペットボトルのお茶を少し飲んだ。
「大学受験に合格して東京に上京したとき、鈍行列車だったんです。新幹線や特急電車と違っていろんなことを考えてもまだ時間がある。それが魅力なんです。」
「そんなに思い悩んだところで人生は大きく変わらないものだと思うが…。」
「医学部受験の当日、長患いだった姉が死んだんです。」
私は静かに岡崎に視線を戻した。
「人生をかけた大一番と姉との別れを天秤にかけました。本当に僕はこれで良かったのか。姉とは随分年の差があって小さい頃はたくさん可愛がってもらいました。」
岡崎はうっすらと涙を流した。
私は立河と岡崎はどちらが本当のことを言っているのだろうか、そう悩んだ。
「和山先生は若い頃から優秀で大病院の娘さんを嫁に貰っても安い給料のうちで働いているって…。」
「医療とはひらかれたものだ。安いも高いもないよ。」
私はそう言って妻の姿を思い描いた。大病院がバックに付いてるとはいえ思い上がることもなく淡々と家事をこなす。週に一度華道のお稽古で家をあける。申し分ない妻だ。
「岡崎君はどれくらい自分に誠実でいられるんだい?」
私は諭すように穏やかに話した。
「自分に誠実ですか…?」
「私はね、物心付いた頃から母が居なかった。父は私が独り立ち出来るように出来ることは全てしてくれた。それに対して誠実に返すことが出来るだろうか、そう思って、生きてきた。」
私はペットボトルのコーヒーを一口口に含んだ。
「君はお姉さんには誠実に返せていると思うが。」
「アメリカで手術すれば助かる可能性もあったんです。」
岡崎は泣いた。
「それでも姉は未来ある僕に投資して欲しいと父と母に頼んだんです。僕の学費は父と母、働いていた頃の姉の貯金から出てるんです。」
岡崎は鼻を噛んで続けた。
「医者として働いてみてこんなに難しいとは思わなかったんです。それでも今から他の何かになるわけにもいかない。」
私は医者になってから人間関係に思い悩むことがあっても仕事について悩んだことはない。
岡崎はカバンからグミを出して私に差し出した。
「昔は姉がグミを作ってくれたんですよ…。」
私は差し出されたグミを一粒つまんで口に運んだ。CMにも良く出てくるグレープ味のグミだった。
「立河さんとはなにもないと言い切れるな?」
私は咳払いをして話した。
「DNA鑑定すれば一発ですよ。どこの馬の骨とも分からない男の代わりなんてゴメンです。」
そう言って岡崎は笑った。人を疑うとはしたくないものだな、そう思った。
外を見ると少しずつ光が見えてきた。
朝日だ。
「この駅で降りてタクシーでうちに向かいましょう。まあ、もう僕の実家ではなく親戚に管理してもらってるんですけどね。」
そう言って岡崎はタクシーを呼んだ。
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