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第六話
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「なんてことしてくれたんだ、てめぇは」
アカートは語気を強めてディヒトバイに言った。
何とか軍本部に辿り着いた瞬間、館内放送でアカートから特研に来るようにと伝えられたのである。
特研に着くと、アカートが怒りを隠さずにこちらを睨みつけた。
しかしアカートはディヒトバイの額から血が流れているのを見ると、とりあえず落ち着いて処置をした。
「で、何から怒ればいい? 午後の検査をすっぽかしたことか? 軍本部から勝手に出たことか? 避難民に知られてパニックが起こったことか?」
アカートはそう言って呆れたように口にした。椅子に座っているディヒトバイはその言葉を甘んじて受け入れている。
「何のためにお前が軍本部から出ないよう命令されたと思う? 今回みたいなことになるからだよ。人類最強の英雄は大怪我のため療養中ってことで通してたんだ。それをふらふら出歩いて、プロテウスの避難民をいたずらに刺激した。チタニアの住人にもお前が無事ならさっさと悪魔を倒せたはず、そう思わせちまった。広報部から会見で何を言えばいいって問い合わせが来てる」
「……悪い。俺の認識が甘かった」
ディヒトバイはそれだけ口にした。
「反省してるならよし、って問題じゃねえんだよなぁ……。見ろよ、これ」
言ってアカートはポケットから自分の端末を取り出し、俺たちに見せた。
そこにはディヒトバイを戦わせろ、と言いながらデモ行進をしている人々が映っている。
「これはプロテウスの避難民じゃない、チタニアの連中だ。誰もが一日も早く悪魔を殺せと思ってる。その期待の裏返しってこった。だが、こうなってくるとお前を守るのも難しくなってくる」
「……すまなかった」
「それはわかってる。とりあえず、主治医の俺から動けるようになったんで非公式に避難民キャンプの様子を見に行った、A級魔族とは戦えるが、悪魔とは戦闘できる状態じゃないって言っとくぜ。あとは広報部が適当にいい落としどころを見つけてくれるだろ」
そう言ってアカートは操作パネルでキーボードを叩き、何かしらの画面が宙に映し出される。そして手早く文章をタイプすると画面を閉じた。
「いつもお前に迷惑かけちまうな」
ディヒトバイは少し落ち込んだようにアカートに声をかけた。
「いいってことよ。ガキの頃は俺のバカにお前を巻き込んでたんだしな。お互い様だ。でも、なんでまた軍本部から出てっちまったんだよ」
「……千樫がレオや兼景と上手くやれるか心配でな。様子を見たかったんだ」
「ごめんなさい、俺のせいでこんなことになっちゃって……」
「お前は悪くない。悪いのは俺だ」
「そうだそうだ、上官である俺の命令違反をしたのが悪いんだ」
茶化しながらアカートは言った。
「上官……って、アカートさんはディヒトさんよりえらいんですか?」
「ああ、俺は特務医官で階級は大佐、こいつは少佐だ。俺のほうが階級は上なんだぞ。つまり、俺の指示は全部上官命令というわけだ」
言ってアカートは得意げに笑う。
「ま、直轄の部下ってわけじゃねえけどな。ディヒトは特別大隊長のイングヴァル大佐の部下で、今は療養中ってことで俺の預かりになってる。一時的に指揮権を委任されてるんだ。医者の指示には従えってな」
「は、はぁ……」
言われていることがわかるような、わからないような。
「すみません、簡単に言うと、少佐と大佐ってどれくらいえらいんですか? 軍っていうの、漫画ぐらいでしか知らなくて……」
そういうと二人はぽかんとした顔でこちらを見ていた。
「ごめんなさい、初歩的な質問をして……」
「いや、いい。わからないことを質問できるのはいいことだ」
アカートがそう言ってくれて安心した。ディヒトバイも顔の険しさがなくなった程度で、呆れてはいないらしい。
「軍隊のことなんか知らなくても生きていけるのは平和な世ってこった。理想だな。まあ、何もわからんのはよくない。簡単に説明しよう」
言ってアカートは操作パネルから何かの画面を呼び出した。
そこには上から下に枝分かれしていく組織図が描かれている。その一番下をアカートは指差した。
「軍隊の最小単位は五名程度からなる班、および分隊。それらが三つ程度集まったのが小隊。この小隊を指揮するのが少尉だ。小隊を指揮するから少尉、わかるだろ? つまり、小隊が集まった中隊を指揮するのは?」
「中尉、ですか?」
「その通り。さらに中隊が集まった大隊を指揮するのが大尉、あるいは少佐だ。大隊ともなると五百人規模の人間が動くことになる。例外はあるが大体こんなもんだな。編成によっても色々変わってくるが」
「五百人も部下がいるんですか、ディヒトさん……!」
そう思うと、漫画で読む少佐というのは随分えらいのだと思わされる。
「ディヒトはちょっと事情が違ってな。ディヒトは一人で悪魔と戦えるという特殊さから、戦場である程度独断で行動できる階級が必要とされて少佐になったんだ。ま、悪魔との戦いで軍人が死にまくったんで椅子が空いてたのもあるが」
「あ、漫画で見たことあります。ワンマンアーミーってやつですか」
「そうそう、そんなもんだ」
ディヒトバイは男のロマンのような存在じゃないか。それではレオニードや市民のように羨望の眼差しで見られ、期待もかけられるであろう。
「ちなみに俺は特務医官の大佐。前線に立って指揮はしねえが、後方、主に医療現場の指揮を執る。統合軍参謀本部直属、特別研究室室長として大佐の肩書きを持ってる」
「へ、へぇ……」
少佐も大佐も想像以上にえらかった。強そうなことしか聞こえない。
「ところで、俺の階級って……」
「二等兵。一番下だな」
「い、一番下……」
「士官学校も出てない、教育課程も経てない何の経験もないやつに階級つけられるかよ」
それはそうなのだが、一番下と言われると少し悔しくなる。
そう思ったときだった。
入り口のドアが開いて、二人の男が入ってきた。
一人は隊服を着た三十代ほどの黒髪の男で、もう一人はグレーのスーツ姿で五十代ほどの男だった。茶髪に白髪が混ざり始めている。
「大佐、事務次官……」
アカートはそう言い、ディヒトバイと二人で椅子から立ち上がって敬礼をした。自分も見様見真似で立ち上がり、敬礼をする。怒られやしないか不安だった。
二人は会釈で返した。どうやら問題はなかったらしい。
「大佐はいいとして、ウィレム事務次官まで……」
「なに、会見まで少し時間が空いたんで様子を見に来ただけだ。ディヒト、少しは調子がよくなったそうだな」
そう言って口を開いたのはウィレム事務次官と呼ばれたスーツの男だった。
「今回は軽率な行動だった。上から下まで大騒ぎだ。だが早く事が収まるよう努力するよ。部下を守るのが上官の使命だ。今はつらいかもしれないが、お前は必ず悪魔を倒せるようになる。そう願っている。アカート君も、ディヒトの面倒をよく見てやってくれ。あとは大佐が話をする。忙しいのでね」
「了解です、事務次官」
スーツ姿の男はそれだけ言うとさっさと部屋から出ていってしまった。
「お話があるんですか、大佐」
アカートが入口のそばに立っていた黒髪の大佐に話しかける。長い前髪で目が隠れそうで、口の周りに髭を生やしている。
「これからについて、ね。ああ、君が例の、ディヒトのパートナーだね」
そう言って大佐は俺のほうを見た。
「僕はイングヴァル・イースグレン大佐。ディヒトの上司だ」
イングヴァルは言いながら歩み寄り、笑顔で握手を求める。
「は、はじめまして、鹿島千樫です」
「名前は聞いているよ、チカシ君。まさかこんなに大男だったとは思わなかったけどね。しかも歳は十九っていうじゃないか。何にせよディヒトが自分で選んだ相手だ。文句は言うまい」
この口ぶりからすると、このイングヴァルはディヒトバイの事情を知っているらしい。上司であるなら当然か。
「アカート君、単刀直入に行こう。今のディヒトは悪魔と戦えるかい?」
「未知数ですな。性交により一時間身体能力が六倍に跳ね上がり、これは全盛期以上のスペックというのは報告した通りですが、それで悪魔を倒せるかはやってみなければわかりません。しかし、A級魔族を倒すだけの力はあります」
アカートの報告にイングヴァルは唸った。
「……今回の騒ぎで、ディヒトを前線に戻そうという話が出ている。世論を無視できない。不満が爆発してしまったからね。とはいえ、ディヒトは貴重な戦力だ。万が一にも死なれてもらっては困る。人類の希望が潰えてしまう。そうなったらこの世界はお終いだ」
言ってイングヴァルは口元を覆った。
「やれと言われればやります。いえ、行かせてください」
そう言ったのはディヒトバイだった。
「しかし、君が優れた能力を発揮できるのは一時間だ。その一時間で悪魔を倒せるというのかい? 過去、悪魔討伐に君は数時間かけていただろう」
「できます」
「根拠は?」
「それ、は……」
問われてディヒトバイは黙り込んだ。それを見てイングヴァルが口を開く。
「まあ、何事にも初めてというのは付き物だ。いずれにせよ、どこかのタイミングでディヒトを前線に戻す予定だった。多少早まっただけと思おう。次回の大規模演習に君も連れていく。そこを落としどころにしようと官僚は考えてる」
「ありがとうございます、大佐」
ディヒトバイは頭を下げて礼をする。
「じゃあ、僕もこれで。顔を見に来ただけだからね。またゆっくり話そう」
そう言ってイングヴァルも部屋から出ていった。
「本当にいいんだな、ディヒト」
アカートがディヒトバイの意志を確認する。
「俺は一日でも早く前線に戻りてえんだ。それが俺のやるべきことだからな」
またやるべきこと、だ。その根本をこの人は見せてくれない。
「しっかし、親父殿に隠し事っていうのは落ち着かねえよなぁ」
アカートは言ってため息を吐いた。
「親父殿って、さっきのおじさんですか?」
そう尋ねるとアカートが答えてくれた。
「おじさん、って。あのな、今のは統合軍の幕僚、防衛省の事務方のトップの事務次官殿だぞ。軍じゃない、国を動かす人間だ。まったく、親子揃ってエリートとは恐れ入る」
「……お前だって代々医者の家系だろうが。それに親父は事故の後遺症で軍人になれなくて、仕方なく官僚になったってのがコンプレックスだからな」
ディヒトバイは不機嫌そうに言った。
「まあ、やることはやったんだ、少しは休め」
「……そうする」
「チカシも休むといい。こっちに来て早々色々あって疲れただろ。部屋はディヒトの隣に用意した。このフロアにある。最低限のものは揃えておいた」
「はい、わかりました」
無言で部屋を出ていくディヒトバイのあとを着いていった。
誰もいない静かな廊下を歩きながら、前を歩くディヒトバイに声をかける。
「その、ディヒトさんは悪いことなんてしてないですよ。襲われてる人を助けたんですから」
「……お前は、そう言ってくれるんだな」
「当たり前じゃないですか。助けられた人だって感謝してますよ。それに、言い忘れてたけどこっちに来たときに俺もディヒトさんに助けられましたから。ありがとうございます。ディヒトさんのおかげで、俺は今ここに生きてます」
「……そうか」
それきりディヒトバイは黙ってしまった。
人類最強の英雄。
その背中は寂しげに見える。
これが英雄の姿か。
嘘だ。
英雄というのはもっと堂々としているべきだ。光の中にいるべきだ。
人から虐げられる存在ではない。
ここに来たばかりのときを思い出す。
息も絶え絶えに、自分の身を危険に晒しながら戦っていた。
その姿を見ていると非難しようなどとは思えない。
ディヒトバイが人類を守る英雄だというなら、誰がディヒトバイのことを守ってやれるのだろう。
この人を守りたい。そう強く思った。
「ここだ」
考えている間に部屋に着いたらしい。
「オートロックだ。持ってるカードキーで開く」
言われた通りにドアの認証部分にカードキーをかざすと、スライド式のドアが開いた。
あとは中に入るだけなのだが、どうしてもディヒトバイを一人にしておくのは不安だった。
「ディヒトさんの部屋、行ってもいいですか」
「何でだ」
「……ディヒトさん、落ち込んでないかなって思って」
「何もないと言えば嘘になる。だが、俺の問題だ。お前には関係ねえ」
関係なくはない。自分とディヒトバイはパートナーなのだ。
言ってディヒトバイはさっさと自分の部屋に入る。ドアが閉まる前にその中に踏み入った。
部屋の中は異様な光景が広がっていた。
「き、汚い……」
思わずそう言ってしまうほど、ディヒトバイの部屋は荒れていた。
日用品や包装のゴミ、水のペットボトル、着替え、段ボール箱などで散らかっていて足の踏み場がない。
「片付けないんですか」
「別にいいだろ。困ってねえ」
言っている間もディヒトバイは床のものを土足で踏みつけながら歩いていく。
「お、俺の部屋に来てください! こんな部屋じゃ休まるものも休まらないでしょう」
「……じゃあ、頼みがある」
「え?」
その頼み事は意外なものだった。
アカートは語気を強めてディヒトバイに言った。
何とか軍本部に辿り着いた瞬間、館内放送でアカートから特研に来るようにと伝えられたのである。
特研に着くと、アカートが怒りを隠さずにこちらを睨みつけた。
しかしアカートはディヒトバイの額から血が流れているのを見ると、とりあえず落ち着いて処置をした。
「で、何から怒ればいい? 午後の検査をすっぽかしたことか? 軍本部から勝手に出たことか? 避難民に知られてパニックが起こったことか?」
アカートはそう言って呆れたように口にした。椅子に座っているディヒトバイはその言葉を甘んじて受け入れている。
「何のためにお前が軍本部から出ないよう命令されたと思う? 今回みたいなことになるからだよ。人類最強の英雄は大怪我のため療養中ってことで通してたんだ。それをふらふら出歩いて、プロテウスの避難民をいたずらに刺激した。チタニアの住人にもお前が無事ならさっさと悪魔を倒せたはず、そう思わせちまった。広報部から会見で何を言えばいいって問い合わせが来てる」
「……悪い。俺の認識が甘かった」
ディヒトバイはそれだけ口にした。
「反省してるならよし、って問題じゃねえんだよなぁ……。見ろよ、これ」
言ってアカートはポケットから自分の端末を取り出し、俺たちに見せた。
そこにはディヒトバイを戦わせろ、と言いながらデモ行進をしている人々が映っている。
「これはプロテウスの避難民じゃない、チタニアの連中だ。誰もが一日も早く悪魔を殺せと思ってる。その期待の裏返しってこった。だが、こうなってくるとお前を守るのも難しくなってくる」
「……すまなかった」
「それはわかってる。とりあえず、主治医の俺から動けるようになったんで非公式に避難民キャンプの様子を見に行った、A級魔族とは戦えるが、悪魔とは戦闘できる状態じゃないって言っとくぜ。あとは広報部が適当にいい落としどころを見つけてくれるだろ」
そう言ってアカートは操作パネルでキーボードを叩き、何かしらの画面が宙に映し出される。そして手早く文章をタイプすると画面を閉じた。
「いつもお前に迷惑かけちまうな」
ディヒトバイは少し落ち込んだようにアカートに声をかけた。
「いいってことよ。ガキの頃は俺のバカにお前を巻き込んでたんだしな。お互い様だ。でも、なんでまた軍本部から出てっちまったんだよ」
「……千樫がレオや兼景と上手くやれるか心配でな。様子を見たかったんだ」
「ごめんなさい、俺のせいでこんなことになっちゃって……」
「お前は悪くない。悪いのは俺だ」
「そうだそうだ、上官である俺の命令違反をしたのが悪いんだ」
茶化しながらアカートは言った。
「上官……って、アカートさんはディヒトさんよりえらいんですか?」
「ああ、俺は特務医官で階級は大佐、こいつは少佐だ。俺のほうが階級は上なんだぞ。つまり、俺の指示は全部上官命令というわけだ」
言ってアカートは得意げに笑う。
「ま、直轄の部下ってわけじゃねえけどな。ディヒトは特別大隊長のイングヴァル大佐の部下で、今は療養中ってことで俺の預かりになってる。一時的に指揮権を委任されてるんだ。医者の指示には従えってな」
「は、はぁ……」
言われていることがわかるような、わからないような。
「すみません、簡単に言うと、少佐と大佐ってどれくらいえらいんですか? 軍っていうの、漫画ぐらいでしか知らなくて……」
そういうと二人はぽかんとした顔でこちらを見ていた。
「ごめんなさい、初歩的な質問をして……」
「いや、いい。わからないことを質問できるのはいいことだ」
アカートがそう言ってくれて安心した。ディヒトバイも顔の険しさがなくなった程度で、呆れてはいないらしい。
「軍隊のことなんか知らなくても生きていけるのは平和な世ってこった。理想だな。まあ、何もわからんのはよくない。簡単に説明しよう」
言ってアカートは操作パネルから何かの画面を呼び出した。
そこには上から下に枝分かれしていく組織図が描かれている。その一番下をアカートは指差した。
「軍隊の最小単位は五名程度からなる班、および分隊。それらが三つ程度集まったのが小隊。この小隊を指揮するのが少尉だ。小隊を指揮するから少尉、わかるだろ? つまり、小隊が集まった中隊を指揮するのは?」
「中尉、ですか?」
「その通り。さらに中隊が集まった大隊を指揮するのが大尉、あるいは少佐だ。大隊ともなると五百人規模の人間が動くことになる。例外はあるが大体こんなもんだな。編成によっても色々変わってくるが」
「五百人も部下がいるんですか、ディヒトさん……!」
そう思うと、漫画で読む少佐というのは随分えらいのだと思わされる。
「ディヒトはちょっと事情が違ってな。ディヒトは一人で悪魔と戦えるという特殊さから、戦場である程度独断で行動できる階級が必要とされて少佐になったんだ。ま、悪魔との戦いで軍人が死にまくったんで椅子が空いてたのもあるが」
「あ、漫画で見たことあります。ワンマンアーミーってやつですか」
「そうそう、そんなもんだ」
ディヒトバイは男のロマンのような存在じゃないか。それではレオニードや市民のように羨望の眼差しで見られ、期待もかけられるであろう。
「ちなみに俺は特務医官の大佐。前線に立って指揮はしねえが、後方、主に医療現場の指揮を執る。統合軍参謀本部直属、特別研究室室長として大佐の肩書きを持ってる」
「へ、へぇ……」
少佐も大佐も想像以上にえらかった。強そうなことしか聞こえない。
「ところで、俺の階級って……」
「二等兵。一番下だな」
「い、一番下……」
「士官学校も出てない、教育課程も経てない何の経験もないやつに階級つけられるかよ」
それはそうなのだが、一番下と言われると少し悔しくなる。
そう思ったときだった。
入り口のドアが開いて、二人の男が入ってきた。
一人は隊服を着た三十代ほどの黒髪の男で、もう一人はグレーのスーツ姿で五十代ほどの男だった。茶髪に白髪が混ざり始めている。
「大佐、事務次官……」
アカートはそう言い、ディヒトバイと二人で椅子から立ち上がって敬礼をした。自分も見様見真似で立ち上がり、敬礼をする。怒られやしないか不安だった。
二人は会釈で返した。どうやら問題はなかったらしい。
「大佐はいいとして、ウィレム事務次官まで……」
「なに、会見まで少し時間が空いたんで様子を見に来ただけだ。ディヒト、少しは調子がよくなったそうだな」
そう言って口を開いたのはウィレム事務次官と呼ばれたスーツの男だった。
「今回は軽率な行動だった。上から下まで大騒ぎだ。だが早く事が収まるよう努力するよ。部下を守るのが上官の使命だ。今はつらいかもしれないが、お前は必ず悪魔を倒せるようになる。そう願っている。アカート君も、ディヒトの面倒をよく見てやってくれ。あとは大佐が話をする。忙しいのでね」
「了解です、事務次官」
スーツ姿の男はそれだけ言うとさっさと部屋から出ていってしまった。
「お話があるんですか、大佐」
アカートが入口のそばに立っていた黒髪の大佐に話しかける。長い前髪で目が隠れそうで、口の周りに髭を生やしている。
「これからについて、ね。ああ、君が例の、ディヒトのパートナーだね」
そう言って大佐は俺のほうを見た。
「僕はイングヴァル・イースグレン大佐。ディヒトの上司だ」
イングヴァルは言いながら歩み寄り、笑顔で握手を求める。
「は、はじめまして、鹿島千樫です」
「名前は聞いているよ、チカシ君。まさかこんなに大男だったとは思わなかったけどね。しかも歳は十九っていうじゃないか。何にせよディヒトが自分で選んだ相手だ。文句は言うまい」
この口ぶりからすると、このイングヴァルはディヒトバイの事情を知っているらしい。上司であるなら当然か。
「アカート君、単刀直入に行こう。今のディヒトは悪魔と戦えるかい?」
「未知数ですな。性交により一時間身体能力が六倍に跳ね上がり、これは全盛期以上のスペックというのは報告した通りですが、それで悪魔を倒せるかはやってみなければわかりません。しかし、A級魔族を倒すだけの力はあります」
アカートの報告にイングヴァルは唸った。
「……今回の騒ぎで、ディヒトを前線に戻そうという話が出ている。世論を無視できない。不満が爆発してしまったからね。とはいえ、ディヒトは貴重な戦力だ。万が一にも死なれてもらっては困る。人類の希望が潰えてしまう。そうなったらこの世界はお終いだ」
言ってイングヴァルは口元を覆った。
「やれと言われればやります。いえ、行かせてください」
そう言ったのはディヒトバイだった。
「しかし、君が優れた能力を発揮できるのは一時間だ。その一時間で悪魔を倒せるというのかい? 過去、悪魔討伐に君は数時間かけていただろう」
「できます」
「根拠は?」
「それ、は……」
問われてディヒトバイは黙り込んだ。それを見てイングヴァルが口を開く。
「まあ、何事にも初めてというのは付き物だ。いずれにせよ、どこかのタイミングでディヒトを前線に戻す予定だった。多少早まっただけと思おう。次回の大規模演習に君も連れていく。そこを落としどころにしようと官僚は考えてる」
「ありがとうございます、大佐」
ディヒトバイは頭を下げて礼をする。
「じゃあ、僕もこれで。顔を見に来ただけだからね。またゆっくり話そう」
そう言ってイングヴァルも部屋から出ていった。
「本当にいいんだな、ディヒト」
アカートがディヒトバイの意志を確認する。
「俺は一日でも早く前線に戻りてえんだ。それが俺のやるべきことだからな」
またやるべきこと、だ。その根本をこの人は見せてくれない。
「しっかし、親父殿に隠し事っていうのは落ち着かねえよなぁ」
アカートは言ってため息を吐いた。
「親父殿って、さっきのおじさんですか?」
そう尋ねるとアカートが答えてくれた。
「おじさん、って。あのな、今のは統合軍の幕僚、防衛省の事務方のトップの事務次官殿だぞ。軍じゃない、国を動かす人間だ。まったく、親子揃ってエリートとは恐れ入る」
「……お前だって代々医者の家系だろうが。それに親父は事故の後遺症で軍人になれなくて、仕方なく官僚になったってのがコンプレックスだからな」
ディヒトバイは不機嫌そうに言った。
「まあ、やることはやったんだ、少しは休め」
「……そうする」
「チカシも休むといい。こっちに来て早々色々あって疲れただろ。部屋はディヒトの隣に用意した。このフロアにある。最低限のものは揃えておいた」
「はい、わかりました」
無言で部屋を出ていくディヒトバイのあとを着いていった。
誰もいない静かな廊下を歩きながら、前を歩くディヒトバイに声をかける。
「その、ディヒトさんは悪いことなんてしてないですよ。襲われてる人を助けたんですから」
「……お前は、そう言ってくれるんだな」
「当たり前じゃないですか。助けられた人だって感謝してますよ。それに、言い忘れてたけどこっちに来たときに俺もディヒトさんに助けられましたから。ありがとうございます。ディヒトさんのおかげで、俺は今ここに生きてます」
「……そうか」
それきりディヒトバイは黙ってしまった。
人類最強の英雄。
その背中は寂しげに見える。
これが英雄の姿か。
嘘だ。
英雄というのはもっと堂々としているべきだ。光の中にいるべきだ。
人から虐げられる存在ではない。
ここに来たばかりのときを思い出す。
息も絶え絶えに、自分の身を危険に晒しながら戦っていた。
その姿を見ていると非難しようなどとは思えない。
ディヒトバイが人類を守る英雄だというなら、誰がディヒトバイのことを守ってやれるのだろう。
この人を守りたい。そう強く思った。
「ここだ」
考えている間に部屋に着いたらしい。
「オートロックだ。持ってるカードキーで開く」
言われた通りにドアの認証部分にカードキーをかざすと、スライド式のドアが開いた。
あとは中に入るだけなのだが、どうしてもディヒトバイを一人にしておくのは不安だった。
「ディヒトさんの部屋、行ってもいいですか」
「何でだ」
「……ディヒトさん、落ち込んでないかなって思って」
「何もないと言えば嘘になる。だが、俺の問題だ。お前には関係ねえ」
関係なくはない。自分とディヒトバイはパートナーなのだ。
言ってディヒトバイはさっさと自分の部屋に入る。ドアが閉まる前にその中に踏み入った。
部屋の中は異様な光景が広がっていた。
「き、汚い……」
思わずそう言ってしまうほど、ディヒトバイの部屋は荒れていた。
日用品や包装のゴミ、水のペットボトル、着替え、段ボール箱などで散らかっていて足の踏み場がない。
「片付けないんですか」
「別にいいだろ。困ってねえ」
言っている間もディヒトバイは床のものを土足で踏みつけながら歩いていく。
「お、俺の部屋に来てください! こんな部屋じゃ休まるものも休まらないでしょう」
「……じゃあ、頼みがある」
「え?」
その頼み事は意外なものだった。
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