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第9話
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獅子吼が去るのを見届け、親則はまた酒を注いで飲み、ため息をついた。
兵の本は過患を杜ぐにありなどとよく言ったものだ。
そんなものは方便だ。他人に聞かせるための受け売りだ。
常に己を偽り、高瀬の長として皆の望む姿を装った。
自分が人間でないことに気付いたのは十五の頃だった。
隣国との小競り合いで初陣に立ち、初めて人を斬ったときにそれに気付いた。
己の中には悪鬼がいる。人の血を啜り求める悪鬼が。
その悪鬼が言うのだ。
刃が骨を、肉を断ち切る手応え。
返り血の温かさ。
今まで情念に突き動かされてきたものが意味を失い、瞳が虚空を映す瞬間。
それこそが何よりも甘美なものであると。
その囁きを振り切るように一心不乱に剣の鍛錬を積み、その果てにある無我の境地に至ろうとした。そこまで至れば悪鬼の囁きに心を乱されることもないだろうと。
しかし手は木刀を握ると違うと訴えかけ、稽古で相手を打ち負かしては物足りない気持ちだけが募った。
刃でもって人を殺さなければ満ち足りないのだ。
それは人の道に非ずとわかっていた。故に隠した。
できることなら剣を手放し寺にでも入ろうかと思ったが、犬吠森の跡取りである親則にはそれは許されなかった。
父と母は己の裡の悪鬼に気付かぬまま病でこの世を去った。
親則は十七で家督を継ぎ、新たな高瀬の長となった。
そのとき家督交代を好機と見た隣国片岸が攻め入り、再び戦場に立った。
手が震えていた。
また人を殺せる喜びと、それを知られてはならないという恐怖に。
己を抑えるように後陣に控えていたが、大将を狙っての奇襲によって無に帰した。
いざ斬れるものが目の前に現れると自制が効かなくなり、抜くまいと思っていた大太刀を抜き、かかる者全てを殺した。
人を殺す喜びに酔いしれながら。
戦の目的など忘れた。ただ殺意に負かせて剣を振るった。
目の前の敵を全員殺しただけでは飽き足らず、更なる敵を求めて前線まで駆け抜け、右目を矢で射貫かれても体は止まらなかった。
敵大将に肉薄し、大上段に構え一息に振り下ろし、兜ごと脳天を二つにかち割った。
――悪鬼。
誰とも知らぬ兵がそう言ったのが聞こえ、やっと正気に戻った。
この戦いをもって高瀬は片岸を配下に収めた。
これで思い知った。
己の裡の悪鬼を鎮めること能わず。
ならば剣を握らぬときは皆の望む高瀬の長を装うと。
武とは人を殺す術なり。それ以上にも以下にも非ず。
獅子吼は一人境内のど真ん中で立ち尽くしていた。
親則はもう話す気がなく、集会所に戻れば酔った年寄連中に絡まれると思うと、どこに行けばいいのやらと途方に暮れていた。
そんなとき、慌ただしく蹄が地を叩く音が聞こえた。
どうにも全力で馬を走らせているようだった。
それも一つではない、複数だ。
何かあったのかと獅子吼は境内の入口にある鳥居まで歩み寄り、石段の下のほうを見やった。
馬に乗った者は転がり落ちるように馬から降りると石段を駆け上がる。
残りの者もそれに続く。上を見上げて獅子吼の姿を認めると、大きな声で叫んだ。
「親則様にご注進! 大間の家のものにございます、親則様はおられまするか!」
只事ではない様子に獅子吼は石段を駆け下りた。
「何があった!」
「一番に親則様に申し上げまする!」
大間からの使者は首を横に振る。
使者のあとから追ってきているのは城の者だ。
獅子吼と同じく使者の只ならぬ様子を気にかけて着いてきたのであろう。
「先ほどまで神楽殿のほうに」
言って獅子吼は使者を先導した。
長い石段を駆け上がったあとに砂利の敷かれた境内を走ると足がもつれそうになる。
なんとか転ばずに神楽殿まで駆けると、親則は先ほどと変わらぬ様子で酒を飲んでいた。
慌ただしく現れた獅子吼と使者を見ると杯を置き、何事かと立ち上がって歩み寄る。
やっとのことで親則の元に来た使者が息を整えるのを、皆が固唾を飲んで見守っていた。
「鶴木の軍がこちらに向かっておりまする!」
高瀬の国、相馬城の広間では急遽合議が行われた。
その席には親則の叔父である良晴も駆けつけた。
良晴は親則の父の弟であり、若くして犬吠森の当主となった親則の後見として犬吠森の家を守っていた男である。
しかし好戦的で過激な面があり、農民の母から生まれた親則のことを嫌っているのは誰の目にも明らかだった。
親則が病で倒れたときには良晴が毒を盛ったとの噂が流れたほどだ。
親則が暗愚ならば難癖をつけて当主の座から引きずり下ろし、自分が当主に成り代わろうとしていたが、その目論見が外れるほどには親則は非の打ち所のない当主に育ち、それを支える者も多くいたのである。
これでは良晴も下らない難癖をつけるしかなかろうと誰もが思っていたが、話は思いもよらぬほうに転がった。
親則は誰も娶ろうとせず、高瀬にとってどんなによい縁談でも断り続けた。
何が気に入らぬのだろうと家臣が悩んでいると、突然縁戚であった金剛家の三男である獅子吼を養子に取ると言い出した。
それに良晴は大層怒った。
どんな理由であれ子が成せぬというなら主筋の良晴の家から養子を取るべきであり、分家の金剛の家から養子をとるなど許さぬと言い出した。
それを無視して親則がよそから養子を取ったのは、確かに理に適わぬことと言えなくもなかった。
良晴は親則に直談判をしたが、金剛の家は分家といえど犬吠森の家とは対等の家格であり、一度決めたことを反故にするのは金剛の家にも失礼であると一切譲らなかった。
それどころか、その席で良晴が親則の母のことを持ち出して詰ったことを理由に辺境の地にある盛田城に行くよう命じたのである。
これ以上は内乱になると悟ったのか、良晴は渋々親則の命に従った。
良晴とて思い通りにならぬ親則のそばに居たくなかったのだろう。
以来、良晴は何かにつけて親則と反対の立場をとり続けた。それは今回の合議でも同じだった。
「冬になり雪が降れば鶴木の連中はすごすごと帰ろうが、雪が解ければまた攻めてくるであろう。それでは問題を先送りにするだけだ。今、高瀬の力を見せなければ。高瀬は鶴木などに屈しない」
良晴の言葉に皆表立って賛同はしなかったものの、心は同じだった。
武士たるもの、戦さ場に死地を見出すものだ。たとえ死のうとも高瀬の者は鶴木に従わぬと示そうというのである。
今まで黙っていた親則が口を開いた。
「俺は鶴木と和議を結びたいと思っている」
親則の言葉に場がどよめいた。
「何を腑抜けたことを……!」
良晴が責めるも、親則は動じなかった。
「叔父上、国を戦場にして、民が積み上げてきたものを壊し、それが何になると言うのです。自分たちが鶴木に従うのは嫌だという我が儘で何人死なせるつもりなのですか。下手に抗っては高瀬の国ごと滅ぼされましょう。鶴木の下に入り生き延びる。高瀬にはそれしか残されてはおりませぬ」
親則はそこで言葉を区切ると、小さく息を吐いてから続きを口にした。
「とはいえ、何もせぬうちから下手に出ては侮られようというもの。少しばかりは戦わねばなりますまい」
何もせずに鶴木に従えと言われるのではと家臣たちは不安だったが、一応は戦う姿勢を見せたことに安堵した。
合議は夜まで続いた。
兵の本は過患を杜ぐにありなどとよく言ったものだ。
そんなものは方便だ。他人に聞かせるための受け売りだ。
常に己を偽り、高瀬の長として皆の望む姿を装った。
自分が人間でないことに気付いたのは十五の頃だった。
隣国との小競り合いで初陣に立ち、初めて人を斬ったときにそれに気付いた。
己の中には悪鬼がいる。人の血を啜り求める悪鬼が。
その悪鬼が言うのだ。
刃が骨を、肉を断ち切る手応え。
返り血の温かさ。
今まで情念に突き動かされてきたものが意味を失い、瞳が虚空を映す瞬間。
それこそが何よりも甘美なものであると。
その囁きを振り切るように一心不乱に剣の鍛錬を積み、その果てにある無我の境地に至ろうとした。そこまで至れば悪鬼の囁きに心を乱されることもないだろうと。
しかし手は木刀を握ると違うと訴えかけ、稽古で相手を打ち負かしては物足りない気持ちだけが募った。
刃でもって人を殺さなければ満ち足りないのだ。
それは人の道に非ずとわかっていた。故に隠した。
できることなら剣を手放し寺にでも入ろうかと思ったが、犬吠森の跡取りである親則にはそれは許されなかった。
父と母は己の裡の悪鬼に気付かぬまま病でこの世を去った。
親則は十七で家督を継ぎ、新たな高瀬の長となった。
そのとき家督交代を好機と見た隣国片岸が攻め入り、再び戦場に立った。
手が震えていた。
また人を殺せる喜びと、それを知られてはならないという恐怖に。
己を抑えるように後陣に控えていたが、大将を狙っての奇襲によって無に帰した。
いざ斬れるものが目の前に現れると自制が効かなくなり、抜くまいと思っていた大太刀を抜き、かかる者全てを殺した。
人を殺す喜びに酔いしれながら。
戦の目的など忘れた。ただ殺意に負かせて剣を振るった。
目の前の敵を全員殺しただけでは飽き足らず、更なる敵を求めて前線まで駆け抜け、右目を矢で射貫かれても体は止まらなかった。
敵大将に肉薄し、大上段に構え一息に振り下ろし、兜ごと脳天を二つにかち割った。
――悪鬼。
誰とも知らぬ兵がそう言ったのが聞こえ、やっと正気に戻った。
この戦いをもって高瀬は片岸を配下に収めた。
これで思い知った。
己の裡の悪鬼を鎮めること能わず。
ならば剣を握らぬときは皆の望む高瀬の長を装うと。
武とは人を殺す術なり。それ以上にも以下にも非ず。
獅子吼は一人境内のど真ん中で立ち尽くしていた。
親則はもう話す気がなく、集会所に戻れば酔った年寄連中に絡まれると思うと、どこに行けばいいのやらと途方に暮れていた。
そんなとき、慌ただしく蹄が地を叩く音が聞こえた。
どうにも全力で馬を走らせているようだった。
それも一つではない、複数だ。
何かあったのかと獅子吼は境内の入口にある鳥居まで歩み寄り、石段の下のほうを見やった。
馬に乗った者は転がり落ちるように馬から降りると石段を駆け上がる。
残りの者もそれに続く。上を見上げて獅子吼の姿を認めると、大きな声で叫んだ。
「親則様にご注進! 大間の家のものにございます、親則様はおられまするか!」
只事ではない様子に獅子吼は石段を駆け下りた。
「何があった!」
「一番に親則様に申し上げまする!」
大間からの使者は首を横に振る。
使者のあとから追ってきているのは城の者だ。
獅子吼と同じく使者の只ならぬ様子を気にかけて着いてきたのであろう。
「先ほどまで神楽殿のほうに」
言って獅子吼は使者を先導した。
長い石段を駆け上がったあとに砂利の敷かれた境内を走ると足がもつれそうになる。
なんとか転ばずに神楽殿まで駆けると、親則は先ほどと変わらぬ様子で酒を飲んでいた。
慌ただしく現れた獅子吼と使者を見ると杯を置き、何事かと立ち上がって歩み寄る。
やっとのことで親則の元に来た使者が息を整えるのを、皆が固唾を飲んで見守っていた。
「鶴木の軍がこちらに向かっておりまする!」
高瀬の国、相馬城の広間では急遽合議が行われた。
その席には親則の叔父である良晴も駆けつけた。
良晴は親則の父の弟であり、若くして犬吠森の当主となった親則の後見として犬吠森の家を守っていた男である。
しかし好戦的で過激な面があり、農民の母から生まれた親則のことを嫌っているのは誰の目にも明らかだった。
親則が病で倒れたときには良晴が毒を盛ったとの噂が流れたほどだ。
親則が暗愚ならば難癖をつけて当主の座から引きずり下ろし、自分が当主に成り代わろうとしていたが、その目論見が外れるほどには親則は非の打ち所のない当主に育ち、それを支える者も多くいたのである。
これでは良晴も下らない難癖をつけるしかなかろうと誰もが思っていたが、話は思いもよらぬほうに転がった。
親則は誰も娶ろうとせず、高瀬にとってどんなによい縁談でも断り続けた。
何が気に入らぬのだろうと家臣が悩んでいると、突然縁戚であった金剛家の三男である獅子吼を養子に取ると言い出した。
それに良晴は大層怒った。
どんな理由であれ子が成せぬというなら主筋の良晴の家から養子を取るべきであり、分家の金剛の家から養子をとるなど許さぬと言い出した。
それを無視して親則がよそから養子を取ったのは、確かに理に適わぬことと言えなくもなかった。
良晴は親則に直談判をしたが、金剛の家は分家といえど犬吠森の家とは対等の家格であり、一度決めたことを反故にするのは金剛の家にも失礼であると一切譲らなかった。
それどころか、その席で良晴が親則の母のことを持ち出して詰ったことを理由に辺境の地にある盛田城に行くよう命じたのである。
これ以上は内乱になると悟ったのか、良晴は渋々親則の命に従った。
良晴とて思い通りにならぬ親則のそばに居たくなかったのだろう。
以来、良晴は何かにつけて親則と反対の立場をとり続けた。それは今回の合議でも同じだった。
「冬になり雪が降れば鶴木の連中はすごすごと帰ろうが、雪が解ければまた攻めてくるであろう。それでは問題を先送りにするだけだ。今、高瀬の力を見せなければ。高瀬は鶴木などに屈しない」
良晴の言葉に皆表立って賛同はしなかったものの、心は同じだった。
武士たるもの、戦さ場に死地を見出すものだ。たとえ死のうとも高瀬の者は鶴木に従わぬと示そうというのである。
今まで黙っていた親則が口を開いた。
「俺は鶴木と和議を結びたいと思っている」
親則の言葉に場がどよめいた。
「何を腑抜けたことを……!」
良晴が責めるも、親則は動じなかった。
「叔父上、国を戦場にして、民が積み上げてきたものを壊し、それが何になると言うのです。自分たちが鶴木に従うのは嫌だという我が儘で何人死なせるつもりなのですか。下手に抗っては高瀬の国ごと滅ぼされましょう。鶴木の下に入り生き延びる。高瀬にはそれしか残されてはおりませぬ」
親則はそこで言葉を区切ると、小さく息を吐いてから続きを口にした。
「とはいえ、何もせぬうちから下手に出ては侮られようというもの。少しばかりは戦わねばなりますまい」
何もせずに鶴木に従えと言われるのではと家臣たちは不安だったが、一応は戦う姿勢を見せたことに安堵した。
合議は夜まで続いた。
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