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兄妹の章
忘れ得ぬ出来事
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「お兄様」
聞き慣れた愛らしい声に振り向くと、少女が不安そうに見上げてきた。
「何だよクレア。駄目とか何とか言いながら結局付いて来たんじゃないか」
僅かに頬が緩む。大人びてはいるものの、妹とて冒険に興味があるのだろう。
「お兄様だけで行っては駄目です。もし結界に何かがあった時、魔法を使えないお兄様では無理です」
「なんだよ!俺が弱いって言いたいのかよ!!」
「弱いと言っているのではないです。フランツでも……恐らくお父様でもだめです。神子か……魔法が使える人でないと……」
自分が妹に劣っていると言われているようで、アスティンはむっと眉根を寄せる。
「もういいよ!!お前はついてくるな!!」
苛立ち紛れに叫ぶと、アスティンは思い切り走り出した。
――幼い妹がついて来れないと分かって居ながら。
いつも、そうだった。
族長である優秀な父。歴代5指に入ると言われていたらしい力を持っていた母。――そして、その母でさえも凌ぐと言われている才を持った妹。
その中で、アスティンだけが凡庸だった。
幼い身で才能も何もあったものではないが、それでもアスティンには気付かぬうちに劣等感が植えつけられていた。
母は神の託宣により、父に降嫁した。それが故か、子を成す事、そしてその子らを育てる事を神が己に与え給うた使命だと言わんばかりに、厳しく躾けた。
それは異常ともいえるものだった。
「貴方はいつか、お父様をも超える様な立派な族長になるのよ」
まるで「そうでなければならない」と強迫観念に駆られた様に、ひたすらに言い聞かせてきた。
「族長」である父に降嫁する、と言う事は「次代の族長を産み落とす」と言う事であり、そして産んだ我が子を族長たるに相応しく育てなければならない。神の忠実な僕である母は、それが「神の意」であると信じて疑わない。
普段は控えめで優しい母であるが、次期族長たるに相応しくない言動を行えば、悪鬼の如くその美しい顔を歪ませる。
そして、壊れた様に同じ台詞ばかりを繰り返すのだ。
「貴方は族長になるのだから――」と。
クレアの事を忘れ、ずんずんと進む。初めて足を踏み入れる場所であるのに、その足取りに迷いはない。待ちに待った冒険である筈なのに、心を満たすのは期待よりも焦燥――
早く速くと己の中の何かが急かし続けるのだ。
幼い彼がその違和感に気付く事はない。しかし彼の足は迷うことなく目的地を目指す。
『――君の目覚めを待つよ』
ふと、穏やかな声が聞こえた気がした。肉声が耳に入ったと言うよりは脳に直接入り込んだという方が正しい気もするのだが、しかしそれが今外部から入り込んだ異物であるのか、心の奥底に眠り続けていたものが浮上したのかは分からない。
しかし確実に違和感を覚えた少年は足を止めた。
何なのだろう。この不思議な感覚は。
焦燥、思慕、後悔、安堵――
様々な感情が渦巻く。
しかし最も心を占めるのは只一つ
――還ってきた――と。
長い旅路を経て、漸く此処に還って来たのだという強い想いだった。
「お兄様!!」
どれだけ呆としていたのだろう。漸く追い付いてきた妹の声に振り返り――
そして、声が聞こえた
『ずっと、君達を待っていた』
穏やかで優しく、そして、懐かしい、声が――
『今、この場所で私の言葉を聞いていると言う事は――』
「……な……んだ……?」
呆然と呟く。
『――して――君達に……のは申し訳ないと――……』
穏やかで、柔らかい、声。
『しかしこうして君達に託すしかない不甲斐無い我々を――』
そして同時に流れ込んでくる、多くの声。
――君の名前は……
――お前はもう少し学ぶべきだ。
――いい加減働きなさいな!!
――私の神様……
――ごめん……なさいっ……!!
――鍵を、開ける
――君は本当に、怠惰だね……
覚えのある情景。そして、止め処なく溢れ出る、感情の奔流。
『救って欲しい。世界を。君達の未来を……そして、彼を』
「―――――っ!!」
そして、アスティンの震える唇から何事かが零れ落ちた。
それは意図して口にしたのではなくそう、「零れ落ちた」のだ。とてもとても大切な単語――否、名前が……
ふと脳裏を黒い影が過った瞬間、アスティンは今度こそ明確な意思を以ってその名を口にしようとする。
しかし、何か温かいものにふわりと包まれたと思った瞬間、それまでの奔流が嘘であったかのように、しんと静まり返った。
まるで、何も見るな聞くなと目を、耳を塞がれ、それ以上は口にしてはいけないと口を塞がれ、そして、幼子をあやす様に優しく抱きしめられている様だった。
『今度の君達は随分と幼い様だ』
再び聞こえる、声。
『君達には未だ、早い――未だその時では無い様だね』
そして、緩やかに意識が遠のいてゆく。
薄れゆく意識の中、クレアが呆然と立ち尽くしている姿が見えた。
※ ※ ※
ふと気が付くと、置いて来た筈の妹が直ぐ近くまで来ていた。
しかし、何処となく様子がおかしい。目の焦点があっておらず、身体が小刻みに震えている。
矢張り、未だ見習いの身とはいえ、神子として禁域に対して何か感じるものがあるのだろうか。
「……どうした?クレア」
怒っていた事も忘れ、心配そうに覗き込む。
「お……にいさま……今の……」
「?」
再びクレアが震える唇を開きかけた瞬間――
「アスティ――ン!クレア!!」
遠くから、自分達を呼ぶ声が聞こえた。
陽光に煌めく金色が見えた瞬間、アスティンの眉間に皺が寄る。小さく舌打ちをすると、苦々しげに呟いた。
「……クレアが邪魔した所為で見つかったじゃないか。もう少しで禁域の中が見れると思ったのに」
その言葉を聞いた瞬間、クレアははっとしたようにアスティンを見上げる。
「……おにいさま……?覚えて……」
「……?」
驚愕する妹と、それを不思議そうに見つめる兄。僅かに見つめ合った瞬間、再びクレアが口を開こうとする。
しかし再び呼ばれた声に、言葉が形になる事はなかった。
「アスティン!クレア!やっぱりここだったか」
いつの間にか目に前にまで来ていた美しい少年――フランツが、2人を見つめて苦笑する。
「なんだよ!邪魔するなよフランツ!」
「邪魔って……まさか禁域に入るつもりじゃないだろうな?族長の子が?」
うっと詰まったアスティンにやっぱりと微笑んで、2人を促す。
「この事は黙っていてあげるから、さっさと帰ろう。アリエス様が探していたぞ」
「うるさいっ!偉そうにするなっ!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながらも、帰途に着こうとするアスティン。しかしクレアが微動だにしないのを見て、フランツは不思議そうに問いかける。
「……クレア?どうかした?」
「……」
「……クレア?」
はっとして視線を合わせると、複雑な笑みを浮かべて応える。
「う……うん……」
何処か覚束無い足取りで2人の後を追うが、クレアの頭の中は、先程の事でいっぱいだった。
――どうしてお兄様は普通にしていられるのだろう。あんなに衝撃的な出来事が起こったのに。
しかし兄は不思議な事を口にしていた。それはまるでこれから禁域に入るかの様な、言い方だった。
――禁域に入った事を忘れている?それは何故?
状況的に考えて、あの優しい声の主が記憶を消したのだろう。彼は「未だ早い」と言っていたのだし。
しかしそれでも疑問は残る。「早い」とは何の事だろうか?
彼は自分達に何かをして欲しそうだった。しかしそれは未だ時期尚早なのだろう。だから彼が魔法で記憶を消したと仮定する。
それならば何故、兄の記憶を消して、自分の記憶は消さなかったのだろうか。
兄には早くて自分は充分だったのか?
それとも、「神子」たる自分に彼の魔法は効かなかったのだろうか。
理由など分からない。しかし、自分は覚えている。
クレアの小さな頭には入りきれない程の記憶、感情の奔流――
荒れ狂う記憶の波は、嵐の様に脳内を駆け巡り、そして再び去って行ってしまった。
もう、あの時に何を見て聞いたのかは分からなくなっていた。
しかし、覚えている事もある。
自分達に語りかけてきた、優しい声
そして、愛しい面影――
自分はいつか何かを成さなければならない。それを心に強く刻み込んだ瞬間だった。
この小さな冒険は、クレアにとって忘れ得ぬ出来事となったのだった。
聞き慣れた愛らしい声に振り向くと、少女が不安そうに見上げてきた。
「何だよクレア。駄目とか何とか言いながら結局付いて来たんじゃないか」
僅かに頬が緩む。大人びてはいるものの、妹とて冒険に興味があるのだろう。
「お兄様だけで行っては駄目です。もし結界に何かがあった時、魔法を使えないお兄様では無理です」
「なんだよ!俺が弱いって言いたいのかよ!!」
「弱いと言っているのではないです。フランツでも……恐らくお父様でもだめです。神子か……魔法が使える人でないと……」
自分が妹に劣っていると言われているようで、アスティンはむっと眉根を寄せる。
「もういいよ!!お前はついてくるな!!」
苛立ち紛れに叫ぶと、アスティンは思い切り走り出した。
――幼い妹がついて来れないと分かって居ながら。
いつも、そうだった。
族長である優秀な父。歴代5指に入ると言われていたらしい力を持っていた母。――そして、その母でさえも凌ぐと言われている才を持った妹。
その中で、アスティンだけが凡庸だった。
幼い身で才能も何もあったものではないが、それでもアスティンには気付かぬうちに劣等感が植えつけられていた。
母は神の託宣により、父に降嫁した。それが故か、子を成す事、そしてその子らを育てる事を神が己に与え給うた使命だと言わんばかりに、厳しく躾けた。
それは異常ともいえるものだった。
「貴方はいつか、お父様をも超える様な立派な族長になるのよ」
まるで「そうでなければならない」と強迫観念に駆られた様に、ひたすらに言い聞かせてきた。
「族長」である父に降嫁する、と言う事は「次代の族長を産み落とす」と言う事であり、そして産んだ我が子を族長たるに相応しく育てなければならない。神の忠実な僕である母は、それが「神の意」であると信じて疑わない。
普段は控えめで優しい母であるが、次期族長たるに相応しくない言動を行えば、悪鬼の如くその美しい顔を歪ませる。
そして、壊れた様に同じ台詞ばかりを繰り返すのだ。
「貴方は族長になるのだから――」と。
クレアの事を忘れ、ずんずんと進む。初めて足を踏み入れる場所であるのに、その足取りに迷いはない。待ちに待った冒険である筈なのに、心を満たすのは期待よりも焦燥――
早く速くと己の中の何かが急かし続けるのだ。
幼い彼がその違和感に気付く事はない。しかし彼の足は迷うことなく目的地を目指す。
『――君の目覚めを待つよ』
ふと、穏やかな声が聞こえた気がした。肉声が耳に入ったと言うよりは脳に直接入り込んだという方が正しい気もするのだが、しかしそれが今外部から入り込んだ異物であるのか、心の奥底に眠り続けていたものが浮上したのかは分からない。
しかし確実に違和感を覚えた少年は足を止めた。
何なのだろう。この不思議な感覚は。
焦燥、思慕、後悔、安堵――
様々な感情が渦巻く。
しかし最も心を占めるのは只一つ
――還ってきた――と。
長い旅路を経て、漸く此処に還って来たのだという強い想いだった。
「お兄様!!」
どれだけ呆としていたのだろう。漸く追い付いてきた妹の声に振り返り――
そして、声が聞こえた
『ずっと、君達を待っていた』
穏やかで優しく、そして、懐かしい、声が――
『今、この場所で私の言葉を聞いていると言う事は――』
「……な……んだ……?」
呆然と呟く。
『――して――君達に……のは申し訳ないと――……』
穏やかで、柔らかい、声。
『しかしこうして君達に託すしかない不甲斐無い我々を――』
そして同時に流れ込んでくる、多くの声。
――君の名前は……
――お前はもう少し学ぶべきだ。
――いい加減働きなさいな!!
――私の神様……
――ごめん……なさいっ……!!
――鍵を、開ける
――君は本当に、怠惰だね……
覚えのある情景。そして、止め処なく溢れ出る、感情の奔流。
『救って欲しい。世界を。君達の未来を……そして、彼を』
「―――――っ!!」
そして、アスティンの震える唇から何事かが零れ落ちた。
それは意図して口にしたのではなくそう、「零れ落ちた」のだ。とてもとても大切な単語――否、名前が……
ふと脳裏を黒い影が過った瞬間、アスティンは今度こそ明確な意思を以ってその名を口にしようとする。
しかし、何か温かいものにふわりと包まれたと思った瞬間、それまでの奔流が嘘であったかのように、しんと静まり返った。
まるで、何も見るな聞くなと目を、耳を塞がれ、それ以上は口にしてはいけないと口を塞がれ、そして、幼子をあやす様に優しく抱きしめられている様だった。
『今度の君達は随分と幼い様だ』
再び聞こえる、声。
『君達には未だ、早い――未だその時では無い様だね』
そして、緩やかに意識が遠のいてゆく。
薄れゆく意識の中、クレアが呆然と立ち尽くしている姿が見えた。
※ ※ ※
ふと気が付くと、置いて来た筈の妹が直ぐ近くまで来ていた。
しかし、何処となく様子がおかしい。目の焦点があっておらず、身体が小刻みに震えている。
矢張り、未だ見習いの身とはいえ、神子として禁域に対して何か感じるものがあるのだろうか。
「……どうした?クレア」
怒っていた事も忘れ、心配そうに覗き込む。
「お……にいさま……今の……」
「?」
再びクレアが震える唇を開きかけた瞬間――
「アスティ――ン!クレア!!」
遠くから、自分達を呼ぶ声が聞こえた。
陽光に煌めく金色が見えた瞬間、アスティンの眉間に皺が寄る。小さく舌打ちをすると、苦々しげに呟いた。
「……クレアが邪魔した所為で見つかったじゃないか。もう少しで禁域の中が見れると思ったのに」
その言葉を聞いた瞬間、クレアははっとしたようにアスティンを見上げる。
「……おにいさま……?覚えて……」
「……?」
驚愕する妹と、それを不思議そうに見つめる兄。僅かに見つめ合った瞬間、再びクレアが口を開こうとする。
しかし再び呼ばれた声に、言葉が形になる事はなかった。
「アスティン!クレア!やっぱりここだったか」
いつの間にか目に前にまで来ていた美しい少年――フランツが、2人を見つめて苦笑する。
「なんだよ!邪魔するなよフランツ!」
「邪魔って……まさか禁域に入るつもりじゃないだろうな?族長の子が?」
うっと詰まったアスティンにやっぱりと微笑んで、2人を促す。
「この事は黙っていてあげるから、さっさと帰ろう。アリエス様が探していたぞ」
「うるさいっ!偉そうにするなっ!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながらも、帰途に着こうとするアスティン。しかしクレアが微動だにしないのを見て、フランツは不思議そうに問いかける。
「……クレア?どうかした?」
「……」
「……クレア?」
はっとして視線を合わせると、複雑な笑みを浮かべて応える。
「う……うん……」
何処か覚束無い足取りで2人の後を追うが、クレアの頭の中は、先程の事でいっぱいだった。
――どうしてお兄様は普通にしていられるのだろう。あんなに衝撃的な出来事が起こったのに。
しかし兄は不思議な事を口にしていた。それはまるでこれから禁域に入るかの様な、言い方だった。
――禁域に入った事を忘れている?それは何故?
状況的に考えて、あの優しい声の主が記憶を消したのだろう。彼は「未だ早い」と言っていたのだし。
しかしそれでも疑問は残る。「早い」とは何の事だろうか?
彼は自分達に何かをして欲しそうだった。しかしそれは未だ時期尚早なのだろう。だから彼が魔法で記憶を消したと仮定する。
それならば何故、兄の記憶を消して、自分の記憶は消さなかったのだろうか。
兄には早くて自分は充分だったのか?
それとも、「神子」たる自分に彼の魔法は効かなかったのだろうか。
理由など分からない。しかし、自分は覚えている。
クレアの小さな頭には入りきれない程の記憶、感情の奔流――
荒れ狂う記憶の波は、嵐の様に脳内を駆け巡り、そして再び去って行ってしまった。
もう、あの時に何を見て聞いたのかは分からなくなっていた。
しかし、覚えている事もある。
自分達に語りかけてきた、優しい声
そして、愛しい面影――
自分はいつか何かを成さなければならない。それを心に強く刻み込んだ瞬間だった。
この小さな冒険は、クレアにとって忘れ得ぬ出来事となったのだった。
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