3 / 55
第一章 思い出は霞む
第1話 故郷
しおりを挟む「暗い……何も見えない……音もしない……苦しい、怖い」
「落ち着け、海斗。本当に音は聞こえないか、暑さや寒さは? 痛みはないか」
「わからない……わからないんだ、痛い、頭が割れる……うぅっ! 」
椅子に身体を預け、もたれるように座る一人の青年。リラックスするように目を閉じていたが、やがて顔をしかめて両手で頭を抱えるとうなり始めた。
「無理だな、今日の所はここまでにしよう」
パチン!
青年の顔の前で指を鳴らす白衣の男。音と同時に電気がついて部屋が明るくなる。
「ごめんなさい、思い出せそうな気がしたのに……」
「無理することはない」
頭痛は消えたのか、苦しげに歪んでいた表情は緩み、青年は椅子からゆっくりと立ち上がる。
「珈琲でも飲むか」
「はい、支度します」
キッチンカウンターの奥へと消えていく青年を、白衣の男は眺めている。
「不思議なものだな。珈琲の淹れ方だけは覚えているのか」
「はい、砂糖は4つでしたね。こうして、よく作っていたような気がします」
「そうか……」
白いマグカップを2つ持った青年は白衣の男にカップを渡すと、自分も向き合って座る。
「この街はお父さんの故郷なんですよね」
「そうだ、この家で生まれ育った。お前も10歳くらいまではここで暮らしていたが、やはり憶えていないか」
「そうなんですね……すみません、憶えていなくて」
「焦る必要はない。ゆっくり思い出していけばいい」
親子で珈琲を飲む朝のひと時。多少のぎこちなさはあるものの、父を見る瞳には尊敬の眼差しが見てとれる。
しばらく黙って珈琲を飲んでいた二人を、リンと跳ねるような鈴の音が遮った。
「仕事だな。海斗、催眠療法は心と身体に負担をかける。ゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」
立ち上がり、白衣を翻す背中をじっと見つめるその青年は……あの日、壊れたはずの草野海斗。そして白衣の男は、草野英嗣だ。
ふわりとした柔らかい髪はあの頃より少し伸びたけれど、遥を熱く見つめていた瞳は相変わらずワンコのように、人懐っこい輝きを放っている。
「休めって言われてもなぁ……」
そう呟きながらカップを洗うと、キョロキョロしながら二階へ向かう階段を見つけ、上がっていく。部屋を探しているのだろうか……またいくつかの似たような扉を開けては閉めて、最後の扉を開けると安心したように中に入っていった。
「柿田さん、どうしました」
「いやぁ、悪いねぇ、朝早くから。先生どうしてるかと思ってよぉ」
痛そうに腰をさすりながら待っていた老人は、何かを重そうに提げている。
「早く持ってけって家のがうるせぇんだよ。昨日から大変だったんだ、草野先生んとこの坊っちゃんにあげるんだって。何でもこないだ良くしてもらったみてえで」
「まんじゅうですか、お気遣いありがとうございます。海斗が喜びます」
袋を受け取った英嗣は中身を確認して机に置くと、穏やかな笑みを浮かべ、老人に座るよう促した。
「先生も立派な跡継ぎがいて安泰だなぁ。格好良くて優しいって、ばあさん達が噂しとるよ」
「今は手伝ってくれていますが、後を継ぐ気などないでしょう。それより腰が痛むようですね」
見抜かれて気恥ずかしい様子の老人を診察台に促すと、英嗣は髪をかきあげる。
「いやぁ~、無理して草なんか刈っちまったもんだから痛めちまって。でも大したことないんだよ、先生に診てもらうほどのもんじゃあ」
腰をさするように触診を始めた英嗣。医師としての厳しさだろうか、一瞬にして顔つきが変わる。
「いつからですか」
「えっ、あぁ、昨日の夜だったかな」
「昨晩、眠れなかったでしょう。こいつはちょっと厄介かもしれません。すぐ奥さんに連絡を」
「えっ、せ、先生……そんなに悪いのかい」
「救急ですか、こちらコード199833草野です。至急搬送お願いします」
救急要請を済ませると、不安げな老人にただ一言告げる。
「大丈夫です。世の中には僕より名医がたくさんいます」
不安を取り去るように微笑みかけると救急車両が到着し、あっという間に老人は運ばれていった。
「手遅れ……かもしれんな」
見送った英嗣は感情のない声で呟くと、診察室へと戻っていく。その表情は今までのどれとも違う虚しさが、漂っている。
人は己の運命を知らずに産まれ、そして死ぬ。最期の瞬間などあっけないもので、長く患う者もいれば、笑顔で出掛けていったのが最期……という事もある。
部屋に戻り、冷めた珈琲を飲み干す。
草野海斗……子供の頃から生意気で煩くて苦手だった。関わらぬよう遠ざけていたのに、朝のあの時間だけはいつも珈琲を作って持ってきた。
あの女の考えそうなこと……魂胆など分かってはいたが、その時間だけは居てやってもいいと受け入れていた。
二人になってからも変わらない日課。ずっと、こいつが大人になり出ていくまで続く……そう諦めていた暑い、夏の朝。
海斗は死んだ。
あの老人も、それと同じ。
どんなに時代が進んでも、治療法が増えても人は死ぬ。
「運命……だな」
知ったような素振りで呟く英嗣も、人生という物語に於いては己の運命を知らぬ、ただ一人の人間に過ぎない。
恐らく、そんな事にも気付いていないのだろうけれど。
そして、またある朝。
リビングで珈琲を飲む英嗣と海斗。今日は、呼び出しに邪魔されることもない。
時折、海斗が気遣うような視線を送るけれど、英嗣は気にする素振りもない。
“草野医院に行くと死ぬ”
妙な噂は近所を駆け巡り、草野医院に近寄る者はいなくなった。あんなにもてはやされていた海斗にも、もう誰も声を掛けなくなった。
父さんは何もしていない。
そう信じて疑わない海斗。もちろん、今回は何もしていない。それどころか医師として腰痛から稀にしか起こらない重病を察知し、早急に対処した。
英嗣の対応は正しかった。
それなのに、主の急死を受け入れられなかった老人の家族はその怒りを、英嗣に向けた。
「えぇ、まずは500……いや1000だ。先日の話、お受けしましょう」
誰もいない草野医院、診察室で何やら聞こえる声。英嗣の口端がまた不気味に上がる。
誰と話しているのか、その企みはわからない。けれど、とにかく英嗣と海斗が揃ってこの街に戻ってきている事だけは……確かだ。
今度は何をするつもりだろうか。
海斗は、遥やこの街で起きた事を本当に全て忘れてしまったのか。
「仕事……探さなきゃな」
ベッドに横たわり呟く海斗の様子からは、遥を探そうとする様子もない。
“何度作り変えられても、英嗣にされた事だけは決して忘れない”
強い心で遥を愛し、父親の英嗣に立ち向かった草野海斗はもうどこにも……いないのかもしれない。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説

愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。


【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

【完結】幼い頃から婚約を誓っていた伯爵に婚約破棄されましたが、数年後に驚くべき事実が発覚したので会いに行こうと思います
菊池 快晴
恋愛
令嬢メアリーは、幼い頃から将来を誓い合ったゼイン伯爵に婚約破棄される。
その隣には見知らぬ女性が立っていた。
二人は傍から見ても仲睦まじいカップルだった。
両家の挨拶を終えて、幸せな結婚前パーティで、その出来事は起こった。
メアリーは彼との出会いを思い返しながら打ちひしがれる。
数年後、心の傷がようやく癒えた頃、メアリーの前に、謎の女性が現れる。
彼女の口から発せられた言葉は、ゼインのとんでもない事実だった――。
※ハッピーエンド&純愛
他サイトでも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる