桜の時に思い出して

織本 紗綾

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第三章 運命の曲がり角

第十話

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 あの日、身体を冷やした私は季節外れの風邪を引いて熱が下がらず、三日ほど学校を休んでしまった。

 休み明けもこの間の事で何となく行きにくくて……一週間くらいずっと部室に行かず真っ直ぐ帰宅していた。こんなに部活に行かないのは、一年生の時から考えても初めてかもしれない。

 先生に会いたい。

 そう思う気持ちが強ければ強いほど、行っていいのか分からない。いっそ、この気持ちを忘れられれば……前の私のままで生きていけるのに。

 先生を……忘れられるのかな。

 でもいつまでも行かないわけにいかない。風邪のせいで部誌の個人制作が進んでいない私には焦りがあった。調べたいこともあった私は、久しぶりに学校に残って図書館に寄ることにした。静かでわずかな木漏れ日だけが降り注ぐその場所は想像以上に、波立った私の気持ちを落ち着かせてくれる。

 何冊か、目当ての本を選んだ私は一番隅の席に座り、手に触れる久々の感触と活字を感じ始める。

 ふと、隣に気配を感じた。

 他にもいっぱい空いている席があるのに……集中をさまたげられた苛立いらだちも込めて隣に目をやる。

「やっぱりここにいたんだ」

 先生だった。

 驚きと、懐かしさと……戸惑いが身体中を電流のように駆け巡る。

「先生……」
「ひさしぶりだね、何してるの? 」
「調べ物です」
「そう」

 一週間ぶりの会話は気まずくて、ぎこちなくて、胸が苦しい。

「悪いけど、後にしてくれる? 」
「え? 」

 先生はそう言うと、いきなり読んでいた本を取り上げた。

「何するんですか」

 目の前に積んでいた本を片手で軽々持つと、もう一方の手で私の腕を掴む。

「先生? 」

 呼んでも返事はないまま、私は本と一緒に連れ出された。図書館を出て秋の桜並木を越えて校舎に入って……部室に入るまでずっと、私の腕は握られたままだった。

 そして入った部室には誰もいない。

「ごめんね、どうしてもみんなが来るまでに話したくて」

 やっと離された腕がジンジンと鈍く痛む。

「先生、あの……」
「もう風邪は大丈夫? 」
「はい……」

 先生……いつもと違う。私を優しい眼差しで見てくれる、それは変わらないんだけど、私の言葉を遮ったり、図書館からむりやり連れ出したり……こんな強引な先生は初めて。

「どうして来てくれなかったの? 」
「え……? 」
「休み明け、来てくれると思って待ってた」
「それは……まだ喉の調子が悪かったから……」

 向き合ってくれている先生に言い訳している、情けない私。それだけだったら昨日はここに来られたはず、それなのに。

「ほんとに体調の事だけ? 」

 時々、先生は私の気持ちなんて全部見透かしてるんじゃないかって思う時がある。わかっていてこんな風に私を見つめるんだって。

「はい……」
「とりあえず座ろうか」

 先生は私をいつもの席に座るよう促すと、自分も隣に座って、もう一度私を見る。

「この間の事、みんな気にしてる。言い過ぎたんじゃないかって」

 この間……逃げ出したくてたまらなかったあの日の事を思い出す。

「俺も……どうしようかと思った」
「すみませんでした、先生に迷惑掛けちゃって」
「いや、そうじゃなくて……」

 先生の言いたい事が分からない私と、何かを言い掛けてやめた先生。一瞬の沈黙の後、先生の瞳がもう一度、私を捉えた。

「あんな事で、神崎さんがもし来なくなったら……そう思ったらどうしていいか分からなくなった」
「先生……私そんなつもりじゃ」
「本当に? 」

 すがるような視線に困惑している私がいる。先生に会わない間、落ち着いていた気持ちが、鼓動がまた……騒いでいる。

「俺は……神崎さんには変わらずここにいて欲しい。あんなふうに一緒にいて安心出来るのは神崎さんだけなんだ」

 真剣な眼差し、いつもより強い声、先生が本音で向き合ってくれているってよく分かる。先生は初めて私と向き合ってくれた人、私だってちゃんと……でもそれをしたら気持ちが抑えられないかもしれない。

「先生……」

 俯く私に、先生は言葉を待ってくれている。今、私が告白したら……先生の事が好きって言ったら、先生なんて言うんだろう。

 壊れるのかな。

「私もです」
「え……? 」
「私も……先生とここにいる時間、すごく安心していられるんです」

 久しぶりに見た先生の笑顔は、泣きたくなるほど恋しかった笑顔……ずっと、ずっと二人でこうしていたい。

「よかった」
「え?」
「みんなの前ですごい否定してたから、俺と噂になるのそんなに嫌だったのかと思って」
 
 そう言う先生はもう緊張が緩んで、ちょっといたずらっ子みたいに笑っている。

「そ、それは、嫌とかじゃなくて迷惑かかると思ったから……ん? 先生もしかして」
「ごめんね、実はあの日ちょっと前から廊下にいてさ、全部聞こえちゃった」
「うそ……」

 じゃあ、私が必死に否定していたのも、車の中での話も……全部聞かれてたんだ。

「いっその事さ……」
「? 」

 先生は何か言い掛けたまま立ち上がり、部室の引き戸を開ける。

「こら! 盗み聞き禁止! 」
「え!? 」

 吉永先輩に金田先輩……佐藤先輩に梨奈ちゃんまで。

「ぜんっぜん、つまんねーぐらい何も聞こえなかった、なぁ」
「残念だったね。先生にされたからお返ししようと思ったんだけど」

 佐藤先輩はふてくされているし、金田先輩も……本当に何も聞いてないのかな。勢いで告白なんかしなくて……よかった。

「史織ちゃん、この間はごめんね」
「あ、いいんです……気にしてません」
「大丈夫? 先生に何かされてない? 」
「えっっ!? はい、大丈夫です……」
「お前ら全然懲りてないな、もうからかわないって言っただろ? で、いつからそこに? 本当に何にも聞いてないんだな」
「聞いてないって! なぁ? 」
「先生の笑い声しか聞いてませんよ? 先生、史織ちゃんの前ではあんな風に笑うんですね~」
「吉永、大人をからかうなよ」
「分かってますって、そういえば史織ちゃん」
「はい……」
「先生ね、史織ちゃんがもう来なくなっちゃうんじゃないかって、ずっとそわそわしてたんだよ? 」
「え? 」
「そうそう、だから今度から休む時は連絡してあげて、ね? 」
「もう……頼むからそれ以上言うな」

 先生は顔を真っ赤にして私から目をそらす。そんなに心配してくれていたなんて。

「仲直り済んだなら部活始めるか、梨奈やるぞ」
「うん」

 一波乱あったけど皆のおかげで、先生もあの時間を大事に思ってくれてる事が聞けて嬉しかった。これから先、私が引退するその日までどんな事があっても休まずに……ここでの時間を大切に過ごそう。

 照れくさそうに笑う先生に、心の中でそっと誓う。

 どんな時も先生の側にいるって。

 先生にとって私は生徒でも……これが恋愛じゃなくても、伝えられないままさよならになっても……それでもいい。どうしようもないくらい先生の事が好きで、そして今日の事は一生忘れられない、そう思うから。






 そう……あの時、先生がどんな気持ちから言った言葉かなんて、どうでも良くなるくらいうれしかった。まだ、あれから2ヶ月しか経っていないのに……私は先生の側を離れる言葉を探している。

 物思いにふける間に一日が終わってしまった。先生と一緒に大好きになった部室の前まで来て立ち止まる。

 本当に、今日で最後。

「入らないの? 」

 声が聞こえて振り返ると先生が立っている。怒っているよね……裏切ったと思っているかもしれない。

 とうとう来てしまった、最後の時。

「入ろう、早くしないとみんな来るよ」

 私の横を通り過ぎて部室に入る先生、風が起きて私に吹いた。

「どういう事か聞かせて? 」

 あの日のようにいつもの席に座る私と向き合って座る先生。

 でも雰囲気は重くて……苦しい。

「校長先生から聞いたよ、ご両親から退部の申し出があった事」

 もう嫌……胸が詰まって息ができない。

「まだ神崎さんからは何にも聞いてないよ、ちゃんと……聞かせてほしい」

 まともに顔が見られない。

「神崎さん」

 もし……助けを求めたらどうなるんだろう。ずっと、長年、悩んできた事……先生だったら助けてくれるかもしれない。束縛から私を守ってくれるかもしれない。

 少し顔を上げて先生を見る。

 あの日のように私に真剣に向き合ってくれる先生の表情が胸に刺さる。つらそうな疲れた顔……もし私が思っている事を全部話したとしたら……きっと先生は私に全力で向き合ってくれるし、助けてくれると思う。

 私がここにいたいっていったら、いさせてくれる。でも私は……そんな先生に何ができるだろう。

 やっぱり……迷惑かけることしか、できない。

 浮かれすぎて、わかっていなかった。

「何も辞めなくたって、通院するなら来られる日だけ来ればいいはずだし、成績だってまだ焦らなくても充分、受験には間に合うよね……他に理由があるなら教えてほしい」

 こんな形で終わらせる事……先生、ごめんなさい。

「先生……」
「うん」

 何でも受け止めてくれそうな、最後まで優しい先生の声。

「もう……私に構わないで……ください」
「え……?」

 立ち上がると先生の驚いたような顔が見える。とうとうここには居られなくなってしまった。

「ごめんなさい……これ以上、関わらないで」

 涙で声が揺れる。立ち上がると私は鞄だけを持って振り返った。

「神崎さん!! 」

 咄嗟に掴まれた腕を振り払って走る。部室を出て、廊下を走って突き当りで曲がるまで……息が切れても、苦しくても溢れる涙と一緒に走った。

 全部、終わってしまった。

 これしかなかった、そう思う私と、既に後悔している私……そして今でも先生に会いたい、側にいたいと叫んでいる私。

 何もかもが溢れて、身体中から血が出るように痛くて。階段に座り込むと、息を整えるより前に涙が溢れて止まらなかった。
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