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ChapterⅢ 日常

45.愛ゆえに 〜Because of love〜

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 その夜、密かに内藤が動いた。

 遥から借りたシャツを脱ぎ、漆黒のプロテクトスーツに身を包むと窓から外へ、あっという間に夜に溶けていく。



 その頃、海斗は洋司の部屋で診察をしていた。

「わしの事はいいから遥の側におってやれ」
「いいんだ」

 似合わない眼鏡を掛けて書類に目を落とす海斗を、洋司は少し悲しそうに見つめている。

「何言っとるんだ。怪我しとるのにお前も子供達もおらんとなったら心細いだろう」
「遥に必要なのは俺じゃない」
「海斗」
「薬、持ってくる」

 海斗は洋司を見る事もないまま、冷たく言い捨て部屋を出て行く。数日前から洋司は病に臥せっていた。怪我をした遥を置いて病院に帰ってくるしかなかったのもその為、しかしその事実を誰にも伝える事なく、海斗は一人で受け止めようとしている。

 重く沈んだ面持ちで燭台を手に地下の薬品庫へ。ここには万一の時の為、戦前から少しずつ備蓄してきた薬や資材が保管されていた。迷路のような部屋を奥に進み、鍵付きの棚から薬品の瓶をいくつか取り出す。

「海斗先生」
「由茉さん、まだいたの? 」
「患者さんの処方、確認したくて」
「そんな事までやってるの? 」
「応援の先生達も帰っちゃいましたし、私にも何かできる事はないかと思って……」
「そうか……ありがとう、助かるよ」

 海斗の横顔に微笑みかける由茉、彼女は仕事熱心な姿勢を装い、海斗と二人きりになれるチャンスを狙っていた。

「あっ……」

 わざとふらついて海斗に支えられる。

「大丈夫? 」
「ごめんなさい」

 謝る割にはしっかりと抱きついて、柔らかな胸を押しつける。

「少し休まないと……」
「先生……」
「由茉さん? 」
「もう少し…もう少しだけこのまま……」

 海斗の白衣をきゅっと握りしめ、胸に頬を寄せうっとりと。この日をずっと待っていた由茉は、考えていた作戦を決行する。

「先生…私……」

 いつもより甘い声、自ら服を脱ぎ胸元を露わにすると潤んだ瞳で欲情を誘う。

「大変だ。熱いよ、熱があるのかも」
「え? 」
「気付かなくてごめん。ずっと働き詰めだったのに…とにかく今は休まないと。今夜は泊まって明日、迎えに来てもらおう。部屋まで送るよ」
「え……? あの……海斗先生? 」
「解熱剤まだ残ってたよね。後は……水を用意しないとな」

 真剣に心配する海斗に由茉は拍子抜け、それ以上迫る事もできず支えられて部屋を出て行った。

 コト……

 闇に紛れ、それを見ていた人物がいる。

 内藤だ。棚を物色して瓶から一粒、錠剤を取り出すと布にくるんで素早く立ち去る。

 ちょうど内藤が潜んでいた目の前で起きた事、会話も表情も、由茉の胸の弾力までもがはっきりと見えてしまった。しかし、海斗は動揺すら見せなかった。由茉の誘惑に気づかなかったのだろうか、それとも気づかない素振りで部屋に連れ込んでこの後……まさか海斗に限って侵入者に気付いたわけはない。

 演技でごまかしたのか……だとしたらそれは遥の為か。痛む右肩を押さえながら、内藤は夜を駆けていく。

 

 遥は深夜でも眠らずに一点を見つめていた。

「眠れませんか」

 傍らで付き添う水野の声も疲れのせいか、だいぶ柔らかくなっている。

「水野さんの、言う通りでしたね」

 あれから一言も発しなかった遥が小さく呟く。

「何の話です」
「そう言えば海斗のお父さんにも、何度か言われました。海斗は私を利用しただけで愛してなどいないって……教えてくれていたのに、思い上がっていたんですね」
「後悔、しているのですか」
「私がいなければ、海斗は好きに人生を選べました。好きな人と結婚して、子供にも恵まれて幸せに暮らしていたのに」
「あなたがいなければ、海斗はこの世にいませんよ」
「だから……離婚しても私を棄てられないんです」
「あなたが歩み寄れば元に戻ります。こんな世で戸籍など何の意味もないのですから」

 水野の言葉は遥の心に響いているのか。相変わらず窓の外を眺めながら、もう遥の口が動く様子はない。

「さぁ、痛くても寝なければ治りません」

 寝かせようと肩に触れ、遥を横に。

「水野さん」
「どうしたのです」
「水を……汲んできてもらえませんか。一口だけ」

 飛び降りるつもりか、嫌な予感に水野は一瞬ためらいを見せる。

「ここにいます。この足じゃどこにも行けませんから」
「約束ですよ」

 遥にもそれが伝わったのか、約束をして水野が出て行く。しかし、遥は約束を破りすぐに窓の方へ。

「奏翔さん……」

 窓を開けると、潜んでいた内藤を招き入れた。

「よく気づいたな」
「闇が動いたから。それよりどうして? 」

「今すぐこれを飲め」

 内藤は大事に持ち帰った錠剤を遥に渡す。

「これは? 」
「避妊薬だ。今ならまだ間に合う」
「ありがとう」

 動かなくなった表情がかすかに微笑んだように見える。

「でも大丈夫。助けに来てくれたから最後までしてないし、前に出された時も妊娠しなかったから」

 いつの間にか平然とこんな事を話すようになってしまった、痛ましいその姿を思わず抱きしめる。

「もう二度と、あんな事しないと約束してくれ」
「奏翔さん? 」
「お前が、あんな汚い奴等に触られるなんて耐えられないんだ」
「私も汚いから……もう、触らない方がいいよ。病気持ってるかもしれないし」

 そう言うと、遥は内藤から離れた。

「いい方法だと思ったの。こんな身体でもお肉やお米と変えられるなら……でもそれもだめだった。バレちゃうのね。番号ついてるとそういう女だって」
「お前は! お前はそんな女なんかじゃない。頼むから……」

 声が、震えていた。

「泣いて……くれてるの? 」

 薬をくるんでいた布で、遥は内藤の涙を拭う。

「行って。水野さんが戻って来る」
「遥」
「ありがとう……ごめんね、私のせいで怪我を」

 遥は内藤の手を避けて、ベッドに横たわる。

「内緒、なんでしょ? 」

 足音に迫られて、仕方なく内藤は窓からまた闇へと戻っていく。なぜ泣いたのか、内藤自身もよくわかっていない。ただ溢れるほどの愛に押しつぶされそうになっていた。



 翌朝早く、水野は草野総合病院へ出掛けた。

「家からの使いです。洋司先生か海斗は」

 変装をせず正面入口から堂々と、水野は由茉に声を掛ける。

「まだ出勤されていませんが」
「なら部屋に案内を」
「どういったご関係ですか? 面識のない方をご案内する事はできません。お帰りください」
「使いの者だと言っているでしょう。古くからの知り合いなのです」

 ただでさえ朝から機嫌が悪かった由茉は水野に冷たい眼差しを向ける。睨み合う二人、火花でも散りそうな異様さに、周囲も気づいてざわつきを見せる。

「おお、やっと来たか」

 遠くから聞こえてきた声が二人の間に割って入り、何とか穏やかな雰囲気に。

「洋司先生、この方が」
「わしが使いを頼んだんだ、言っとらんくて悪かったなぁ」
「そうだったんですね……では私は」

 現れた洋司の言葉に分が悪くなったのか、由茉は足早に立ち去ろうとする。しかし洋司はそれを引き止めた。

「ちょうどいい機会だ、紹介しておこう。彼女がここのオーナーでわしらの雇い主だ」
「えっ…オーナー……」
「実はこの病院は彼女の父親がやっとったんだが、後を継ぐ者がおらんくてな。彼女も実業家で海外を転々としとるから、古くからの知り合いっちゅう事でここの管理を任せてもらっとるんだ」
「はじめまして、水野と申します」
「それならそうと早く……」
「わしらにとっては恩人でな。失礼があってはいかんから、これからは丁重にもてなしてくれ」
「は、はい…よろしくお願いします」

 由茉は苦虫を噛み潰したような顔で頭を下げると、そそくさとどこかへ消えていった。

「よくもそんなでたらめを」

 呆れる水野に洋司は笑う。

「でたらめなんかじゃないさ、ここの登記は今でもあんたになってる。ということは、ここはあんたの病院だろう」
「縁もゆかりもありませんよ。私には医師の父などいません」
「まぁ、いいじゃないか。継ぐ者のいない廃院を譲り受けたのは事実だ」

 軽妙なやり取りを交わしながら、洋司は自分の部屋へと水野を連れて行く。

「仕事だったのでは。元々、そんな約束はしていません」
「用があったのだろう。それに客は丁寧にもてなさんとな」
「冗談を。島まで訪ねたあの時は散々な物言いでした」
「まぁ、そんな事もあったな」

 珈琲も何もないがと言いながら椅子を用意する洋司に、時の流れを感じる。初めて出会った頃はまだ海斗とよく似た栗色の髪に白い肌をしていたが、学会を追放され島に流されて白髪頭の浅黒い肌に。そしてまた一段と、この戦争で老け込んでしまった。

 何故か、悲しい気持ちが込み上げる。

「それより遥が怪我をしたと聞いたが大丈夫なのか」
「えぇ、痛みは訴えませんがかなり腫れています」
「そうか……」

 洋司は深く息を吐いて、遥を憂う。

「遥には、苦労の掛け通しだな」
「海斗は、一度も帰れぬ程忙しいのですか」
「わしも帰るよう言ったんだが……遥に避けられたとかで拗ねとるんだ」
「そうですか……」
「まさか、本当なのか。遥が海斗を避けたというのは」
「えぇ」
「終わってしまう……今まで遥の心ひとつで繋いできた関係だ。おまけにあいつは年々、父親に似ていく」

 とんでもない事だと頭を抱えて嘆く洋司に、水野は何か考えるように黙り込む。

「家族であれば乗り越えられるはず。あの頃とは違います、五年も共に暮らし子供を育ててきたのですから」

 遥が海斗を避けた理由に水野は気づいた。ベッドサイドに置かれていた緊急避妊薬、飲ませようとしたのは内藤だ。恐らく遥は市場で身売りをし、内藤が止めに入ったのだろう。他の男に抱かれた身体を海斗に触れられたくなかった。

 愛ゆえに……。

「海斗は今どこに」
「昨夜も遅かった。まだ寝とるかもしれんな」

 水野は立ち上がる。

「呼んできてくれんか。話がある」
「病んでいるのでしょう、若くないのですから無理は禁物です」

 息遣いと顔色、更にはベッドの状態から洋司の病気さえも見破って、水野は海斗の元へ向かう。

    
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