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ChapterⅢ 日常
35.想い人 〜loved one〜
しおりを挟む深夜、目覚めた遥はゆっくり起き上がり内藤の側へ。傍らに座り、哀しそうに寝顔を見つめる。
遥の身体は回復しつつあった。
新たな心臓はその胸でとくんとくんと鼓動して、もう息苦しさもない。戦場で必死に遥を守り生かしたように内藤の生命は、今も遥の身体を温め、生かしている。
「起きとったか」
洋司が現れ、ほのかに明かりを灯す。
「あと……どれくらいで目覚めますか? 」
「さぁ……どんなもんか。身体は回復しとるし、もう目覚めてもいい頃なんだが」
「そうですか……」
「まぁ、何だ。心臓はちゃんと動いとるし心配することはない。案外、寝とるだけかもしれんぞ」
小さく頷いて力無くうつむく遥に、洋司は労るような視線を向ける。
「さぁ、遥も休むといい。身体に障るといかんからな」
「私はもう大丈夫ですから」
「遥……」
「ありがとう……ございます」
丁寧に頭を下げる遥に、洋司はそれ以上何も言えなくなってしまう。もう他人だと線引をされているようで、それは洋司の知っている遥ではなかった。
洋司の待機する病室で、遥は内藤の傍らに座り夜中《よじゅう》付き添った。朝が来て昼になってもそれは変わらず、時折、額の汗を拭いたりしては疲れたら座ったまま内藤に寄り添うように居眠りを。
片時も離れないその姿は、愛というより責めを一心に背負っているように洋司には見える。しかし海斗にとってそれは……愛の表明以外の何物でもない。
「どうしていますか……あの子達は」
「変わらずだ。遥はあの男の側を離れんし、海斗もそれを見とるだけで何も言わん。五年前とはすっかり立場が逆転しちまったようだ」
目覚めた遥にまだ会っていない水野は、洋司から様子を聞き怪訝な顔を見せる。
「まぁ無理もない。この五年、遥は苦労のし通しだったからなぁ。海斗は年々、気難しくなるし、仕事だと言って何もかも遥に甘えきっておった」
「当たり前でしょう。遥自身の決断です、投げ出すなど許されません。子育ても家庭も簡単に放棄する事などできないのです」
「お前さん、前は干渉すべきでないと言ってなかったか。そうなるなら仕方ないと……」
「そんな事を言った覚えはありません。あの時、遥は決めたのです、海斗と生きていくと。内藤など眼中にもなかったはず。今さら何を……」
「生身の人間だからな、心変わりはある。それにあの時、海斗が死んでいたらあの男は遥の側を離れんかっただろう。いずれ、そうなっていたさ」
「しかしそれでは、あの子達があまりに不憫です」
水野は、病室で見かけたあの双子の事を気にかけていた。
「意外だな、お前さんが子供好きとは」
「この世で一番嫌いです。うるさいし、予測不能で理解できません。ヘドが出るほど人間が嫌いなのに、子供など好きなわけがないでしょう」
顔をしかめる水野に洋司は一緒だなと笑う。人生も半ばを過ぎ、酸いも甘いも知り尽くした二人はどこか似た所があるのかもしれない。
「まぁ、それだけ話せれば安心だ」
ひとしきり笑い、洋司は立ち上がる。
「回復の原因は調べるとして、元気ならしばらく手伝ってもらおう。水汲みに食料の調達、双子達の世話、仕事はいくらでもあるからな」
「どこへ行くのです」
「後で子供達の所へ案内しよう。それまで部屋で休んとってくれ」
洋司は言いたい事だけ言って、さっさと部屋を出ていってしまった。
「子供の世話だけは絶対にしませんから」
取り残された水野は洋司の背中に言葉を投げるも、聞き入れてはもらえなさそうだ。
沢に水汲みに行った海斗達に発見され、彼女はここに戻ってきた。沢の側の林で木に寄りかかって眠っていた水野は、なぜか何歳も若返ったかのように美しく、怪我も完治していてその痕さえ見つけられなかった。
どこへ行こうとしていたのか、彼女にはここ数日の記憶がない。
眠ったまま目覚める様子のない内藤に悲愴な面持ちで寄り添う遥、白衣姿で黙々と診察をする海斗。
三人のいる病室には哀しい時間が流れていた。
「暑い? 汗拭くね」
行き場のない問い掛けは内藤でなく海斗に刺さる。
愛し合っていた頃を思い出させる優しい遥の声、聞こえていない振りで平然としている海斗の視線は白く細い指に。指輪のないその手は、浅黒く節榑立った手を包んでいる。まるで生命を吹き込むように……互いを生かし合っているのだとわかってしまう。
五年前の自分が遥に生かされたように、その温もりと声がどんな薬よりも生きる力になる事を、海斗は知っているからだ。
水野を置いて病室へ、三人が気がかりで仕方なかった洋司の足がドアの前で止まる。その視線は海斗に──寄り添う二人の前で虚しく耐えるしかないその姿が、遠い過去の自分と重なる。
“ごめんなさい……ごめんなさい洋司さん…私が……全部、私が悪いの”
あの泣き声が耳について離れない。亡くなって二十年も経つのに今も……その後に続く言葉さえ。
“だから…あの人を責めないで……”
顔も知らなかったはずの弟をあの人と呼ぶ知らない女性がそこに……海斗も今、同じ思いをしているのだろう。あまりに切ない空気に触れる事も壊す事も出来ず、その場を立ち去る。
あの日、遥と話した中庭へ。
あれ以来、何かあるとあそこで考え事をするのが癖になってしまった。
「ゴホッゴホッ、ゲホッ……」
内から込み上げるような深い咳、受けた拳に赤い飛沫が散った。
「奏翔さん? 」
「どうした」
「今……今、指が……奏翔さん! 奏翔さん聞こえる? 」
「内藤さん、分かりますか! 聞こえたら返事してください!! 」
遥と海斗が呼び続ける中、瞼がゆっくりと上がっていく。
「奏翔さん……」
泣き崩れる遥、完全に目を開けた内藤はしばらくぼんやりとした後で大きなあくびを。
「ふぁ~ぁ、よく寝た」
「寝たって……まさか、本当に寝てたんですか」
「当たり前だろ、どれだけ寝てなかったと思ってんだ。戦場にいたんだぞ」
あまりにのんきで拍子抜けする目覚め、部屋の空気ごと呆れ返る中で、遥だけは止めどなく溢れる涙を抑えきれず泣いて奏翔に抱きつく。
「よかった……奏翔さん…」
何度も名を呼び再会を噛みしめる遥にいたたまれなくなった海斗は、ひとり静かに部屋を出ていく。その瞳に生涯忘れぬ傷を焼きつけて。
海斗が出ていくと内藤は、縋りつく遥を抱きしめもせず邪険に引き離す。
「奏翔さん……? 」
拒絶され戸惑う遥。
「出ていけ」
「どうして……なんでそんな事言うの? 一緒にいるって…二人でどこかへ」
「忘れろ」
冷たく言い捨て内藤は顔を背けた。涙に濡れる遥を見ようともしない。
「あの約束なら、なかった事にしてくれ」
「どうして……」
「知っていたら戦場になんて連れて行かなかった。あの約束もないはずだ」
「ごめんなさい、私」
鋭い眼差し、髪をかきあげ内藤は最後の一言を放つ。
「嘘をつく女は嫌いだ。二度と顔も見たくない」
深く、遥は傷ついた。
海斗に捨てられた後、ただひとつの居場所でいてくれた内藤を遥は失ってしまった。自分の嘘で……背を向けベッドに潜り込む姿を茫然と見つめてから、力無く立ち上がり部屋を出ていく。
行くところなんてどこにもない、ふらふらと歩くその足は階段を上がり玄関へ。
「何してるの」
「あの人の事……よろしくお願いします」
「待って」
丁寧に頭を下げて、ふらふら出ていこうとするその腕を、海斗は掴んでいた。
「病気の事を隠して戦場に……嫌われて当然です」
涙に暮れ、沈む瞳に海斗は寄り添う。
憔悴しきった遥を支え、海斗は病室に連れてきた。遥が目覚めた部屋で、まるであの日をやり直すかのように海斗は遥を優しく見つめる。
「忘れて……くれないか。あの人の事」
海斗は初めて本当の気持ちを。あの日、本当に伝えたかった言葉を口にする。
「戻ってきてほしい。俺と子供達の元に……もう一度、家族として。ちゃんと、やり直そう」
「資格がありません……そんな事を言ってもらえる資格、私には。あまりに多くの罪を犯しました。戦場に出てたくさんの人を、ロイドを殺し……それだけじゃない。街の人達にロイドを勧め、幸せを奪ってしまったのに……私だけ元通り幸せになんて」
「罪なら、俺も数え切れないほど犯した……遥の病気にも気づかないで追い出したりして傷つけた。子供達の事もそうだよ、何があってもこの手で守り抜くべきだったんだ、それなのに……そこまでしても結局、何も守れなかった」
言葉が止み、沈黙が二人を包む。
海斗は遥を見つめ、そして遥も……やっと、互いの視線が交わり一つに。
「今度こそ、何があっても守ってみせる。自分の気持ちに、遥に嘘をついたりしない……だから、戻ってきてほしい」
そして目を伏せうつむく遥の手を、そっと握った。
戦争が終わり、混乱する街から離れ、海斗は家族の平穏をここで守ろうとしていた。
しかし、穏やかな夜は破られる。
皆が眠りについた静かな深夜、草野総合病院に人々が押し掛ける。医療と食料を求めて……壊れたはずの病院に人の出入りを見つけた市民がそれを言いふらし、原田総合病院から大勢の患者が移ってきたのだ。
「いれろー!! 見殺しにする気か! 」
「医者なら治療ぐらいしろ!! 」
平穏を守る為、海斗は受け入れるしかなかった。
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