モノスアガペー

白石まいか

文字の大きさ
上 下
7 / 7

Ⅴ 風呂!入ろうぜ!

しおりを挟む






「レオンー、?レオンどこぉ……」

 帰ってきた瞬間死にそうな顔でそう叫ぶリヒトに、レオンは怪訝そうな顔で首を傾げた。リヒトは、沸き上がる何かをグッと堪えて、勢いよくレオンに近づく。
「風呂!入ろうぜ!」
「……はぁ?」
レオンの呆れたような声がキッチンに響く。リヒトはにこりと笑いかけて、レオンの腰に手を回し引き寄せた。圧のある笑顔に思わずと言った表情で頷いたレオンを、リヒトは満足気に脱衣場まで連れていく。
 レオンはその様子を見て、呆れたようにため息をついた。これは絶対に何かあったな、馬鹿みたいに機嫌が悪い。

 リヒトはもう一度、大きくため息をついた。



 


 ​───────事の発端は数時間前。城内にて。


 この国唯一の利点は、1年中比較的過ごしやすい気候で生活できるというところだったはずだ。
「……話がちげーじゃん」
リヒトは滝のように流れ続ける汗を拭いながら、ぎろりと天高く昇る太陽を睨みつける。ニュースによれば、今日はここ数年で1番の猛暑日らしかった。それでも限度があるだろうとリヒトは鋭く舌を打つ。外に出れば、息をするだけで汗が止まらなくなるのだ。なにが、比較的過ごしやすい気候である。   
 だめだ、戻ろう。リヒトはくるりと踵を返した。上司の小言を聞くのにうんざりして部屋から飛び出してきたが、この暑さは異常である。これならうるさい小言を受けてでも、気持ちよく冷えたあの室内で過ごすほうがマシだ。
 途中訓練場の前を通れば、聞いているこちらが苛立つぐらいに暑苦しい声が場内に響いていた。訓練場には屋根がないため、じりじりと太陽に照らされた場内がサウナ状態になってしまっている。ひょこりと覗きみれば、そんな中で剣を持った男たちが、休むことなくそれを振るっていた。死にそうな顔をしているアイザックの姿もある。
「うげー……」
 リヒトは舌を出しながら静かに頭を引っ込める。こんな暑い中よくやっていられるものだ。今日一日休んだからって何か変わるわけでもないのに、自ら体調を崩したいと言っているようなものである。脳筋はこれだから困る、とリヒトは呆れたように首を振った。
 彼らがここで猛暑に襲われている中、冷えた室内で過ごせると思うと気分がいい。暑さで重くなっていた足取りもなんだか軽くなって、リヒトは鼻歌を歌いながら訓練場を通り過ぎようとした。
 その時だった。分厚くカサついた何かが、リヒトの首を思いきり掴んだのである。突然の衝撃と息苦しさに驚きながら後ろを振り返れば、そこには汗だくのアイザックが立っていた。彼の何かを企むような笑顔に、リヒトは慌てて後退る。しかしその前に、素早くリヒトへ距離を詰めたアイザックが腕を掴んできた。
「おいおい、何逃げようとしてんだぁリヒト」
「人聞きの悪いこと言うなよアイザック。俺は仕事中だ、離せ」
 リヒトは勢いよく腕を振り上げるが、アイザックの手は離れない。流石は毎日剣を振るう脳筋野郎だと、リヒトは顔を歪めながら睨みつけた。その顔を見たアイザックが、おかしそうに笑い声をあげる。
「どーせサボってんだろ。ちょい寄ってけ」
 ぐい、とアイザックが背後を指さす。後ろにあるのはサウナ状態になった訓練場だ。
「おいおい、冗談はその顔だけにしろよ」
「男前に向かって何言ってやがんだ」
「お前はただの女好きだろーが」 
 リヒトは自分の右頬を指さした。アイザックはリヒトの言っていることを察したのか、苦笑いでリヒトの腕を離す。
 アイザックは学生時代から、常に女を隣に置いている男だった。それは金髪ロングの生意気そうな歳上だったり、眼鏡でキツめの顔をした同級生だったりと曜日に寄ってころころ変わる。同じ女が2日連続隣にいるところを、リヒトは見たことがなかった。アイザックはそれぐらい女好きなクソ野郎で、よく揉め事に巻き込まれては頬に真っ赤な手のひらの後を付けている。
「お盛んだな」
「付き合う気はねぇって最初に言ったんだぜ俺は。話もろくに聞かねえでよく人をぶっ叩けるもんだ」
 アイザックは呆れたように後頭部を掻いた。堂々の最低な発言に、リヒトは馬鹿にしたように鼻で笑う。
「お前は見る目がないもんな。もっと手ぇ出す女考えろよ」
「いや、今回は男」
「……お前ほんと見境ねーな」
 リヒトは、アイザックの下半身の元気さに感心した。よくもまあそこまで色々な人間と関係を持てるものである。よく知りもしない相手に簡単に股を開ける人間などと関わっても、時間の無駄だろうに。
 しかしこの元気な下半身のおかげで、リヒトが学生時代、恋愛絡みのいざこざに巻き込まれるということは殆どなかった。リヒトがこっ酷く振った女を、アイザックが片っ端から慰めに走ったからである。恋愛なんてものに微塵も興味が無かったリヒトにとって、アイザックという男の存在はとても大きかった。
「男相手は初めてだったんだが。いやぁ、純愛ラブストーリーでも始まるんじゃねーかと焦ったわ」
「あ?ロマンチストにでも当たったのかよ」
「ちげーわ」
 俺がだよ。そう言ったアイザックは、目を逸らして気まずそうに頬の傷を撫でた。意味を理解したリヒトは、驚いて目を見開く。幼い頃からの長い付き合いだったが、この男の口からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「そのまま始めとけば良かったのに」
 リヒトがそう言うと、アイザックは顔の前でナイナイと手を振る。
「マジになってもいいことねーから」
「なったこと無いくせに何言ってんだ馬鹿が」
 呆れるように舌を出せば、ぎろりと睨まれる。その顔から余裕の無さが伝わってきて、リヒトは鼻で笑い返してやった。恋愛なんて楽勝だと大笑いしていた男が、まさかの恋愛童貞だったとは。本気になりそうになって格好悪く言い訳を並べた結果、頬をぶっ叩かれてその痕を情けなく晒している。アイザックの言う男前が台無しだ。
 ぶぶ、と吹き出して遠慮なく笑い声をあげれば、額に青筋を浮かべたアイザックがリヒトの肩に腕を回してくる。離せと暴れるリヒトをお構い無しに、アイザックは訓練場へと足を向けた。そのままズルズルと引きずられる。
「てめーふざけん、」
「俺はなぁリヒト」
 ふざけるなと怒鳴るリヒトの声を遮り、アイザックが静かに笑みを浮かべながら口を開いた。額の青筋は浮かんだままだ。
「生意気そうな顔で、猫みてぇな性格がタイプなんだよ。そういう奴の方が燃えるからなぁ」
「はあ?」
「それに男女とかいう面倒な性別は関係ねえ。意味わかるか?」
 アイザックがにやりと口角をあげる。

「確かお前の近くにもいたよなぁ。俺好みのやつが」

 リヒトの口元がぴくりと反応する。それを見たアイザックは楽しそうにリヒトの顔を見つめた。勿論アイザックは、本気でそんなこと言っているわけではない。タイプ云々の話は本当だが、当てはまる人間はこの世にごまんといるのだ。そんな中でわざわざアレに手を出すほど、アイザックは生き急いでいない。
 リヒトも勿論、アイザックが本気で言っているわけではないことは分かっていた。そしてアイザックも、リヒトが分かっていることに気付いている。それでも彼への可能性を匂わせたのは、リヒトがこの手の話題を特に嫌っていることを知っているから。
 つまりは俗に言う、構ってちょうだいである。
「お前の貸せよ」
 重くため息をつきながら、リヒトが口を開いた。
「お、やりぃ。相手いなくてつまんなかったんだよなぁ」
 けたけたと笑うアイザックに引かれて、リヒトは渋々訓練場へと足を踏み入れた。途端に勢いよく流れる汗が気持ち悪い。リヒトは苛立ったように舌を打った。
「隊長はいねーから。邪魔されることもない」
「そりゃあ良かった。自分の部下がボコされたとあっちゃ、いくらあの隊長でも黙ってらんねーだろうからな」
 がちゃりと渡された剣を、リヒトは受け取って自分の手に馴染ませる。暑さで余計に重く感じるそれを、リヒトはじっと睨みつける。アイザックの名前を呼んだ。
「一本勝負な。仕事中だから」
「ほんとに真面目なやつは、今ここにいないんだがな」
 ひらひらと手を振られた。了解の合図である。

「リヒトぉ、なんか賭けようぜ」
「はあ?めんどくせーな」
「俺が負けたら海外で手に入れた哲学書、譲ってやろうかぁ?」
「乗った」
「はえーなオイ」
「で?」
「お前が負けたら、明日もここに集合な。手合わせしろや」
「何でもどーぞ」

 剣先を合わせる。じりじりと見つめあって、数秒。両者同時に、地面を勢いよく蹴った。


 ​───────そして、冒頭に戻る。


「負けた?」
「……勝ったよ。哲学書も手に入ったから、後で渡すわ」
 リヒトがそう言えば、レオンの目が途端にきらきらと輝く。これが見たくてリヒトは賭け事に応じたのだ。アイザックも分かっていて、わざわざ哲学書なんていうものを賭けにあげたのだろう。リヒトがそういうものに興味が無いことなど知っているだろうに。あの男の思惑にハマらざるを得なかったことには心底腹立たしいが、その結果がこのレオンだ。サウナ状態となったあの訓練場で、太陽の光を浴び続けた甲斐がある。
「はい、バンザーイ」
「やめろ!自分で脱げるっつーの!」
「いいじゃんほら」
 レオンの上の服の裾を掴んで持ち上げようとすれば、その手をがしりと止められてしまった。諦めずにぐいぐいと引っ張れば、照れたように顔を歪めたレオンがこちらを睨み上げてくる。
「は、な、せ!」
「我儘言うんじゃねーよ」
「っ、な!」
 わざと低めの声で咎めれば、驚いたように肩をあげたレオンが震える声で声をあげた。おっと、やりすぎ。リヒトは慌てて両手を伸ばし、レオンの顔を持ち上げる。
「ふざけちゃった」
「……お前、ほんとうざい」
 レオンの唇がつんと尖る。拗ねた時の癖だ。リヒトは笑いを堪えながら、レオンの前髪を後ろへ撫で付けた。出会った頃に比べて伸びたな、と思う。レオンの綺麗な金髪は、後ろでまとめられるくらいには長くなった。まとめられるといっても、小さい尻尾のようだけど。レオンは、夏場の暑い日には特にこうやって髪を後ろにまとめて、日に焼けていない白い項を晒している。これだけは感謝してやる、とリヒトは実態のない夏と言う季節に話しかけた。
「髪、取っていい?」
「ん」
 髪を抜いてしまわないように、丁寧に髪ゴムを解いていく。解けば、項を隠すように落ちてきた髪に少し跡が残っていた。リヒトは、その髪を見るのが好きだった。
 レオンがもそもそと服を脱いでいる間に、リヒトは湯船に入れる入浴剤を探す。三種類の匂いがあって、レオンに聞けば冷たくなるやつ、と返事が返ってきた。リヒトがあげたラインナップの中にそれはなく、やれやれとため息をつく。確か、ストックで一つ買っておいたはずだ。
 投げ入れれば、じわじわと湯の色が変わっていく。タオルの用意をしておくかと振り返れば、服を脱ぎ終わったらしいレオンが、こちらにペタペタと歩いてきていた。
「先に髪洗わせて」
「無理。もう入りたい」
「えー」
「うるせー……」
 レオンは足を止めることなく、水色のお湯の中にぶくぶくと頭まで浸かっていった。頭を上げたレオンの髪は、濡れてぺたりと額や項にくっついている。
 リヒトも素早く服を脱いで、浴室の中へ入った。シャワーの温度を調節して蛇口を捻り、勢いよくお湯を身体へ浴びせる。髪を洗って、身体をボディタオルで身体を擦っていれば、レオンがゆっくりと口を開いた。
「なー、」
 聞こえてきた声に髪をかきあげながら振り返れば、水面をバシバシと叩いて遊んでいたレオンがちらりとこちらを見る。首を傾げて笑いかければ、浴槽の縁に身体を預けたレオンがじっと見上げてきた。お湯の温かさでぼーっとしているのか、ほんのり赤く染まった頬を縁へ押し当てている。
「なんで機嫌悪かった?」
「ん?」
「帰ってきたとき、機嫌悪かったから。哲学書手に入ったんだろ、なんで?」
 リヒトが驚いたように目を見開いた。レオンが訝しげな顔でじっと睨めば、リヒトはくつくつと笑い声をあげる。
「えー、なに心配?」
「知らね」
「なんでだよ」
 リヒトは身体についた泡をシャワーで素早く洗い流すと、浴槽の中へ足を突っ込んだ。微塵も避ける気配がないレオンを、前から抱き上げて端へ寄せる。
「アイザックの野郎、一回きりだっつー約束だったくせに、勝つまでやめねーとか騒ぎ出してよ」
「ふーん」
「断って帰ろうとしたら意地でも纏わりついてくんの。うざすぎてぶっ殺そうかと思った」
「そんだけ?」
「お陰でお前先に帰っちゃうし。夏服城内でも見たかった」
 レオンが呆れたような顔でリヒトを見る。
「何回も見てるだろ」
「一日一回見てーの俺は」
 眉を寄せたリヒトは、リヒトの腕を掴んで自分の方へ引き寄せた。暴れるレオンをぎゅっと抱きしめて、その肩に顎を乗せる。
「肌!やだ!」
「ショック受けてる俺を慰めろよ」
「ぞわぞわするからやだって!」
 ぐいぐいと胸を押し返されて、リヒトは渋々レオンの身体を離した。浴槽の縁に肘を置き、頬杖をつきながら責めるようにレオンを見れば、じっと睨み返された。
「あんだよ」
「次やったら先にあがってやる」
「はいはい、ごめんネ」
 レオンの顔にぴちゃりと水を飛ばせば、驚いた顔をしたあと猫のように威嚇される。猫みてぇな性格、というアイザックの言葉を思い出して、リヒトの気分は一気にどん底へ落ちる。
 リヒトは苛立ちを抑えるように深く息を吐くと、レオンに向けて手を伸ばした。警戒するように弾かれるが、気にせずレオンの頬に触れる。水分でしっとりとしたレオンの頬を撫でていれば、いくらか気分も上がってきた。
「ん゙んー」
「ふ、なにその声」
 されるがままになっているレオンの様子が面白くて、リヒトはくつくつと笑う。そのまますりすりと撫でていれば、レオンの顔がみるみる眠たそうになっていく。ぼーっとするレオンの意識を取り戻すように、リヒトは手の甲で優しく頬を叩いた。
「寝んなよ」
「……ん、」
 反応も返事も鈍い。これはもうすぐ寝落ちるなと、リヒトは浴槽の中で立ち上がってレオンの腕を掴む。
「髪洗おーぜー」
「んー、」
 ぐいぐいと引っ張っても、レオンは自分で立ち上がろうとしない。苦笑したリヒトは、レオンの脇の下に手を入れその身体を持ち上げた。湯の中から人間一人を持ち上げるのは、なかなか大変である。
 椅子になんとか座らせると、リヒトはレオンに目を瞑っているように指示する。寝てしまうだろうが、シャンプーが目の中に入ってしまえば大変だ。レオンの身体が前に倒れないようにと願って、シャワーの蛇口を捻った。リヒトはレオンの頭を自分の太ももあたりに寄りかからせると、髪へシャワーのお湯を通していく。
「髪乾かすの楽しみー」
「んぅ、」
「目ぇ開けんなよ絶対」
 レオンの髪は一本一本が細いから、力任せに雑に手を動かしてしまえば絡まってしまう。丁寧に丁寧に隅々まで洗って泡を流せば、ぺたりと髪の引っ付いた後頭部が船を漕いでいる。
「寝んなレオン」
「、ふへ」
 身体は自分で洗えと、ボディタオルにボディソープを付けて渡す。ノロノロと手を伸ばしたレオンは、泡立てたボディタオルを顔に押し付けようとしていたので慌てて止めた。
 なんとか洗い終わってくれた身体にシャワーを当てて泡を落とす。前へ倒れそうになるレオンの身体を後ろから抱き寄せた。顎を持ち上げて覗き込めば、その瞼はすっかり閉じられていた。リヒトは呆れたように笑う。
「しょーがねーなぁ」
 泡立てた洗顔で優しくレオンの顔を撫でる。目に入らないように気をつけながら目の下を撫でれば、擽ったいのかレオンは顔を歪めてうねり声をあげた。本当に、見ていて飽きない。
 顔に直接シャワーを当てて起こすかとも考えたが、気持ちよく眠るレオンにそれはやめておこうと諦めた。手のひらにお湯をためて、レオンの顔に押し当てるようにしながら泡を落としていく。こんなに触られてよく起きないものだ、とリヒトは苦笑した。
「レオーン、ちょっと起きろ」
「……ん、?」
「身体拭き終わるまでは頑張って立ってな」
 浴室から出て、マットの上に立たせる。ふらふらと覚束無い足取りで頑張って立つレオンの頭にタオルを乗せて、リヒトはわしゃわしゃと髪をかき混ぜた。絡まってしまってはいけないので、丁寧にすることは忘れない。
 顔も拭いて、レオンの首の後ろへタオルを回す。そのまま耳を撫でるように拭けば、ぱちりと目が合う。
「お、起きた?」
「……」
「寝ぼけてんなー。おら、バンザイ」
 入る前とは違って、素直に両腕があげられる。これはまだ夢の中だなと笑いながら服を頭から被せた。ぷは、と顔を出すレオンの仕草は幼い子どものようである。
 リヒトは首元のボタンを閉めて、足にかけた下着を上まで持ち上げた。スウェットパンツを履かせて、腰の紐を結んでやる。元々リヒトの私物であったそれは、レオンには少し緩いのだ。
 レオンを洗面台の前に置いてある椅子に座らせると、もう一度軽く髪を拭き取った。くしで丁寧に梳かして、トリートメントを髪にくぐらせる。いい匂いのするそのトリートメントは、二人のお気に入りだ。
 出来るだけ明日の寝癖が酷くならないようにと、ドライヤーの熱を当てる。その温かさに誘われたのか、レオンはまた頭をぐらぐらと揺らし始めた。かくんかくんと船を漕ぎ始めるので、リヒトは仕方なく、レオンの身体をリヒトの方へ引き寄せた。
「危ねーぞ」
「……」
「寝んなよーレオン。飯食ってないし」
 さらさらと乾いた髪を撫でて、リヒトは満足気にドライヤーのスイッチを切った。仕上げにと髪を軽くくしで梳いて、レオンの身体を揺らす。
「レオンー」
「んぐ、」
「飯、どーすんの?もう食わないで寝る?」
 聞けばむにゃむにゃと、言葉として成立していない返事が返ってきた。リヒトはどっちだよと笑いながら抱き上げ、とりあえずキッチンへと足を運ぶ。定位置の椅子へ下ろしてやれば、レオンはぐたりとテーブルへ身体を倒した。一応食べたい気持ちはあるらしい。リヒトはレオンの顔にかかる前髪を後ろへ撫で付け、頬を軽く伸ばしてやった。途端に皺が寄る眉間を、リヒトは笑いながら揉んでやる。
「……スープでも作るか」
 レオンから手を離して、リヒトは食材を取り出すために冷蔵室の扉を開けた。中身を物色すれば、それなりにスープの材料になりそうなものは揃っている。がたがたと取り出して準備していれば、背後から名前を呼ばれた。
「なぁにー」
 玉ねぎを切りながら聞き返せば、レオンは椅子を引いて立ち上がる。そのままふらふらリヒトの方へ歩いて来たと思えば、いきなり背中から重みが伝わってくる。リヒトは慌ててナイフを置き振り返ると、レオンの顎を掴み顔を持ち上げた。視線を合わせれば、眠そうな目がこちらをじっと見ている。
「危ねーだろ」
「てつだう」
「いいよ座ってて。今のお前にさせたら怪我しそうだし」
 目は開けとけよ、とリヒトはレオンの頭を軽く叩いてナイフを持ち直した。切り終わって鍋の準備をしていれば、背後から圧のある視線を感じる。リヒトは笑いを堪えながら、気にせず手を動かした。
「じゃあ、グラスとってくる」
 レオンはそう言うと、食器棚へ向かってそろそろと歩いていく。グラスくらいなら大丈夫かとリヒトが見送っていれば、がたんと大きな音が聞こえてきた。
「大丈夫かよー」
「……あしぶつけた」
 拗ねたような声で呼び掛けに答えるレオンに、リヒトは今度こそ笑いを堪えきれなかった。どこかを痛めたような声ではないことに安心しながら、気をつけろよと笑いかける。レオンは少し間を置いて、不貞腐れたように笑うなと呟いた。
 グラスを持ってきてテーブルに並べるレオンを横目に、リヒトは鍋の中身をかき混ぜる。時間はかけていられないと火の通りやすい具材ばかりを選んだので、後は味を整えるだけだ。
「お前どんくらい食べんの?」
「たくさん」
 目を擦りながら答えるレオンに、リヒトは驚いたように眉をあげる。
「え、もしかして結構腹減ってる?スープしか作ってねーけど」
「具はそんないらない。飲みたいだけ」
「ああ」
 リヒトは納得したように頷いて、食器棚から2人分の皿を取り出す。レオンの皿は具を減らして、スープを多めについだ。

「おら、熱いぞ」
「うん」
「ちゃんと冷ましてから口ん中入れろよ」
「……うん」
「おいほんとに大丈夫か?食わせてやろうか?お前ほんと、ったくもー」
「う、るせー」



 食べ終わった後、リヒトは完全におやすみモードに入ったレオンを抱き上げて、洗面台まで連れていった。椅子に座らせたレオンの身体を揺らすと、歯ブラシを目の前に差し出した。
「頑張って磨け」
「……」
「レオーン?」
 頬にかかる横髪をかけてやるが、レオンが差し出した歯ブラシに手を伸ばす気配は微塵も感じられない。仕方ないなとため息をついたリヒトは、顎を掴むとそのまま上へ持ち上げた。なんとも気の抜けた寝顔である。
「口開けろ。くーち」
「……ん゙ー」
「イヤイヤじゃねーよ。無理やり口の中に指突っ込むぞ」
 嫌そうに顔を背けてくるレオンに、リヒトは呆れを通り越して心配になってくる。
「お前今日どうした?いつもよりぼーっとしてねえ?」
「し、てない」
「ここは反応すんのかよ」
 ふるふると首を振るレオンに、リヒトはハァと息を吐いた。話した口を閉じずにぽかんと開けながら眠るレオンに、リヒトはしょうがないかともう一度顎を掴んだ。
 開いた口に強引に歯ブラシを突っ込み、片手で掴んだ頬を押した。唇の間に親指を挟んで、しゃかしゃかと歯を磨いていく。時折、舌を邪魔だと歯ブラシの先でつつけば、唸ったレオンの眉間に皺がよる。
 しばらくの間歯ブラシを動かして、一通りいいかとその手を止めた。コップについだ水でなんとか口を濯がせて、濡れた周りをタオルで拭き取る。
「はい、寝るぞー」
「……ん、」
「あ、お前トイレ行ってなくね?流石に手伝わねーぞ」
「…………………いい、ねる」
 ふらふらと立ち上がってそのまま倒れそうになるレオンの身体を、リヒトは慌てて引き寄せて抱き上げた。薄らと意識があるのか、首に腕を回してくるレオンにリヒトはくつくつと笑う。
「明日起きんの何時」
「……いっしょ」
「了解」
 レオンの寝室へたどり着くと、リヒトはレオンの身体をベッドの上に転がした。レオンは枕のいい位置を寝ぼけながら調節して、満足したように寝息を立てる。その様子をおかしそうに見ていたリヒトは、本はまた明日だなと笑いながらレオンへ手を伸ばし髪を撫でた。その手をそのまま頬に滑らせ、満足そうに立ち上がる。
 リヒトはドアの隣にあるスイッチを押した。パチリと部屋の電気が消える。暗闇を嫌がるレオンのために、常夜灯に切り替えることを忘れない。
 最後にもう一度レオンに視線を向けたリヒトは、その寝顔ににこりと笑いかけた。

「おやすみ」

 パタリとドアが閉められた。


 2人がおはようと顔を合わせる朝まで、時間はゆっくりと過ぎていく。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

そばにいてほしい。

15
BL
僕の恋人には、幼馴染がいる。 そんな幼馴染が彼はよっぽど大切らしい。 ──だけど、今日だけは僕のそばにいて欲しかった。 幼馴染を優先する攻め×口に出せない受け 安心してください、ハピエンです。

僕のために、忘れていて

ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────

美形な幼馴染のヤンデレ過ぎる執着愛

月夜の晩に
BL
愛が過ぎてヤンデレになった攻めくんの話。 ※ホラーです

【doll】僕らの記念日に本命と浮気なんてしないでよ

月夜の晩に
BL
平凡な主人公には、不釣り合いなカッコいい彼氏がいた。 しかしある時、彼氏が過去に付き合えなかった地元の本命の身代わりとして、自分は選ばれただけだったと知る。 それでも良いと言い聞かせていたのに、本命の子が浪人を経て上京・彼氏を頼る様になって…

貴方の事を心から愛していました。ありがとう。

天海みつき
BL
 穏やかな晴天のある日の事。僕は最愛の番の後宮で、ぼんやりと紅茶を手に己の生きざまを振り返っていた。ゆったり流れるその時を楽しんだ僕は、そのままカップを傾け、紅茶を喉へと流し込んだ。  ――混じり込んだ××と共に。  オメガバースの世界観です。運命の番でありながら、仮想敵国の王子同士に生まれた二人が辿る数奇な運命。勢いで書いたら真っ暗に。ピリリと主張する苦さをアクセントにどうぞ。  追記。本編完結済み。後程「彼」視点を追加投稿する……かも?

浮気な彼氏

月夜の晩に
BL
同棲する年下彼氏が別の女に気持ちが行ってるみたい…。それでも健気に奮闘する受け。なのに攻めが裏切って…?

【運命】に捨てられ捨てたΩ

諦念
BL
「拓海さん、ごめんなさい」 秀也は白磁の肌を青く染め、瞼に陰影をつけている。 「お前が決めたことだろう、こっちはそれに従うさ」 秀也の安堵する声を聞きたくなく、逃げるように拓海は音を立ててカップを置いた。 【運命】に翻弄された両親を持ち、【運命】なんて言葉を信じなくなった医大生の拓海。大学で入学式が行われた日、「一目惚れしました」と眉目秀麗、頭脳明晰なインテリ眼鏡風な新入生、秀也に突然告白された。 なんと、彼は有名な大病院の院長の一人息子でαだった。 右往左往ありながらも番を前提に恋人となった二人。卒業後、二人の前に、秀也の幼馴染で元婚約者であるαの女が突然現れて……。 前から拓海を狙っていた先輩は傷ついた拓海を慰め、ここぞとばかりに自分と同居することを提案する。 ※オメガバース独自解釈です。合わない人は危険です。 縦読みを推奨します。

毒/同級生×同級生/オメガバース(α×β)

ハタセ
BL
βに強い執着を向けるαと、そんなαから「俺はお前の運命にはなれない」と言って逃げようとするβのオメガバースのお話です。

処理中です...