モノスアガペー

白石まいか

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Ⅲ 勝手に変えられるのは、不愉快だ

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 なんとも騒がしく煩わしい箱だ。
 リヒトは、流れては消えていく人間たちの話し声に苛立ちながら、乱暴に椅子の背を掴み腰かけた。昼食にと、購買で適当に手に取ったサンドウィッチの包み紙をびりびりと破く。値段の割に中身の詰まっていないそれに、リヒトは更に苛立ちを覚える。
 噂、噂、噂。聞こえてくる話し声に、リヒトは呆れたようにため息をついた。たまたま同じ年に生まれただけの人間を、馬鹿の一つ覚えのように同じ箱に詰め生活させた結果がこれだ。よく知りもしない人間の話など、わざわざ持ち出す必要性なんかないのに。自身の誇れる話なんて1つも持っていない馬鹿たちが、今日も他人の噂で心を踊らせる。
 その中の1つに、自分の噂があることも知っている。
 リヒトは、周りの音を拒絶するようにヘッドホンをつけ、音楽のボリュームを出来るだけ大きくした。そして味気ないサンドウィッチを口にしながら、ロイフォンの画面をじっと睨みつける。リヒトは、落ち込むように肩を落とした。
「……やらかした」
 連絡先が並んだページを繰り返し上下にスクロールする。何度見ても、そこに彼の名前はなかった。出会ってからいくらでも、連絡先を聞く機会はあったはずなのに。彼との会話が楽しくて、話したいことが沢山ありすぎて、リヒトは今の今まで連絡先を聞くことを忘れてしまっていた。
 その結果がこれだ、とリヒトは俯く。一緒に昼食を食べたくて、リヒトは授業が終わってすぐ彼のクラスに足を運んだのだ。途中の購買で、彼の分の昼食も買うことを忘れずに。彼が自分で昼食を用意していたらどうしようかと一瞬迷ったが、それもすぐに晴れた。要らないと言われたら自分で食べればいいし、要ると言われれば、リヒトは喜んでそれを差し出しだそうと。
 しかし、彼のクラスに顔を出してぐるりと見渡してもその姿はどこにもなかった。彼の席には他の誰かが座っていて、そいつに話を聞いても彼がどこへ行ったのか知らないらしい。知らないとはなんだ、とリヒトは理不尽に当たってしまいそうになったが、努めて笑顔で礼を告げ、足早にそこから立ち去る。
 それから、彼がいそうな場所をあれこれ探し続けたが、結果はこれだ。リヒトは1人、自分のクラスで寂しくサンドウィッチに噛み付いている。連絡先を知っていれば簡単に居場所を聞き出せたのにと思うが、彼はまずそういう通信機器を持っているのだろうか。リヒトは、これまで彼がそれを操作しているところを見たことがないなと首を傾げた。
 彼のことを考えていれば、リヒトを支配していた苛立ちも少し落ち着いてきた。冷静になれば、ヘッドホンから直接聞こえてくる音楽が痛いぐらいにうるさい。顔を顰めながらヘッドホンを外そうとすれば、それより先に、誰かがそれをリヒトの手の中から奪い取った。
「あ?」
 伸びてきた手の方向を思いっきり睨みつければ、そこにはやけに機嫌の良さそうな男が立っていた。街唯一のパン屋のひとり息子、オーウェンである。
「僕、ちょっと驚いちゃった」
 オーウェンはそう言って、片方に纏めた髪を揺らしながらリヒトの隣へ腰をおろした。勝手に座るなと睨みつけるが、オーウェンはどこ吹く風という顔だ。せっかく収まっていた苛立ちがまた湧き出てきて、リヒトは落ち着かせるように深く息を吐いた。
「なにが。てかそれ返せよ」
「はいはい」
 渡されたヘッドホンを雑に受け取って、つけ直そうと横髪を耳にかけた。しかしオーウェンがそれを阻むように、かけた髪を元に戻してくる。なにをするんだとその手を弾けば、オーウェンは落ち着かせるように顔の前で両手を左右に振った。
「ちょっと話聞いてよー」
「嫌だけど」
「いいじゃん少しだけー。どうせ暇でしょ?」
 オーウェンは、リヒトの傍に置かれたサンドウィッチの包み紙を指さした。その中身は既に空で、食べ終わったのなら時間はあるだろうと暗に視線で訴えてくる。
「……アイザックにでも聞いてもらえよ」
「ダメだよー。あいつには内緒にしたい話だもーん」
 ここにはいない、なんだかんだ面倒見のいい男の名前を出して見るが、効果はなかった。それどころか、彼には言えない話だと笑いながらこちらを見てくる。面倒臭いなと、リヒトは重く息を吐いた。
「なんだよ」
 渋々と言った様子で話の続きを促せば、オーウェンは更に笑みを浮かべた。それがやけにわざとらしくて、リヒトはうげっと舌を出す。どうせろくな話では無いのだろう。
「僕見ちゃった」
「なにを」
 オーウェンは内緒話をするように、リヒトの耳元へ顔を近づけた。
「お前が、レオンと一緒にいるところ」
 にひひ、と嫌な笑い方がリヒトの鼓膜にこびり付く。それがどうにも気持ち悪くて、リヒトはオーウェンの体を押し返し距離を取った。これ以上近づくなと視線で制し、話を続ける。
「で?」
「えー、だってさぁ。リヒトがああいうタイプと一緒にいるの、珍しくない?」
 ああいうタイプ、という嫌味な言い方に苛立ったが、リヒトもこの間まではそんな印象を持っていた手前なにも言えない。黙って視線を逸らせば、オーウェンはまた距離をつめてきた。
「しかも、あのレオンでしょ?」
「は?」
 リヒトが意味がわからないと眉をあげれば、オーウェンは浮かべていた笑みを消し、そして納得したように数回頷いた。
「……噂とか嫌いだもんねー」
 オーウェンは言葉を継ぐ。
「リヒトは、いい意味でも悪い意味でも有名じゃん。あ、馬鹿にしてるわけじゃないからね。でも彼はほら、悪い意味で有名人」
 変な噂が尽きないんだと、オーウェンは自分の髪へ指を通した。リヒトが思い当たらない話に首を傾げれば、困ったような顔で笑われる。
「だろうね」
 そこがリヒトの魅力だとオーウェンが言う。信ぴょう性もない噂話に巻き込まれてきた立場だからと鼻で笑えば、オーウェンは納得したように教室を見渡した。リヒトとオーウェンに対して向けられている視線に気づいたのだろう。オーウェンのことだ、その視線をわざとからかってくるかと思ったが、どうやら違うらしい。うげーと舌を出したオーウェンは、そのままクラスの中心ら辺を指さした。
「うざったいねー」
「それ、今ここであいつらに叫んでやれよ」
 やってやれと言わんばかりに腕を叩けば、オーウェンは絶対に嫌だと首を振った。つまらないやつだと鼻で笑うと、眉を下げ真面目な顔をしたオーウェンが、こちらを覗くように視線を合わせてくる。そして言いづらそうに、重い口を開いた。
「……アイザックがいたら、リヒトの自由にさせてやれって呆れられちゃうから言えないけど」
 拾えるかぎりぎりの声量でオーウェンは言う。
「レオンと一緒にいたら、リヒトまた、色々言われちゃうよ」
 この言葉に、リヒトはなんだそれはと吐き捨てようとして、やめた。オーウェンの顔は、リヒトを心底心配しているかのように暗い。
 リヒトは、はーと息を吐いた。
「お前の心配することじゃねーだろ」
「えー、でも」
「いいから。勝手に言わせとけ」
 そう言って頭を軽く叩いてやれば、オーウェンは開いていた口をそっと閉じてリヒトから距離を取った。そして、拗ねたように口をへの字に曲げる。
「……なんだよー、もー」
「お前は遠回しに言い過ぎなんだよ。心配してくれてんなら、嫌味ったらしく話進めねーで最初からそう言えっつの」
 べっと舌を出す。オーウェンは悔しそうに眉を顰めて顔を逸らした。向けられた背中が、苦しそうに丸くなっている。
「おい」
「……」
 声をかけても、返事はない。
「オーウェン」
 名前を呼べば、背中がぴくりと反応した。それなのに変わらず返事はかえってこない。リヒトは仕方ないなと距離をつめて、丸くなった背中をばしりと叩いた。
「痛!なにすんの」
 振り返ってこちらを睨むオーウェンに、リヒトはへらりと笑いかけた。少し声のボリュームを下げる。

「どーもね」

 オーウェンは驚いたように目を見開いた。固まってしまった体を解すように何度か叩いてやれば、はっと息を飲んだオーウェンが勢いよく立ち上がる。何かを探すように教室を見渡したオーウェンは、目当ての人物がいなかったのか悔しそうに地団駄を踏んだ。
 頭を抱えたオーウェンは、そのまま天を仰ぐ。
「あ、ああああああいざっくあいざっくぅう!!」
 オーウェンは思いっきり息を吸うと、今この場にはいない自分の相方の名前を叫んだ。突然の大声に、リヒトは心底嫌そうな顔でオーウェンを睨みつけた。
「うるせーよ」
 オーウェンが、笑顔でこちらを振り返る。

「リヒトが僕に笑ったー!笑ったああ!!」




​───────​───────​───────​───────



 
 
 リヒトの足取りは軽かった。もういつぶりなのかも分からない午後休が貰えたからだ。なんなら1日休みを寄越せと上司へ怒鳴ってしまいそうになったが、それはぐっと堪え帰路に着いた。久しく聞かなかった休みという言葉が自分の元へ来てくれたことに、リヒトは口角をあげて喜ぶ。
 まあもっと我儘を言うなら、レオンと休みを合わせて欲しかったなとリヒトは舌を打った。警備隊と司書では、どうしても休みが合わせにくいことは知っている。けれどリヒトは一応、全ての休み希望をレオンに合わせて提出していた。結果は憎いほどに惨敗。今度の土曜、1日合わせられたことが奇跡に近い。
「今日何食いてーんだろ、あいつ」
 ついでにと、今日の夜の食材を買いに出ようと街へ来たのだが、リヒトは朝、レオンに夕飯の希望を聞くのを忘れていたのを思い出した。連絡してみようかと思いロイフォンを起動するが、無駄なことに気付いて画面を閉じる。レオンは変なところで真面目で、仕事中にロイフォンを扱ったりしないのだ。今メールを送ったところで、どうせ返信はこない。
 ならばどうするか。リヒトは後頭部を掻きながら、昨日の夕飯のメニューを思い出す。昨日はスパゲティグラタン。麺類だったから、レオンの好きなパンは食卓に並ばなかった。
「肉、残ってたよな」
 今朝覗いた冷凍室の中に、鶏肉があったことを思い出す。あれを適当に調理してパンで挟み、サンドウィッチにすればいい。
 リヒトは来た道を少し戻り角を曲がった。そうすれば、この街唯一のパン屋が姿を現す。外なら中をちらりと覗けば、見慣れた顔が退屈そうに店番をしていた。
 入り口の扉を開ければ、客の来店を知らせる鈴の音が響く。気付いた店主がこちらに視線を向けて、そしてがたりと立ち上がった。
「リヒトー」
 いらっしゃいと笑顔で出迎えるオーウェンに、リヒトは軽く手を振る。店内に視線をやれば、オーウェンはカゴとトングを手渡してくれた。
「この間ぶりー。この時間にくるの珍しいね」
「午後休なんだよ。サンドウィッチ用のやつあるか?」
 リヒトがそう尋ねれば、オーウェンは勿論だと頷いた。どのくらい必要なのか聞かれ、気持ち多めの2人分、と答える。
「気持ち多めって、難しいこと言うなぁ」
 そう言いながら、オーウェンが苦笑する。
「もう1人がよく食うからな。あー、じゃあ3人分でいいや」
 リヒトが後頭部を掻きながらそう言えば、オーウェンはリヒトへ少し待つように言って店の奥へと入っていった。恐らく、焼きたてをわざわざカットしてきてくれるんだろう。
 待っている間に、並べられているパンを順に眺めた。お、とリヒトはにこりと笑みを浮かべた。前にオーウェンが持たせてくれた試作品のパンが、レギュラー化したのか棚の前列に並んでいる。残っている個数も少ないから、なかなか人気商品なのだろう。リヒトはそのパンをじっと見つめる。あの時レオンは、店で並ぶようになれば毎日買いに行きたいと言っていたはずだ。
 ならば、と、リヒトは残っていた3つを全てトングで取りカゴに入れた。買い占めてしまったようで悪いが、あのレオンがたったひとつだけで満足できるわけがないのである。
 それから目に付いたものをぽいぽいカゴへ入れていれば、袋を持ったオーウェンが奥から顔を出した。受け取ると、ほんのり温かみが伝わってくる。
「わざわざ悪いな」
「いいよ。常連さんだしね」
 にやりと笑ったオーウェンに、リヒトは、それじゃあこれもとパンの入ったカゴを渡す。予想以上の重さに、オーウェンは目を見開いた。
「いつもより多いけど、大丈夫?」
「新作ばっか選んだから。多分2日で消える」
 右手の指を2本立てながらリヒトがくつくつ笑えば、オーウェンは意外そうに目を丸くして、口笛を吹く。そんなに驚いたか、とリヒトが聞けば、オーウェンは自身の口元を指しながら頷いた。
「ほんとびっくり。新鮮すぎ」
「そんなかよ」
 リヒトが聞き返せば、苦笑したオーウェンは悩むように首を傾げた。
「うーん。多分リヒトの考えてる意味じゃないけどね」
「あ?」
「気にしないで、独り言ー」
 それじゃあ会計するねと、オーウェンはリヒトが渡したカゴをもってレジの方へと向かっていった。オーウェンの言っていたことの意味が分からず眉を顰めていれば、早く来いと急かされる。
 そして見せられた金額に、リヒトはまた眉を顰めた。
「おい、ちゃんと払わせろって」
「いいよ別にー。タダってわけじゃないんだし」
 オーウェンが顔の前で手を振る。彼はリヒトが多く購入していく時は、こうして有り得ないほど値引きしてしまうのだ。今回だって、本来の金額の半分も請求されていない。
「お前なぁ。商売なんだから、ちゃんと客から金取れって毎回言ってんだろ」
「てへ」
「可愛くねーわ」
 舌を出して誤魔化されるが、リヒトにはそんなものは通用しない。結局、こんなことだろうと計算していた合計金額をしっかり払って、ぎゃあぎゃあと騒ぐオーウェンを背に店を出た。礼を言うのも忘れない。名前を呼ばれた気がするが、気にせず歩き出す。
 リヒトは、手に持っている袋を満足そうに見る。パンだけ買えば、後は家にあるもので充分だろう。今日は帰りが遅くなると言っていたから、すぐに帰らなくても大丈夫だ。少し寄り道をするかと辺りを見渡せば、前にピアスを購入した雑貨屋が目に入った。リヒトは自身の耳朶についている翡翠色のピアスにそっと触れる。すると今朝、いつもより髪を爆発させて起きてきたレオンの姿が思い浮かんで、リヒトは口元を右手で覆った。くつくつと笑い声が漏れる。気分が良くなったリヒトは、ついまた雑貨屋へ足を踏み入れた。少し薄暗い店内は、リヒトの浮ついた心を幾分か落ち着かせる。
「いらっしゃい」
 年配の小さな男がリヒトを出迎える。手を振り挨拶を交わせば、男は自分の耳元を指さした。
「この間買っていかれたものですね」
 リヒトの耳朶につけられているピアスがここで購入されたものであることを、男はどうやら覚えていたらしい。
「良い品をどうも」
 リヒトはにこりと笑みを浮かべ礼を言う。
 男はよくお似合いだと笑い、店の奥へと引っ込んでいった。この店は、店主が干渉しすぎないところがとても好ましい。
 商品の並ぶ棚を順に見ていく。するとピアスの並ぶコーナーにたどり着いた。基本的にシンプルなデザインばかりで、これからレオンも気に入るのではと考える。あの日は断固拒否されてしまったが、人間の気分なんていつ変わるのか分からない。ピアスを開けたいと突然言い出すかもしれないし。一つ一つ、レオンに似合いそうなものをじっくりと見ていくが、これと言ったものは見つからない。
「……今日はいいか」
 諦めて他の棚に視線をやる。この店はピアス以外の商品も種類が豊富で、ただ見ているのも楽しかった。あの店主と趣味があうのか、並べられているどれもがシンプルでリヒト好みなのである。あれやこれやと手を伸ばすが、貼られている値段にうげ、と舌を出した。良さそうな物はやはりそれだけの価値があるらしい。
 結局2枚の皿を買い、店を出た。今日作るサンドウィッチにちょうどいい大きさだと、箱の中を覗き見る。翡翠に近い色はなかったので、黒と白を1枚ずつ。デザインは同じだ。
 どこからか鐘の音が聞こえて、リヒトは慌ててロイフォンを起動し時計を確認する。思ったよりも時間がかかってしまったらしい。帰って夕飯を作らなければと、大股で歩きながらパンの入った袋を揺らす。サンドウィッチに目を輝かせるレオンの姿を想像して、リヒトは自然と駆け出していた。にやけてしまっている自覚はある。
 スープはどうしよう。トマトが沢山あるからそれで、

「うお、と!」
「きゃ!」
 突然、なにかがリヒトの足元に勢いよくぶつかってきた。なんだなんだと視線をおろせば、子どもの小さな頭がぐらりと地面へ落ちるところだった。ごつんと鈍い音が響く。
「おい、大丈夫かよ」
 リヒトはぶつかった勢いでそのまま転んでしまった子どもに声をかける。しゃがみこんで、視線を合わせるように俯く顔を覗き込んだ。
「あ」
「りひとさんだ!」
 果物屋の一人娘ソフィアだ。リヒトはよく果物を買いに訪れるから、自然とソフィアとも話をする仲になっていた。面倒臭いことになったなと、リヒトは内心ため息をつきながらソフィアの体を持ち上げてその場に立たせた。
「痛いとこねぇ?」
「うん!へいき!」
 転んで汚れたスカートを軽く払ってやれば、ぺこりと頭をさげられた。リヒトを見つめるソフィアは顔は赤い。初恋泥棒、と果物屋の店主にからかわれたことを思い出した。つまりはそういうことである。
 出来ればここから早急に立ち去りたいところであったが、贔屓にしてくれる店の愛娘を雑にあしらっとなれば、後からなんと言われるのか。リヒトはそこまで考えて、苛立ったように髪をかきあげた。嫌な予感がする。
 果物屋はここから少し離れたところにあり、まだ幼い彼女が1人でここまで来るとは考えにくい。親と買い物にでも来ているのかと辺りを見渡すが、それらしき姿は見当たらない。
「あー、てかなんでこんなところに1人でいんの?親は?」
「……」
「あれれ」
 リヒトが口に出した親、という言葉にぴくりと反応したソフィアは、気まずそうに口を閉じ、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。その仕草に、リヒトは嫌な予感が的中してしまったと頭を抱える。
「迷子?」
 端的に聞けば、ばっと顔を上げたソフィアは潤んだ目でリヒトを見上げる。
「ちがう!いえで!」
 迷子であれ、迷子であれと願うリヒトの耳に届いたのは、何とも面倒臭い方の3文字であった。迷子なら家まで連れていけばいいだけなのに。リヒトはがっくりと肩を落とす。
「まじかぁ……」
「あのね、あのね!」
 ソフィアが、スカートの裾を握った手を前に突き出しながら話を続けようと口を開いた。リヒトは、話だけは聞いてやろうと耳を傾ける。本当は、知ったことではない興味がない面倒臭いとこの場を立ち去ってしまいたいところだ。
 ソフィアは、傾けられたリヒトの耳元へ、内緒話をするように顔を近づけた。
「……ままと、けんかしたの」
「あ、そう」
 なんとも在り来りな話だった。正直にそう反応してしまうと、ソフィアの表情がみるみる暗くなっていく。泣かれては困るな。リヒトは慌ててその小さな体を抱き上げた。
「きゃあ!」
 ソフィアの嬉しそうな声が聞こえる。リヒトは、その体を揺らして、機嫌を取るように頭を撫でた。
「うんうん、可哀想になぁ。ママと喧嘩は辛いよなぁ」
 頭を撫でられたことが嬉しいのか、ソフィアの顔は満足そうにまた赤くなった。リヒトはにこりと笑みを浮かべながら、ソフィアに話しかける。
「でも喧嘩したんなら仲直りしないとな」
「やだ!」
 ぷいっと顔をそらされる。リヒトは笑みを崩さない。
「やだっつっても、ね。帰ろうか」
「いやよ!」
「ママ、心配してるだろうし」
「一生帰ってくるなって言われたもん!」
 ソフィアが頬を膨らませながらそう言った。一生なんて言葉を安易に使うなと、この場にはいない彼女の母親に舌を打つ。単純な子どもは、すぐ鵜呑みにしてしまうのだから。どうせ今頃、姿が見当たらなくなった娘を必死に探している頃だろう。
 リヒトは果物屋の方へ歩き出した。どこへ向かっているのか気付いたソフィアが腕の中で暴れるが、子どもの力なんてどうってことない。
「りひとさん!とまって!」
「無理無理。大人しく帰ろうねー」
「い!や!」
 ばしんと、彼女を抱いている腕を叩かれた。猫パンチほどの威力だ。
「人を簡単に叩いちゃいけませーん」
「ままはよく、ぱぱのあたまをたたいてるよ」
「真似しちゃだめ」
 思わぬ所で、あの夫婦の力関係を知ってしまった。子どもの前であまりそういう姿を見せない方がいいのではと、リヒトは呆れたようにため息をつく。
 大きな歩幅でどんどん進んでいけば、ソフィアは抵抗するのを諦めたのか、大人しくリヒトへ体を預けた。最初からそうしていろと視線をやれば、暗い顔をしたソフィアが静かに口を開く。
「……まま、おこってるかな」
 青い目が、ゆらゆらと不安そうに揺れている。
 リヒトは励ますように、小さな背中にぽんと触れた。上げられた顔を覗いて、視線を合わせる。
「俺も一緒に謝ってやるから」
「ほんとう?」
「うん。ついでに買い物してくわ」
 もうすぐ果物のストックも切れるはずだと言えば、ソフィアは嬉しそうにリヒトの頬を両手で包み込んだ。
「そふぃがおやすくしてあげる!」
「まじ?」
「うん!りひとさんだから!さーびす!」
 きゃっきゃと足を揺らしながら言うソフィアに、リヒトはにこりと笑顔を返した。正直ここまでで買いすぎた自覚はあるから、サービスしてくれるのなら大歓迎だ。
「それは助かるわ。すーぐ無くなるからよ」
「いっつも、あんなにかってくのに?」
「一緒に住んでるやつがさ。果物めっちゃ好きなんだよ」
 今日も朝から、オレンジを3つも食ってた。リヒトが笑いながらそう言えば、不思議そうな顔をしたソフィアがこてんと首を傾げる。
「いっしょにすんでるひとがいるの?」
「会ったことないんだっけ?まああいつ、あんま買いに行かねーしな」
 確かに思い返せば、レオンがリヒトと共にあの店へ訪れたのは数えられる程だった気がする。ソフィアが店に立つのは本当に偶にのことであるし、知らないのも無理ないかと納得した。
「おとこのこ?おんなのこ?」
「男だよ」
 そうリヒトが答えれば、ソフィアは見るからにほっとした表情を浮かべた。しかし、何かを思い出したように一気に顔を青くしてリヒトを見上げる。
「それ、れおんってひと!?」
 突然出てきた名前にびっくりしながらもリヒトが頷けば、ソフィアはリヒトの首元を掴みぐらぐらと揺らした。リヒトはぴたりと足を止める。
「だめ!だめだよ、あぶない!」
 無遠慮にリヒトを掴むその手と、彼女が口にした言葉に、元々下がっていた気分が底辺まで落ちていくのが分かった。これを抱き上げているのも馬鹿らしくなって、ぎゃあぎゃあと喚く子どもをその場に雑におろした。混乱した顔で伸ばしてくる手を、ばちんと叩き落とす。
「どうしたの?」
 何も分からないという顔でこちらを見上げるソフィアに、リヒトは隠さず舌を打った。
「危ないって、なに」
 低く響く声に、ソフィアの体がビクつく。
「どういう意味?なんで危ねーの」
 聞けば、ソフィアは両手を顔の前で祈るように合わせながら、だってだって、と繰り返す。
「……ままが、おきゃくさんとはなしてたの」
 ソフィアの口からでた予想通りの答えを、リヒトは一掃するように鼻で笑った。噂好きな人間たちの影響が、こんな所にも出ていたらしい。
 レオンの『噂』は、彼と一緒にいる中で嫌でも耳にしてきた。直接話を聞いたことはないから、それが正しいのかどうかも分からない。というか心底どうでもいいし興味もないから、レオンにわざわざその話題も持ち込むなんてことはしなかった。所詮噂は噂、仮にそれが本当であっても、リヒトにとってのレオンは変わらない。

 勝手に変えられるのは、不愉快だ。

 リヒトはソフィアににこりと笑いかけた。ソフィアはその笑顔に安心したような表情を見せる。
「ここまで来ればもう分かるよな?」
「へ?」
 リヒトは、きょとりと首を傾げたソフィアから距離を取った。
「ちょっと急用。もう行かないとだから、後は1人で帰って」
 じゃあな、と手を振る。突然のリヒトの行動に驚いたのか、反応は帰ってこなかった。リヒトは、いつまでも動かないソフィアの背を少し押して、再度手を振ってやる。
「え、え?」
 ソフィアは戸惑ったような声が聞こえてきたがどうでもいい。もう、親しくすることはないんだろうなと思った。あの店にはもう二度と訪れないのだから、面倒なだけの子どもを相手にする理由はない。巻き込まれるのはごめんだから、どうか無事に家へ帰れるように願っておこう。
 ひくりと痙攣する右頬を、解すように手のひらで包み込んだ。触れた指先が酷く冷たかった。少し驚く。
 レオンが帰ってきたら、いつもよりもっと沢山話をしよう。彼の仕事の話をしつこい程に聞いて、オーウェンの元で買ったパンをひとつずつ見せるのだ。新作を買ってきたと言えば、レオンは下手くそな笑顔で笑ってくれるだろうから。そしてサンドウィッチを食べながら、この皿を買った雑貨屋に今度ふたりで行こうと誘ってみよう。
 リヒトはくつくつと笑い声を漏らす。レオンは凄い。底まで落ちていたリヒトの気分を、簡単に持ち上げてしまうのだから。
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