真っ白な君は

紐下 育

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「えぇ、構いませんよ。特に精神的な記憶喪失の場合は、安心しながらリハビリできる環境を作ることが大切なんです。建都さんが沙羅ちゃんにとって安心できる存在なら、ぜひリハビリのお手伝いをしていただきたいです。」

翌日、お医者さんはそう言って、俺の手を握った。
沙羅はまだ眠っている。

「ひらがなから教えることになるとは思いますが、沙羅ちゃんから『これなんて読むの?』と聞かれたら、どんどん教えてあげてください。」

続けて、リハビリの先生も言った。

「本当はもうちょっと心が落ち着いてからにした方がいいかとも考えたんですが、沙羅ちゃん自身が早めにリハビリしたいと言っていたのもあって…。無理はしない範囲でゆっくり、進めていこうと思います。」

沙羅、そんなこと言ったのか。
あんまり勉強好きなイメージもなかったから、リハビリも乗り気じゃないと思ってた。
でも、文字の読み書きはかなり重要なスキルだし、早く身に着けておきたいと思ったのかな。

「沙羅ちゃん~おはよう。」

朝の回診の時間になって、お医者さんが声をかける。
だけど、なかなか起きない。

「昨日は結構ナースコールの回数多かったみたいです。」

看護師さんが小声で付け加える。

沙羅は手も足も動かせないから、声で反応するナースコールを夜間だけつけている。
暑くて布団をはいだり、またかぶったりするのも一人ではできなくて、頻繁にナースコールが必要になるって言ってた。
昼間もよく眠ってるのは、あんまり夜がっつり眠れてないからなのかな、とも思ったりしてる。

どうしても沙羅が起きなくて、お医者さんは穂乃果さんに向き直った。
「お母さんから見て、沙羅ちゃんはどうですか?気分の落ち込みとか、ありますか?」
穂乃果さんの顔がこわばるのがわかって、俺はとっさに背中をさすった。
「うーん…。」
歯切れが悪い。
でも、俺はその気持ちが痛いほどよくわかった。
今までの沙羅と比べたら、あまりにも違うことが多すぎる。
表情が乏しくなったし、目線の動かし方もぎこちなくなった。
「母親として、こんなこと言うのはどうなのかと思うのですが…。沙羅のことがつかめないんです。あの子が何を考えているのか、全く分からなくなってしまいました。」
穂乃果さんがぽつり、ぽつりと話し出す。
「建都君も、こんなこと聞かせてしまってごめんなさい。沙羅には言えないけど、やっぱり不安になっちゃって。」

穂乃果さんが話している途中、沙羅がごそっと動いた。
穂乃果さんの肩がびくっと跳ねる。
でも、沙羅は目を開けることはなく、また寝始めた。

俺は気づいていた。
お医者さんたちも気づいたかもしれない。
沙羅の喉が動いていること。

でも、今起きたなんて言ったら、穂乃果さんが余計不安定になると思ったのかもしれない。
お医者さんが言う。
「わかりました。引き続き、沙羅ちゃんのことは丁寧に観察して、見ていきましょう。お母さんも、もしつらいことがあったらいつでもおっしゃってくださいね。」
穂乃果さんが涙ぐむ。

お医者さんたちが出ていったあと、俺は穂乃果さんに言った。
「穂乃果さん、まだ朝ご飯まだですよね?俺が沙羅見てるので、今のうちに食べてきてください。」
穂乃果さんがほとんどご飯を食べられていないことは知っていた。
昨日うちに泊まった時、穂乃果さんは久しぶりにこんなに食べたと言って母さんと一緒に泣いていたから。
「ありがとう。本当に、建都君にはお世話になりっぱなしだわ。」
穂乃果さんはそう言って、病院内のカフェに行った。

「…沙羅?もういいよ。穂乃果さんいないから。」
ぱちっと沙羅の目が開く。
「ほんと…?」
「うん。」
暑くなったから布団どかして、と言われて、沙羅の体の上の布団をたたむ。
「…ごめんね。」
沙羅が俺に謝ったのは、記憶をなくしてから初めてだと思う。
なんとなく意図はわかった。
穂乃果さんの憔悴加減を見ていたら、俺も苦しくなるから。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「…どうして?」
「お母さん、いつも泣いてるよね。」
「そうだね。」
「沙羅のせい?」
沙羅が自分のことを名前で呼ぶのは、昔から泣きたい時だって決まっていた。
沙羅曰く、小さくて無力なときの気持ちになるから、幼児退行しちゃうんだそうだ。
「沙羅のせいじゃないよ。」
「でも、沙羅がいなかったらお母さんは泣かないでしょ?」
「沙羅を轢いたトラックの運転手のせいだよ。沙羅は悪くない。」
「…ごめん、なさい。」
沙羅の目から、雪解け水みたいな涙がこぼれ落ちた。
俺は慌ててティッシュでそれを拭おうとしたけど、拭えど拭えど、どんどんあふれてきた。
「沙羅?みんな、沙羅のことが大好きだよ。沙羅が生きていてくれてよかった。俺も、穂乃果さんも、俺の父さんも母さんも、みんなそう思ってる。」
「でも、」
「それでも苦しくなるよね。でも、俺は少なくとも、沙羅が生きていてくれてよかったと思ってる。生きててくれてありがとう。これからも、ずっとそばにいるから。」
沙羅の言葉を遮るように、一息で喋り切った。
「うん…。」
やっと沙羅の涙が止まった。
「音楽、聴きたい。」
「わかった。」
気をそらしたいだけなのかもしれない。
でも、沙羅が泣かないで、今楽しい気持ちでいてくれればそれでいいと思った。
音楽に合わせて瞬きしてみたり、少し首を傾けてみたりしている沙羅を見て、俺はこの人の幸せを切に願った。

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