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林檎
しおりを挟む統制局から呼び出しが掛かり、シュイがシップの外に出てから丸一日以上経っている。夜までに修理を完了して戻る予定だったが、思いのほか長引いて遅くなってしまった。
ハルトに何も伝えないまま来てしまったが大丈夫だろうか。
シュリの頭にハルトの顔が思い浮かんだ。フィジカルトレーニングの際のハルトの額や首筋に流れる甘い汗と、恥じらうようなハルトの赤い顔と体温、キスした時の堪らない舌の感触と夢中で飲んだ甘い唾液の味まで思い出して、シュイは思わず体が熱くなった。
ラバースーツの上から着込んでいた船外用のスーツを脱いで回収ボックスに放り投げ、ジェットブーツを履くと、シュイは修理道具の並んだ部屋を出た。途端にラバースーツの左腕にメッセージが表示される。ハルトからだった。今から戻ると返信してエレベータへと急いだ。
白い廊下の先のエレベータの前に座り込む人影がある。まさかと思って近づくとハルトだった。
「シュイ!無事だったんだね」
ハルトが顔を上げて駆け寄ってくる。
「ハルト、どうしてここが分かった」
シュイの問いに、ハルトは長い睫毛を何度か瞬かせて俯くと小さな声で答えた。
「...ゾルドとロイカに聞いたんだ」
ハルトは俯いたままで表情が見えない。シュイの脳裏に嫌な考えがよぎった。
「...まさか、二人に飲ませたのか」
シュイはハルトの肩を強く掴んで顔を覗き込んだ。ハルトは怯えたような顔をしているが、詰問するのを止められない。
「どこまで許した」
「…キス、しただけ」
ハルトが睫毛を震わせて潤んだ瞳で言う。
「だけ、だと」
シュイは一気に頭に血が上るのを感じた。怒りが渦を巻いて脳天を突き抜け、こめかみの血管がどくどくと脈打つ。こんな気持ちは初めてだった。
「あいつら、殺してやる」
自分が思ったよりも低い声が出た。ハルトが慌てたようにシュイの腕を掴んだ。
「や、やめて。シュイが心配だから教えて欲しいって、僕が頼んだんだ。だから...」
「...ハルト」
部屋に着く頃にようやく頭が冷えた。シュイはソファに座ると所在なさげに立つハルトの手を引いて横に座らせた。
「心配させてすまない。夜には戻る予定だったが修理が長引いた」
「ずっと寝てないの?」
「二、三日寝なくてもどうという事はない。地球人はそうではないらしいな」
「凄いね...」
ハルトが続けて何か言おうするように口を開き、何も言わずに閉じる。
シュイは、もう自分以外の誰にも触れさせるなと言いそうになって、だが、一体自分はどういう立場でハルトを縛ろうとしているのかと言葉を飲み込んだ。
部屋に落ちた沈黙を破るように、ピコンと音が鳴りハルトのラバースーツの左腕に緑の文字が浮かび上がった。
「...水泳の実技のリマインダ?あ、明日中?」
ハルトが情けない顔をしてシュイを見る。
「一緒に行こう」
シュイはハルト下がった眉が可愛くて、つい笑って言った。
「走るのも付き合ってもらったのに、悪いよ」
「気にするな。運動不足の解消に丁度いい。明日の午前中にしよう」
水泳の実技の場所に指定されたのは密林のフロアだった。フロアに入った途端、むわっとした熱気に包まれる。名も知らない木々がびっしりと生い茂り、向こうが見渡せない。あちこちから猿とも鳥ともつかない甲高い鳴き声が聞こえてくる。
「こっちだ」
シュイに案内されてたどり着いたのは、木々の開けた場所にある沼だった。シダ植物が周りを囲み、どこまで続いているのか判然としない。
「こ、ここで泳ぐの?」
「心配しなくても足は付くぞ」
そういう事じゃないんだけどな、と思いながらハルトはシュイが統制局から取ってきてくれた水着を広げた。なんとビキニパンツである。腰骨あたりに防水の計測タイマーが付いていて数字を点滅させている。
「僕、着替えるね」
と言ってラバースーツのファスナーを下ろすと、シュイが慌てたようにこちらに背を向けた。
「下に着てきていないのか」
「そうすれば良かったね」
ハルトは手早くラバースーツを脱ぐとビキニパンツを履いた。
「着替えたよ」
シュイはチラリとこちらを見やった後、何か険しい顔をして横を向いてしまった。
「?シュイは着替えないの」
「俺は脱ぐだけだ」
シュイはそう言ってラバースーツを脱ぎだした。浅黒い肌の鍛え抜いた体が顕になる。スーツの上の様子から予想はしていたが、上腕も、胸も、腹も、足も、見事にバキバキだった。同じ水着を着ていてなぜこんなにも違うのか。自分と比較するのも馬鹿馬鹿しくなる程だった。
「筋肉すごいね。格好いい」
ハルトが思わず言うと、シュイは俯いて、そうか、と一言返すとさっさと水の中に入ってしまった。
ハルトも続いて恐る恐る水に足をつける。想像したよりも冷たい水が肌を包んだ。
「この沼はコの字型に続いているんだ。四往復すれば終わりだろう」
シュイとハルトは平泳ぎで進み始めた。水生生物や魚が居そうでビクビクしていたが、沼の底はつるりとして真っ平らだった。表面に緑色で複雑な模様が描いてある。
ハルトは安心すると伸び伸びと泳ぎ始めた。頭上には木々が大きな葉を広げている。葉の間から漏れる光が水面に反射している。先を行くシュイの銀髪もキラキラと輝いて綺麗だった。
「気持ち良い」
「ああ」
ようやく四往復を泳ぎ終えて、ハルトとシュイは岸辺に上がった。
「くしゅんっ」
ハルトはぶるりと震えてくしゃみをした。いつの間にか体が冷えている。
「ハルト、まさか風邪か」
「そうかも」
また一つくしゃみをして、ハルトは肩に掛けたタオルの首元を掻き合わせた。
その夜からハルトは熱を出して寝込んだ。
「俺たちは滅多に風邪を引かないからな。薬の用意が無いんだ」
「地球でも風邪の特効薬は無かったからね。同じだよ。寝ていれば治る」
ハルトはそう言うと、寒気のする体を自室のベットに横たえた。
ハルトは熱にうなされながら、地球での事をぼんやりと思い出した。
「晴人、すまない」
父親は自分の目を見ないまま、何度も謝罪の言葉を口にした。
母親はハルトが小学生の時に病死し、それ以降父親と二人でなんとかやってきた。
母親が亡くなってから父親はビジネスにのめり込み、毎日帰宅は遅く、ハルトは見様見真似で家事をこなしてきた。おもちゃもゲームも欲しいと言えば買ってもらえたが、そんなものよりも人の温もりが恋しかった。
父親のビジネスに翳りが出始めたのはハルトが大学生の時だった。
あっと言うまに膨れ上がっていく借金に、父親はハルトを売ることを決めた。
まさか現代日本で人身売買が成立するとは思わなかった。だが、これが現実だった。
「父さん、体に気をつけてね」
家を出ていく日、頬がこけてすっかり痩せてしまった父親にハルトは最後の声を掛けた。父親は俯いたまま、こちらを見なかった。
「林檎、切ってあるから食べなさい」
懐かしい母親の声が聞こえる。病気で入院する前の、ふっくらとした頬でハルトに向かって微笑んでいる。
「母さん、僕...」
「いらない?」
「…林檎、食べるよ」
母親が差し出す林檎に手を伸ばそうとして、ハルトは半覚醒の状態でこれは夢だと気が付いた。熱に浮かされながら何かを口走ったような気もする。ハルトはまた眠りに落ちて行った。
どれくらい眠っただろう。ベッドの中で目を覚ますと、もう寒気はしなかった。
部屋のスクリーンには夕方の空が映し出されている。
「ハルト、起きたのか?」
部屋のドアが開いてシュイが入ってきた。
「林檎があるんだ。食べないか?」
シュイの手の平には、小さな林檎が一つ乗せられている。
「林檎なんて、手に入るの?」
ハルトは驚いて言った。シュイは黙ったまま微笑んでハルトに林檎を手渡した。
林檎は日本のスーパーマーケットに売っている物より一回り小さいが、赤く艶やかで美味しそうだった。
シュイに目で促されて、ハルトは林檎に唇を寄せた。そっと歯を立てて一口齧ると、酸味と爽やかな甘みが口の中に広がった。
「美味しい」
「良かった」
「シュイも食べて」
以前、シュイが林檎を食べた事がないようなことを言っていたと思い出し、シュイに齧りかけの林檎を差し出す。
「ああ」
シュイは林檎を手に取って顔を少し傾けると、シャリと音を立てて齧った。
「これが林檎か。美味いな」
「シュイ、ありがとう。僕元気が出たよ」
ハルトの言葉にシュイは金の目を細めて微笑んだ。
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