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練習
しおりを挟む「腰が引けているぞ。もっと腹筋を引き締めて前傾姿勢を保って」
シュイから声が飛ぶ。
ジェットブーツで走行できるようになるべく、ハルトは部屋の前の廊下で練習をしているのだった。シュイに見てもらってやっと自転車くらいのスピードで走れるようになったが、高速だと恐怖心が勝って姿勢が崩れてしまう。
「だって怖くて」
ハルトが情けない声で言うと、シュイが傍に寄ってきてハルトの頭をポンポンと撫でた。完全に子供扱いだが、不思議と嫌な気はしない。
「そのうち慣れるさ」
「そうだといいけど」
ハルトは一時間ほど前傾姿勢をとって固まった体を一つ伸びをして解すと、廊下の隅に座り込んだ。シュイも隣に腰を下ろす。廊下の左右どちらを向いても突き当たりは霞んで見えない。白い壁と床が永遠に続いているんじゃないかという考えがハルトの頭に浮かんで消えた。
「なあ、地球には本物の林檎があるというのは本当か?」
シュイが前を向いたまま不意に口を開いた。シュイの視線の先にはただ白いだけの廊下の壁がある。
「うん、あるよ」
「食べたことがあるのか?」
「うん」
「そうか、羨ましいな」
シュイはそれきり言葉を途切れさせた。
ここではブロックとリキッドだけで事足りるから他の物を食べたことがないのか、とハルトがぼんやりと思っていると、シュイが立ち上がった。
シュイのラバースーツの左腕に緑色に光る文字が点滅しているが、内容までは見えない。
「少し出掛けてくる。部屋に入っていろ」
シュイはそう言うとジェットブーツを加速して廊下の彼方へ消えて行った。
部屋に入っていろと言われたが、今のジェットブーツの上達具合ではどこに行くのも時間が掛かって仕方がない。もう少しだけ、とハルトが引き続き練習をしていると不意に背後から声が掛かった。
「ハルト」
振り向くといきなりマントの上から腕を掴まれた。茶色い短髪にフラッシュピンクのメッシュ、百九十センチ近い鍛え上げた長身。ゾルドだった。
「寄越せよ。飢えてるんだ。分かるだろう?」
腹が減ったからチケットを寄越せと言われているんだろうか?だが本日分のチケットは既に引き換えてしまっていた。
「チケットなら、引き換えたからもうないよ」
「馬鹿にしているのか」
ゾルドが怒った様に言う。
「馬鹿になんて」
「まさか、まだシュイに飲ませていないのか」
「…何を」
ゾルドはそれには答えず、ハルトの腕を引き寄せると首筋に顔を近づけた。
「ああ、良い匂いだ。堪らないな。こんなのと同室で手を出さずにいるなんて、どうかしてる」
強く掴まれた腕が痛い。ゾルドが話す度に息が首筋に掛かって鳥肌が立った。
「や、やめてよ」
ハルトはなんとかゾルドの腕を振り払うと、ジェットブーツを出来る限り早く走らせ廊下を逃げた。しばらくして振り返ると、ゾルドはまだ廊下の真ん中に立ってこちらを向いていた。
エレベータの前まで来たものの、行く先も無くてハルトはエレベータホールの床に座り込んだ。白い床がヒヤリと冷たい。自分は一体何を要求されているのだろう。ここへ来てから分からない事が多すぎる。そして誰もそれを自分に教えてくれようとはしないのだった。ハルトは心細く、孤独な気持ちを誤魔化す様に自分の足を抱え込むと膝に顔を押し付けた。
どれくらい座り込んでいただろう。エレベータの到着音がして顔を上げると、扉が開いてシュイが出てくるところだった。
「ハルト?どうした」
シュイが金の目を見開いて驚いたような顔でハルトを見ている。
「シュイ」
心細さのあまりハルトはシュイの体にしがみ付いた。シュイの手がしばらく迷った末にハルトの背中に回る。
「何があった」
ハルトは緩く首を横に振った。
「どうせ、何も教えてくれないんでしょう」
「ハルト...」
「...部屋に帰ろう」
ハルトはそっと体を離すと、部屋に向かってジェットブーツで走り出した。
「待て、悪かった...もう少ししてから説明させてくれ」
ハルトの横に並んで走りながらシュイが言う。ハルトは微かに頷いた。
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