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第八走

105:何でも紬季の言うことを聞く

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 六月にあった関東インカレでは、さんざんな結果だったのだ。
 海だけが仕上がっていて、他の選手が結果を出せない。
 関東インカレの西城の結果を、赤星の指導力不足と書いている陸上競技雑誌もあった。海の弟がいる白山陸上部と違って選手層が一向に厚くならないと。
 三年更新で西城の陸上部と契約している赤星は、今年がトータル八年目。箱根駅伝ではそろそろいい結果を残しておきたいところだ。大学の方からもせっつかれていることだろう。
「それに僕、暇だし」
 少し話し始めると、海に飢えていることも強く実感する。
 真剣に陸上に打ち込んでいる選手と付き合っている相手は皆、こんな感じなのだろうか?
 相手のことが好きなのに、相手が強くなればなるほど、物理的にも精神的にも距離ができてしまう。
 たぶん、紬季が側にいようとする努力を止めてしまったら、この関係は続かない。
「------ス」
 海が目にタオルを当てたまま呟いた。
 海の吃音は難発という種類だ。
 最初言葉がなかなか出てこない。だから、紬季と声で話をするとき、最初の言葉を省略することも多い。
「------------し、た」
「しないし」
 紬季が撥ね付けるように言うと、海が起き上がって、紬季を押し倒してきた。汗と混じったミントの制汗剤の香りがする。
 キスしたい。
 海はそう言ったのだ。
「僕ら他人同士じゃないか。部活中は」
 海が顔を近づけてきたので、紬季は首を横に捻って唇を避けた。
「離れて。人、来るって」
 それでも、海は紬季の顎を掴んで無理やり唇を奪っていく。
「陸上雑誌の記者だって周りにいるかもしれないんだぞ。困るのは海くんなのに」
 すると、海が肩をすくめる。
 そして、またメモを破かずそのまま紬季の膝の上に乗せてくる。
『箱根駅伝が終わったら、めゃちゃめちゃ尽くす』
 そして、紬季に寄り添うようにして、さらに書き足してきた。
 ドキッとする。
 止めろよ、そういうこと、と思う。
 人目があるかもしれないところでこういうことをされると、まるで、付き合う前のちょっと触れ合うだけでもドキドキしていた新鮮さが戻ってきたような気分になる。
『何でも紬季の言うことを聞く』
『奴レイになる』
「隷って書けなかったんだね。僕も微妙なとこだけど」
『なあって』
「箱根駅伝終わったらっていつの?海くん、いま、三年生でしょ?四年生のことを言ってるんだったら、再来年の話だよ」
『再来年からずっと一緒』
 ずっとなんて言葉、麻薬と一緒だ。
「それまで我慢しろって?!本当、ふざけんなよ」
 突発的に叫んでしまって、紬季は頭を抱えたくなった。
 ああ、まただ。
 最近、感情がこうやっていつも爆発。
 コントロールが効かない。
 塞ぎ込んでいる部員と話をするときは聞き役に徹せられるのに、相手が海だと全然上手く行かない。
 考えているのってこういうこと?
 思っているのってこんな感じ?
 丁寧に相手の言葉を拾っていってまとまらない考えを整えてあげて、でも決して紬季の方から答えを断定することはなく。
 けれど、海を目の前にするとどうしても要求が出てしまう。
 こっちは、これだけ尽くして、これだけ我慢しているんだから、少しは応えてくれよ、と。
 でも、その『少し』が何であるのか、紬季本人でも分からない。
 たぶん、『少し』は『全部』。
 海の時間も興味も、海自身も全部欲しい。
 そして、慌てて思うのだ。
 こんなんじゃ駄目だ。海のように打ち込めるものを自分も探さないと。
 デスクワークで、自分のぺースでできて、一人前って言われるぐらいお金を稼いで。
 夜中に不安になってネットを漁れば、『一日十分の作業で月百万円。専業主婦の私でもできました』的な明らかな詐欺サイトに惹かれている。そして、翌朝我に返って、何にもできない自分に失望する。
「そっちはやりたいことばっかりやって、僕は我慢が当たり前で」
 紬季は顔を手で覆った。
「……頑張ってるの痛いほど分かるから、こんなこと言いたくない。自分が惨めになる」
 紬季は海の側から離れようとすると、海が立ち上がって紬季をすぐ側の茂みへと半ば無理やり連れて行った。
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