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第八走

104:字が汚くてごめん

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 初めて繋がれたとき、もう死んでもいいと思えるぐらい嬉しかったのに、今じゃ現状をごまかすために抱き合っている感じがする。
 まだ、セックスすることができるんだから、付き合っていけるみたいな。
 しばらくタオルを被って寝ていた海が、ポケットからメモを取り出して何か書き付けて紬季に渡してきた。海は練習中に、携帯を使って伝えるのは春ぐらいから止めているようだ。
 そこには、
『合宿に来てくれて、ありがとう』
と書かれてあった。あと、
『字が汚くてごめん』
とも。
 紬季が商店街からの寄付の野菜や果物を積み込んだ海の義兄が運転するトゥクトゥクで合宿にやってこられたのは、長野県にある山中湖から近くの芦ノ湖に急遽変更になったせいだ。
 あらゆる物価の高騰で毎年使用していた宿泊施設が倍以上の値段になってしまったのだ。
 同じところに泊まろうとすれば、アルバイトが禁止されている部員は差額を親に負担してもらうしかない。あるいは、OBや企業からの寄付金。しかし、そのどちらも厳しい状況だった。
 芦ノ湖の宿泊施設は、写真でしか見たことがない山中湖の宿泊施設から明らかに劣る。壁や屋根の塗装も剥げているような場所だ。
 観光に来た訳ではないのだから寝られればいい。
 そう思えるのはきっと年配だけで、四十代の赤星だって「ボロだな」という表情をしていた。
 紬季の仕事は、朝昼晩の飯炊き係だ。
 選手四十人分プラス関係者十名、計五十名の朝昼晩三食の準備を何名かのボランティアスタッフたちと手分けしてやる。
 OBだったり、大学関係者だったり。皆、初顔だった。この時期だけ手伝いに来る人たちらしい。
 平時のボランティアスタッフは、海が初め言った通り入れ替わりが激しく、わずか半年で常時来るのは紬季だけになってしまった。つまり、最古参だ。
 大量にある野菜の皮を剥いて刻むだけで手が痛くなってくる。ゆっくりとしか動き回れない分、工夫してやらないとこなせる量が他の人らと大きく差ができてしまう。
 時間が空けば、洗濯。
 干しても干してもキリがない。
 さらにその合間に、選手の体調ケア。
 マネージャーたちが選手が熱中症になっていないかこまめチェックするので、紬季は彼らの疲れた足をマッサージしたり、隣りに座って話を聞いたりする。
「ツムくん。マッサージお願いしあーす」
「聞いてくれよ、ツムツム」
 そんな風に頼られるのは嬉しい。
 だって、去年の今頃は海しか友達がおらず、出会い系の男に酷くされた後遺症で夜うなされたり、泣きだしたりしていた。
 それに比べたら、大きな進歩。
 大躍進だ。
 もう、皆にとって紬季がいるのは当たり前になっているようだ。
 それは、居場所が無かった紬季にはもの凄いことなのだけれども、当たり前は、慣れへと変わって、毎回差し入れているバナナに対して、またこれかみたいな顔をされるときもある。
 そういうときは、少ない稼ぎの中から出しているんだけれどなあと、ちょっとイラッとする。 
 毎回、ありがとうと言われたいわけじゃない。
 ボランティアスタッフは誰からも評価されないから、虚しさを埋める術が欲しいだけだ。
 選手はいい記録を残せれば、称賛が待っている。
 マネージャーだって、いいチーム作りをすることで就活に有利になる。いわゆる「ガクチカ」、学業以外に何に打ち込んだか胸を張って言えるってわけだ。
 でも、ボランティアスタッフは来たくて来ている。
 やりたくてボランティアスタッフをやっている。
 そう思われている。
 そうなんだけれど、そうじゃないんだ。
 そして、ボランティアスタッフの紬季自身が矛盾した感情を抱えている。
 だから、海の突然の『ありがとう』は紬季の心に刺さった。
「なんだよ、急に」
 紬季のご機嫌取りで計算してこういうことを言える人じゃない。
 たぶん素で言っている。
 それって、嬉しいけけど、困る。
 もう無理かな、付き合っていくのはと思うことがあっても、紬季の気持ちは彼が発するたった数行で塗り替えられてしまうからだ。
 紬季は、すぐに揺れ動いてしまう自分の心にも腹が立った。
 だから、自分からは話しかけずに黙っていた。
 そうしたら、また海からメモ。
『ごめん』
 再度の謝罪は、字の汚さについてではない。
 紬季は膝を抱えた。
「謝って欲しいわけじゃない。海くんが、いっぱいいっぱいなことはわかっている」 
 紬季が答えると、海がまた目の上にタオルを当てた。
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