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第八走

102:先生。鈴木くん、不調なの?

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「ったく、まーた、吐いてやがる」
 部員を回収するミニバン、通称回収車を運転していた赤星がぼやいた。 
 夏になった。
 夏の日差しで、左手に見える湖が鏡のように反射している。
 現在西城陸上部は、二週間の予定で夏合宿中だ。名物、地獄のトレイルマラソン中。持久力を付けるため走れるだけ走るという、わざと目標無しで走る練習だ。
 力尽きれば、道端で休む。どうしても無理なら、赤星や他のコーチが乗っている回収車に乗せられる。
「吐かねえような練習メニューにしてんだけどなあ。ここ数年の合宿で一年が吐かずに全ての練習に付いてこれたのは、何だかんだ言って海だけだな」
 それだけ、海が飛び抜けているということなのだろう。
 湖の脇のロードでへたり込んでいるのは、やっぱり一年生だ。
 高校の強豪校出身。でも、大学陸上部の練習はきつさが段違いらしく、ついていくのが大変そうだ。
 西城のグラウンドでの練習時に、よく紬季に弱音を吐きに来る。
 紬季は後部座席で揺られながら、赤星の声を聞いていた。
 回収車の中はクーラーが効いていても、しょっちゅう開け閉めするのでじんわりと熱い。
 思えば、今年は春から異常気象でずっと暑かった。
 その最中、紬季も海も二十一歳になった。
 完璧な大人とは言えないが、もう子供だとは言えない年齢だ。
 でも、怒られるときは未だに怒られる。
 例えば、春先に一時帰国した父親。
 出会い系でやらかしたこと。
 産みの母親に言われるままお金を渡してしまったこと。
 それを打ち明けたら、今までにないぐらい怒られた。
 温厚なお父さんもここまで怒るんだなあっと、あっけにとられたぐらい。
 その後、正式に養子にならないかという話になって、紬季はそれを正式に断った。
 マンションを出ていくことを覚悟した上での拒絶だった。
 だって父親の今後の幸せを邪魔したくない。
 けれど、父親は「養子の話は日本に正式帰国になる数年後に」と言って、紬季を驚かせた。
 大人の世界では、ノーと言ったらそこで終わり、ではないらしい。
 それでもまあ、リスト三の お父さんと今後のことについて話すはやり遂げたと言っていいのかもしれない。伝えたかったこと、隠していたことは全て打ちあけることができた。
「人が住まないと痛む」と言われ、マンションに引き続き住んでいいことになったし、あとは、リスト八の車の免許を取ると、海にはシークレットにしている十のみ。
「向こうには鈴木もいますね」
 マネージャーの一人の声に、紬季は我に返る。
 フロントガラスの方向を見ると、遠くで鈴木が肩で息をしながら腰に手を当て顎を空に突き上げている。まただ。合宿にきてから特に鈴木は練習についていけていない。
 同乗していたマネージャーの一人が降りていった。
「先生。鈴木くん、不調なの?」
 紬季は赤星に聞いた。
「かもな」
と赤星は中途半端に言葉を濁す。
 鈴木は昨年から、体型が変わった。
 遅れてきた成長期というやつで、身体が一回り大きくなり、膝痛に悩まされている。タイムはガタ落ちで合宿メニューをこなすだけでもしんどそうだ。
 左手に湖を見ながらしばらく車に揺られる。
 今度は赤星は、
「あっれ??珍しいな。海が倒れている」
 紬季は窓から首を出した。
 本当だ。
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