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第七走

96:今日も、そっちの人らはラーメン屋?さっき、でっかい声で拉麺って言っていた

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 普段ならここから室内練習になるのだが、合同練習中は十六時に外練が終われば自由時間だ。それだけがありがたい。神経が擦り切れそうだ。紬季とどこかで合流して食べて帰ろうという話になっていることだけが今日の楽しみだ。
 帰り支度をしていると、 
「海さん」
と若渓が声をかけてきた。側にはイスンがいる。
『今日も、そっちの人らはラーメン屋?さっき、でっかい声で拉麺って言っていた』
 ついつい関係ない若渓に皮肉を言いたくなる。
「すみません」
『別に、怒ったわけじゃないけれど』
「ルーシーちゃん、どした?」
 鈴木が宮崎と連れ立って寄ってきた。彼らは、中国側との伝達役をやってくれるので若渓と話す事が多い。
「イスンが、スポーツ用品店に行きたいと言っています。西城の選手が使っているシューズなどを買って帰りたいそうです」
 宮崎が首を傾げた。
「わざわざ日本のを?中国にも店はあるでしょ?」
「はい。あります。しかし、走るために研究された商品は少ないです。ほとんどがおしゃれ用」
「へえ。そうなのか。たしかに中国人の長距離ランナーってぱっと名前が上がらないよな」
「中国ではマラソンはプロ競技です。一般市民にようやく人気が出始めました。五年ほど前まで大会は二百しかりませんでしたが、今は二千あります」
 鈴木が言う。
「へえ。そりゃすごい。でも、中国の国土の広さと人口に比べたら、少ないぐらいか」
「はい。まさに、これからです。ちなみに日本のマラソン大会はネットで確認できるだけで二千五百です」
 海はよく知っているなあと意味をこめて拍手する。
「スポーツマーケティングで学びました。中国ではブームになれば、店から品物が全部消えるぐらいのことが起こります。仕掛けを作るためにイスンも私もスポーツマーケティングを学んでいます」
 へえと、海は鈴木らと顔を見合わせた。
 走ってばかりでは、きっと知り得なかった情報だ。
 まんまと赤星の狙い通りになった気がして少し悔しいなと思いながら携帯を打って若渓に見せた。
「駅の側に海さんがよく行くスポーツ用品店が?イスン向きのを選んでくれるんですか?イスン!イスン!」
 若渓が人が変わったように早口で通訳する。
「なら、みんなで行くか」という話になっていると、給水ジャクなどの片付けが終わった紬季もこちらにやってきた。紬季ももちろんついて行くと言う。
「じゃあさ、帰りにみんなでラーメン食べよう。野菜マシマシのやつならアスリートだっていいでしょ?今夜一食ぐらい」
 山盛りの野菜が名物なラーメン屋の名を紬季が上げる。そして、手で三角形を作りながら、イスンと若渓に訴えた。
 イスンが答え、若渓が通訳する。
「イスンは日本のラーメン屋にはあまり興味は無いそうですが、皆さんと一緒なら行きたいそうです。ちなみにとんこつが好きだそうです」
「そこそこ好きやないかあーい!」
と紬季が突っ込んで皆笑う。
 彼らと過ごした時間は、海にとってなんとなく不思議なものだった。
 鈴木らはライバルだし、紬季は選手ではない。
 だがイスンは、陸上選手だが、長距離選手としては走れない身体つきの選手だ。
 走らない選手ではない。
 今からどんなに走りこんだって、身体がすでにしっかり出来上がっているので、早い長距離ランナーにはおそらくなれない。
 でも、走りたいのだ、彼は。
 二十人いて、熱意があるのは一人。
 それは少ない人数なのかもしれない。が、一人にはちゃんと海の思いが響いた。それが立派な結果だ。
 ヘラヘラ笑う赤星の顔が浮かんで、その夜、海はちょっと地団駄を踏みたい気分になった。
 やがて、合同練習最終日。
 相模湾ハーフマラソンの日は晴天だった。
 なんだかんだで練習をサボっていた中国側の選手はこの日は全員参加。
 ストレッチやトラック練習は「つまらない」と分かりやすく顔に出すので、今日は彼らがワクワクしているのが手にとるように伝わってくる。
『たしかこいつら、ロード練習のときもこんな顔をしていたな』
と思っていると、怪我や不調で今日は大会に参加しない西城の選手と紬季が合流したとメッセージで知る。
 相模湾ハーフマラソンは、そこまで大きな大会ではないので、人手は有名大会と比べものにはならないほど小規模だ。
 だが、応援にやってきた紬季が誰かと一緒にいてくれるのは海としては安心だ。駅のホームで突き飛ばされて足が折れたときに残った怪我は、見るたびに痛々しい。ヘルプマークを付けていたって安全ではないのが、当事者ではない海でも怖い。
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