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第六走

83:今更ながら、恥ずかしくなってきた

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 カメラマンらの最後の撮影が終わり、「よーい」と審判が声を発し、ほとんど溜めることなく、スタートのピストルが鳴り響く。
 二十名の青年が一斉に駆け出した。
「海くんっ!」
 紬季は一人の部屋で絶叫した。
 一区は、二十一・三キロのほとんどを集団走で行くことが多く、ラスト三キロの東京と神奈川の堺になる多摩川が流れる六郷橋出口からが勝負になりやすい。
 逆に、その前に集団走から脱落してしまうと巻き返しが難しく、それが二区、三区とボディブローのように効いてくる。だから、一区は地味なくせに怖い区でもある。
 通過地点は三十箇所ある。
 最初の大手町読売新聞本社前から始まり、スタートから約六分後には、選手のほとんどは二キロ先の内幸町交差点にいる。二十一分後には、もう品川駅付近だ。
「順調!」
 海は集団の中で遅れること無くかといって出過ぎることなく、走っている。
 順位的には七、八位ぐらいだ。
 アナウンサーは、去年区間賞を獲った海に注目しているようだ。
 十キロを過ぎ、中間地点である東日本銀行までやってきた。
 そこまで行くと、選手の列もだいぶ長くなっている。
 どの通過地点でもトップ選手のタイムが平均よりかなり早い。
 予選会を突破してきた初出場校の選手だ。海と同じ二年生。
 ほとんど注目されてこなかった学校とその選手なだけに、平均タイムをまるで無視した走りが逆に不気味だ。
 後半は、ラスト三キロで追い上げを狙う集団と、そのまま逃げ切ろうとするトップ選手の争いになってきた。
 中継者乗ったアナウンサーはもう十区を走る選手を解説するような興奮ぶりだ。
「地味だ地味だと言われる一区でええっ!?」
 紬季の家のテレビの前で絶叫する。
 さすが、箱根駅伝。
 毎年、毎年、何が起こるかわからない。
 十二キロを過ぎた。トップ選手が大森海岸駅前歩道橋下を通過する。
 ここら辺ではっきりと集団は二手に分かれ、差がついてきた。 
 トップ選手はスタミナ切れでそろそろ自滅する頃だと紬季は思っていたのだが、ますますスピードが上がっている。
 蒲田踏切が十五・二キロ地点。
 十六キロ地点の、中馬動物病院前。そして、残り五キロとなった味マコト弁当前までやってきたとき、縦長になってた選手の列から海が抜け出した。
 颯爽としている。
 余裕すら感じられた。
 どんなに苦しい練習も顔には出さないで走るので、今の海がどういう状況なのかは分からない。だが、一番前を走るのは俺だ、あいつにはもう前を走らせないと決めたようだ。
 まだスパート前の選手をどんどん追い越し、海は集団の単独トップへ。
 そして、さらに加速してトップ選手へと迫っていく。
 残り三キロの六郷橋出口を通過。
 そして、他の選手らも続々とペースを上げ始めた。
 だが、海とトップ選手ははるかその先。
 もう一騎打ちになってきた。
 宮前町歩道橋を通過、南町交番前を通過、そして、大手ガソリンスタンド前の街灯をすぎれば、もう残り一キロだ。
 海がさらにスパートをかけた。
 追い抜きはあっけなった。
 競り合いはなく、すっと海が抜き去っていく。
 再度の追い抜きがあるのではないかと紬季は気をもんだが、十キロすぎから逃げ切り作戦を決行していたトップ選手はもう海に付いて行く体力はないようだ。
 残り五キロの時点で勝負をかけた海の圧倒的勝利だ。
 一区のゴールに向かってひたすら駆ける海を見ていた紬季は、身体に鳥肌が立っていた。
 一区の一位通過は当然、区間賞だ。
 海は、区間賞を取るために走っている。
 それは、紬季が欲しいからだ。
「今更ながら、恥ずかしくなってきた」
 紬季は鼻血が出そうなツンとした感じがして、鼻を押さえた。
 今、日本全国、駅伝ファンもそうでない人も、この中継を見ている。
 でも、誰も、烏堂海という選手が、藤沢紬季と寝るために区間賞を目指して走っているなんて知らない。
「ヤバい。ヤバい。ヤバいって……」
 紬季の全身が熱くなる。
 海が襷を外す準備を始めた。
 一区の区間新は、一時間四十秒。
 それには間に合わない。
 結局、一時間一分五秒という歴代二位のタイムで二区の選手に襷を渡した。
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