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第五走

68:……来な……かった

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 海は返信すらしなかった。
 そして、翌日。
 紬季が母親と再会する日がやってきた。
 何時に彼らが会うのか、海は知らない。
 だから、午前中に大学で授業を受けていても、午後から陸上部の練習に励んでいても落ち着かなかった。いい結果になりはしないだろうと、紬季が最初から
 やがて夕方を過ぎ、日が暮れてきた。
 海にはまだ何の連絡もない。
 一人で行きます宣言して以降、紬季からの連絡は途絶えているのだ。
 海が返信しなかったことに怒っているのかもしれないが。
 ちゃんと出会えたのか、それとも直前でキャンセルになったのか。
 出会えたとしたら、それはいい雰囲気で終われたのか。それとも会わなかった方がよかったと後悔する結果になったのか。
 さすがに気になって
『いま、どこいる?』
とメッセージを送ったが既読にもならない。
 さすがにこんな日の既読無視は止めろ、と海は思った。
 試合の直前は、自由時間はイメトレに努めたい。
 紬季と会って、イメトレもしてという器用なことが海にはできない。
 直線に迫ってきている試合の方が今は大事だと分かっているのに、海は練習終わりに紬季の住むタワーマンションまで向かっていた。
『部屋に入るぞ』とメッセージを送っても、やはり既読にはならない。
 預かっているカードキーで二箇所あるオートロックを解除し、部屋へと入っていく。
 また、精液の匂いがした。
 一体、今日、何度自慰行為に及んだのだと真顔で聞きたくなるほど濃い匂いがする。
 捨てられた母親に会いに行くっていうのに、なんで直前までこんなことと思いながら海は空気清浄機にスイッチを入れる。
 風呂場やトイレなどを見て回ったが紬季の姿は無かった。
 寝室にもノックをして確かめた。やはり返事はない。
 部屋にいないようだ。
 海はタワーマンションの下層階へと降りていく。
 喧嘩する前、レストランはどこがいいか以前相談を受けて、一緒に探したのだ。
 話が弾んだら住んでいる場所も見せたいし、だったら、駅ビルのレストランがいいかなと紬季が言ったので、いいんじゃないかと答えた記憶がある。
 レストランは商業施設階のうち三フロアを独占していて、上階ほど高級感がある店が並ぶ。
 海はそこを順番に見て回った。
 回廊型の店々を半分ほど見て回ると、店の前にある椅子に頭を抱えて座っている青年を見つけた。
 黒いジャケットにズボン、それに磨いた革靴。
 紬季だ。
 彼の前に立つと、靴音で気づいたのか紬季が顔を上げた。
 少し髪が短くなっていた。苦手だと言っていた美容院にも言ったようだ。昨日、もしくは当日。
 目は真っ赤になっている。
 海は深くは聞かず、紬季の前にしゃがみ込んで『帰ろう』と出会った日みたいにメモ欄に文字を打つ。
 それを見て口元を押さえた紬季が、眉根を寄せた。
 泣き声を押さえたかったようだ。
 目から涙がぼたぼた溢れ、手の甲をつたっていった。
「……来な……かった」
『うん』と海は頷く。
「行きますって言ったのに、来なかった」
 土壇場のキャンセルどころか、嘘を突かれたらしい。
 紬季の背中に手を回し、なんとか立ち上がらせる。
 店のガラス窓の方から視線を感じてふっとそちらを見ると、蝶ネクタイ姿の男性が軽く頭を下げながらこちらを見ていた。
 きっと紬季は最初は店に入り、でも時間通りに母親が来なくてしばらく待ってキャンセルして店を出て、それでも母親が来るかもと店先で待っていたようだ。座っていたベンチに触れたら、かなり温まっているに違いない。
 鼻をすすりながら歩く紬季の手を引いて、海はエレベーターに乗り、部屋に戻る。
 空気清浄機のお陰で、部屋にあの匂いはしない。
「着替えてくる」
 廊下を歩きながら紬季が鬱陶しそうにジャケットを脱ごうとして苦労していたので、海が手伝おうとすると、「ほっといてよ」と強い口調で断られた。
 部屋に向かった紬季は今度はなかなか出てこない。
 時間はもう二十一時近い。
 あと一時間半後には門限だ。
 部屋で電話がじゃんじゃん鳴っている音がするが、紬季が出る気配もない。
 母親が、行けなくてごめんなさいと今更電話をかけてきたのだろうか。
 海は扉の前に立ってノックする。
『平気か?』
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