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第五走

65:これじゃあ、お母さんと初デートみたいだね。僕、気持ちが悪い

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 腰に手を当てると、「お尻、触んな!」と紬季が軽く怒り出す。
「誰かに見られたらどうすんのさ」
『別にいいだろ』と海は肩をすくめてみせる。
「よくない。海くんが、面白おかしく書き立てられるの嫌だ」
 紬季がギャンギャン喚くので、海は、
『誰も来ないって。こんな高い服しか置いていないフロアなんか』
とメッセージを送る。
 もうワンフロア下はもっとカジュアルで価格帯もそこそこだが、このフロアは横文字の店名ばかり。
 大学生にはうっとなる価格の商品ばかりだ。
 その分、手触りはいいし、デザインもシンプルながら洒落ている。
 高給取りの若者が利用するお兄さん系ブランドを集めたフロアといったところか。
「お母さんと会う件さあ」
 紬季が、なんだか気乗りしない様子で、もう冬服を着込んでいるマネキンの店へと入っていく。
「向こうがね、こっちに来てくれるって。さっき突然、メールで連絡が来た」
 再会は紬季から望んだことなのに、彼は浮かない顔をしている。
『あんまり、嬉しそうじゃねえな』
「緊張しちゃって。上手く話せるかなあって。そもそも何、話そうね?」
『西城でボランティアスタッフしている話とか?フィールドレコーディングしている話とか?』
「ああ。そうか」
『でも、わざわざ会うんだから、話したいことはもともと別にあるんじゃないのか?』
「どうして里子に出したのって?そんなの話さなくなって分かりきったことじゃないか。その当時のお母さんはコンキューしてて、僕がビョーキだったからだよ、ビョーキ」
 紬季が黒いジャケットを手に取ったので、海はそれを羽織るのを手伝う。
 そしたら、急に「ごめん」と謝られた。
 今日の紬季はかなり浮き沈みが激しい。
『四歳の時に別れたんだろ。んで、十六年ぶりに会う。そりゃあ、心が乱れて当然』
 押し黙ってしまった紬季にシュッとした身なりの店員が寄ってきて、白いボタンシャツや透けるぐらい薄手の長袖ニットを勧めてくる。
 結局、ズボンまで一式買って、買い物が終わった。
 レジで盗み見た金額は、なかなかの額だった。
 店員に見送られ、店を後にする。
 買った商品を全て一つのショッピングバックに詰めてもらったので、紬季が歩くのには大きなそれは邪魔そうだ。
 手を差し出すと、「いいよ」と紬季が機嫌を悪くする。
 現在、絶賛ネガティブ発動中なので、きっと「僕がビョーキで歩くのがうんたら」と思っているのだ。
『当方、彼氏なので』
 だから、荷物を持つんだとメッセージを送ると、今度は悔しそうにはにかんで海にショッピングバックを突きつけてくる。
 ようやく自分らは付き合い始めたんだと思えて、海は嬉しくなった。
 二人して歩き出す。
「美容院予約したほうがいいかな?苦手なんだよなあ。シャンプー・カットって。セットチェアに座ったり降りたりしなきゃいけないでしょ?僕、そういうのも時間がかかるから美容師さんを待たせたらいけないと思って焦っちゃって。ああ、そうだレストランの予約もいるな」
 紬季がTO DOリストみたいに、指を折っていく。まるで、やりたいことリストではなく、やらなければならないリストのようだ。
『駅ビルに入っているとこ使うのか?出費が続くな』
 住人専用のエレベーターに乗り込む。
「これじゃあ、お母さんと初デートみたいだね。僕、気持ちが悪い」
 紬季が先程の機嫌の悪さから一転して今度はヘラヘラ笑い出すが、海には全然うれしそうには見えない。
 会いたくない人に無理やり会おうとしているような、傷つくと分かっていても会わないと気が済まないと思っているような、そんな風に見えてしまう。
 だから、紬季の肩を軽く叩いた。
「せっかく海くんと付き合えているんだから、もっとそっちに時間もお金も使えって感じだよね。でも、これが終わるまで……あと、ちょっと待ってね。僕にとっては、海くんと今後関係を続けていくための課題みたいなもので。だから、その、ちゃんと考えているから。あはは、海くんが試しに寝てみたいだけって思っているんだったら、重いよね、こんなの」
 出会い系で会った奴らと当日パッとやれたんだから、俺にもさせろと思ってしまったのは事実。
 でも、紬季はそいつらと自分を別物と考えているようだ。
 だったら、こちらも尊重しなければ。
 高層階にある紬季の部屋へ。
 紬季は買った服を自分の部屋に置きにいき、海は先にソファーに座る。
 その時、おやと思った。
 かすかに精液の匂いがする。
 自分の匂い匂いにだって敏感なところがある海だから、他人の匂いにはさらに鼻が反応しやすい。
『出かける直前に、リビングでしたのか?』
 しかも、自分が今日部屋に寄ることが紬季には分かっていたはず。
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