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第四走

40:汗の匂いしかしないって

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 そして、その手は紬季の目の下のあたりをふわっと撫でる。
 大きく唇が動いた。
「え?何て?ひ?日焼け?」
 すると、海が満足そうに頷く。
 そういえば、ヒリヒリする。肌が白いほうなので、焼けると赤くなる。きっと、ロブスターみたいな真っ赤な肌なんだろうなと思うと、ずっとインドアで過ごしてきたメンタル虚弱な自分がちょっと恥ずかしい。
 海が、一歩踏み込んでくる。
 やばい。いつものアレをやられる。
 すうっと一呼吸を通り越して、スンスンスンスン。
 まるで犬みたいに海は紬季のうなじの匂いを最近、嗅ぎまくる。
「まだ、ボディクリーム塗ってないって。わかるでしょ。汗の匂いしかしないって」
 それでも、海は側に寄ってくるので、紬季は慎重に後ずさる。
 背後は壁で、もう行き場が無くなって、紬季は身体を縮める。
 海がうなじに鼻先を沈めてきて、勢いよく『スンッ』と嗅いで、紬季の身体はビクッとして、変な空気が流れ始める寸前に海が側から離れた。
 脇のあたりから、タラッと汗が落ちるのを感じながら、紬季はうなじを押さえる。
 海が玄関扉の方を指した。
 走りに出て、そのままヘブンのバイトに行くと伝えたいようだ。
「もう!一生、走っていろ」
と紬季が半ば怒ると、玄関手前から駆け戻ってきて、今度は自分のうなじの辺を突いた。
『同じことをしていいぜ』ってことなんだろうが、これ、絶対に挑発だ。
 恥ずかしがり屋の紬季に出来るわけないだろってタカをくくっている。
 紬季は少しムカッときて、以前、海がやったみたいに手の平を上に向け人差し指をクイクイと動かす。
『お、意外な展開』という表情の海の肩に手を乘せ、ランニング用のメッシュのTシャツの首元を指で掬ってゆっくりと引っ張る。そして、日に焼けた素肌を露出させると、耳の後ろの下あたりを軽く噛んでやった。
 海の顎が上がる。
「---ッ」
 膝もカクっと抜けかけて、慌てて態勢を立て直している。
 紬季は満足した。
 照れ混じりのむっとした顔で抱きしめてこようとする海を、両手を胸の上について阻む。
「僕、お風呂」
 すると、ふいっと踵を返して海はそのまま玄関を出て行ってしまった。
 怒っているくせに、大きな音で扉が閉まるのが以前苦手だった紬季を労って静かに閉めるところが、
「ふふ。いかにも海くんらしいというか」
 紬季は呟きながら風呂場に向かう。
 シャワーを浴び終えてから、携帯を確認してみたがメッセージは届いていなかった。
 いつもなら、紬季をからかうようなことをしたときは、怒涛の謝罪をして、紬季が許す、許さないを言う前にテレビやネットの話題などを出して煙に巻くのが海の戦法なのだが、やり返されたのに頭にきたのか、今日は沈黙している。
 汗が引くのを待って、海は寝室へと引き上げた。
 海の夜勤が明けたら、その後、ランニングなどをして昼の十一時頃に戻ってくる。
 当然、紬季が海を待ちながら和室で過ごして欲しいと思っているはず。
 そこで、本や雑誌を読みながらゴロゴロしていると、シャワーを浴びた海が滑り込んでくるのだ。
 でも、その手には乗ってやらない。
 紬季は、ベットと本棚だけの部屋に入ると鍵をかけた。
 海のうなじを仕返しで噛んでからずっと身体が落ち着かなかった。
 大自然の中で素っ裸になったみたいな、ナチュラルな性欲を感じる。
 こんな感覚、これまで感じたことがない。
 空気清浄機を最大にしてから、ベットへと上がる。
 布団をかぶって、ジャージの下を下ろす。
 約四十日ほど前、出会い系で救急搬送されるほどひどい目にあって不能になってしまったかと思ったのに、性器はちゃんと固くなっていた。
 熱いそれを握って、身体を丸めて上下する。
 無の境地になって早く終わらせたいのに、耳に残るのは、先程の海の「---ッ」という押さえた声。目に浮かぶのは、ちょっと抜けかけた膝、以前、紬季を誘うように見せた脇だったりする。
 でも、走る姿は想像しない。
「もっと、早く出来たらいいのに」
 ゆっくりしか動けないから、自慰だって緩いスピードだ。
 ようやく到達点がやってきて、ビクッと身体が震えて白濁とした液が掴んでいた手を汚した。
 いつもの何かに追い立てられるような質の悪い自慰と違って、全身の力が抜けるような満たされた気分になった。それは、行為を覚えて以来、初めてのことだった。

 居心地が悪い思いをしながらも、紬季は週二回のぺースで陸上部のグランドに通い続けた。
 海の方は『今週も行くんだ?ふうん?行くんだ?』とまあこんな感じで、自分がボランティアスタッフを紹介したくせに、それをちょっとだけ後悔しているようだ。
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