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第三走

34:先生。海くんは、今でもちゃんと練習してます。

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 海は居心地が悪くなってきたようだ。
『ドリンク取ってくる。紬季は?』
と打った後、すっと立ち上がる。
「じゃあ、ウーロン茶」
「俺、コーヒー。ホットな」
 ドリンクバーのサーバーのある場所に向かう海の背中を見つめながら赤星が、
「まあ、なんとかやっているみたいじゃないか」
と安心したように言った。
 そして、こちらを見る。
「で、紬季」
 やっぱりこの展開と思って紬季は笑う。
「名前を呼んだだけなのに、何がそんなに面白い?」
 不思議そうな顔する赤星に、紬季は説明した。
「海くんも僕を呼び捨てにするの、ものすごく早かったんです。赤星先生もたぶんそうだろうなって思ってたんですけど予想以上に早くて」
「海とはどういう繋がりなんだ?あの海が、練習を手伝ってくれる実戦向きの後援会メンバーを見つけたって月次報告があって驚いたんだが」
「つい最近仲良くなったばかりです。でも、中学の時から、走る姿は見ていて」
「遊んだりする仲なのか?」
「別に、どこに行くとかそういうのは無くて。僕の家でダラダラが多いかな。最近は、河川敷のグランドでタイム計ったり、マッサージ手伝ったり。最近は、そんな感じです」
 すると、赤星がポカンと口を開けた。
「あの、何か?素人がそこまでやっては駄目でしたか?」
「そういうわけじゃない。あいつは常に張り詰めているタイプで、部が休みの日でも一人で自主練するような奴だ。余暇ってものを知らない。だから、今回、その張り詰めた糸がプツッとなったわけだが」
 そこまで言った赤星が、肩をすくめる。
「でも、糸が切れたって補修すりゃあいいってことを覚えつつあるようだ。それは紬季のお陰かもしれない。ありがとうな」
 紬季は、心の中で、ひゃっと叫ぶ。
 怒鳴り散らして恐怖を植え付け徹底的に管理する旧式の指導者と違って、赤星は選手を上手に持ち上げしつけの行き届いた飼い犬みたいにしてしまうという変な定評がある。
 まさに、このことだろう。
 どんなに牙を剥いたって、二十も年下の若者たちならコロッとほだされてしまう。
「先生は海くんとは付き合いは長いんですか?」
 大学の監督は、高校時代から選手を知っている者も多いと聞く。
「あいつが十三歳の頃からだな。中学の陸上部の監督に反発して腐っているのを見て、大学で存分に走らせてやるからってまあ、頑張れって声をかけた。海は、陸上部の無い高校に入ったから、だったら、西城大学の陸上部のグラウンドに顔を出せって。指導はそこからだから、もう六年目だな」
「もしかして、海くんはその頃から大学生と走っていたんですか?」
「そうだよ。高校でも陸上部を作ってそこでウォーミングアップの練習をして、さらに夕方から大学生と一緒になって練習して。並の高校生の倍、いや、一・五倍は練習しただろうな。高校時代に変な監督に教わらなかったせいで、故障が少ないのは俺のおかげ」
 赤星はかなり故障にうるさい監督だとは聞いている。
 エースだって身体に不調があれば、あっさり下がらせる。
 選手を酷使させないという信念を持って監督業をやっているらしい。
 紬季はドリンクバーのサーバー前に海がまだいるのを確認して、赤星に小声で言った。
「先生。海くんは、今でもちゃんと練習してます。この前、五千メートルのタイムを僕が計ったんですけれど、十三分四十九秒二三でした。陸上部の上位集団並のいいタイムでしょう?」
「ほお」
 赤星はすっかり氷が薄くなったグラスを口に運ぶ。
「だから、僕、海くんが走らなくなった理由がさっぱり分かんないんです。上手に聞いたらヒントぐらいは教えてくれそうな気がするけれどそれも卑怯な気がして。でも、今、一番伸び盛りな時期でしょ?僕なんかと一緒に遊んでいていいわけないって、何か、僕が焦っちゃって」
「お前はさっき、ゆっくりしか動けない身体だって言ったろ?逆に、海は、そうだな、日本で長距離陸上をやっている大学生の十本の指に入る実力があるはずだ。そいつが立ち止まって、自分のペースじゃなく、相手のペースで物を見始めたんだから、タイムを一秒縮めるより、価値があるってことだと俺は思うんだけどな。大学陸上の四年間は、八十年の人生でいったらほんの一瞬だ」
「そんなことないです」
 紬季は必死に首を振る。
 海が『陸上を辞める』と伝えたら、「そうか、分かった」と赤星が引き止めもせず了承しそうで、そんな二人の関係性が怖かったのだ。
 海は真剣に考えて、赤星も真剣に受け止めてのあっさりさなのだろうが。
 でも、部外者の紬季は食い下がる。
「だとしたら、人生の二十分の一の時間です」
 すると、赤星が腕組みをする。
「紬季。お前、去年の箱根駅伝見たか?うちは十位だった。十一位の選手と競って競って最後に勝った」
 そのシーンは覚えている。
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