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第三走

27:陸上って口で走ると思ってんのかよ?足だよ、足

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「吃音を脅しの道具に使うのか。危険だからこちらは止めているのに」
と面と向かって言われたことがあるらしい。
 それに、対する海の答えは、
『陸上って口で走ると思ってんのかよ?足だよ、足』
 傑作だ。
 出会った当初は、陸上の話はあまりすることが無かったが、紬季が外に出られるようになってからちょっとずつ増えてきた。
 海は海で前向きな気分になっているのかもしれない。
 じゃなきゃ、正確なタイムを計ってなんて言うはずがない。
 絶対、陸上部復帰のカードは捨てていないはずなのだ。
 競技人生が終わるなら、紬季に恩を返して終えたいと海は以前言ったが、選手生活を終えようとしている人が、ヘブンの清掃バイトがあろうが無かろうが朝晩サボることなく走っているのだから。
「海くんが、箱根駅伝で走るところを見たいなあ」
 海を見送りながら、紬季は呟く。
 それは、今みたいなベッタリな生活を手放すということだ。
 つまり、紬季はまた一人の生活に戻る。
「今が夢のような生活。そして、その夢はいつか覚める。分かっている。分かっているんだけど……」 
 海がトラックを周り、また紬季のいる地点へとやってきた。
 五千メートル最終周は六百メートルを走る。
 だから、ゴールが紬季が立つところと真反対だ。
 まだストップウォッチは押さない。
 海がラスト二百メートルを走り終え、
「一分五一秒八八」
「十三分四十九秒二三」
 紬季は、二個目のストップウォッチも押し、こちらに寄ってきた海に総タイムを伝える。
 浮かない表情だ。
 箱根駅伝を走る選手は、五千メートルのタイムは平均十四分台だ。それでも早いぐらいなのだが、さらに上をいく海はまったく自分の走りに納得してないようだ。
 西城大学の陸上部は夏合宿も終わり、合宿前よりもいいタイムが出るようになってきた選手もチラホラいるはず。
 多分、少し焦っているのだ。  
 夏が終わると、大学主催の記録会や競技会などの他、やはり大きな大会は出雲全日本大学駅伝だ。ここでいい走りができれば、次の大きな大会である秩父宮杯の出場が濃厚になり、その次は、大本番の箱根駅伝だ。
 今の時点で陸上部に戻っても、部を離れていたハンデがあるので出雲全日本大学駅伝まで身体が作れるかは微妙なところ。いや、ギリギリ間に合うぐらいなら、選手の怪我にうるさい赤星は海の出場を鼻から考えないだろうか。
 それだと、箱根駅伝を目指す他のメンバーからは大きな出遅れを取ってしまうと思う。
 紬季は、海のことを考えると自分のことのように落ち着かなくなる。
 何らかの理由で立ち止まっているのだから、強引に背中を押すのは迷惑でしかない。
 親切という板を突き破ったお節介は、こういう身体だから何度と無くされてきたので、本当に余計なお世話というのは、身体的痛みを伴わない暴力に近い。
 身内だったらそれも違うのかもしれない。
 海には姉の他、双子の弟がいる。
 名前は空。昨年、往路復路の総合優勝を果たした白山学院大学の陸上部員で、一年生ながらその立役者だ。
 一卵性の双子だが、海よりもタレ目。見分けるのは容易だ。
 そして、何よりの違いは空には吃音症状がないこと。
 吃音は遺伝子上の問題と言われてはいるが、同じ遺伝子を持っていても、重度の吃音と症状無しに別れ、まだまだ謎の部分が多いと言われている。紬季は専門書で調べて初めて知った。
 海がペースを緩めたジョグで流しに入る。
 五千メートルを全力で走って急に止めると身体のどこかしらに故障が出てしまうのだ。
 そして、流しのジョグは、練習が間もなく終わるという合図でもある。
 その隙に、紬季はちょっとだけ走る。
 最初は半歩前に足を出すような速度で、頭も下がってしまって、海に撮ってもらった動画を見たら、「ふざけてんのか、僕?」というような走りだったが、腕の振りを覚え、足の運びを教わるうちに、半歩は、一歩になり、二歩ぐらいまで歩幅が伸びてきた。
 それでも、流している海にすぐに追い越される。
 そのとき、頑張れというように背中を軽く叩かれる。
 走るって言ってみてよかったなと思える瞬間だ。
 それは、触れられた嬉しさではなく、努力を認められた嬉しさだ。
 腹筋だって、実は毎日チャレンジしている。
 体力も筋力も少しずつついてきたので、念願の一回までもう間もなく。
 流しのジョクを終えた海がストレッチに入る。
 それが、今夜の練習が終わりの合図だ。
 なので、紬季は走るのを止め、海を残して河川敷から自宅へと向かう。
 紬季の足でだいたい三十分ほどかかるのだ。
 シャワーを浴びて、海藻や茹でた豚肉を混ぜ込んだ紬季が日中に予め作り置きしておいたサラダ丼
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