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第二走

25:悲劇性もドラマチックでもない病気だよ

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「リスト四、五を追加でしてみようと思って」
 やりたいことリストの四は、無理と言われたことをやってみる。五は人を頼るだ。
「先月、僕、馬鹿なことをして、散々だったじゃない?命を失いかねないぐらいの勢いで。そして、それまでは、まあ、言っちゃえば十代の頃なんて、ずっと停滞しっぱなしでさ。でも、二十代になって海くんのお陰でリスタート」
『俺?何した?側にいたぐらいだぞ?』
「そんなことないよ。海くんの存在は僕にとってとても大きい。今夜だって海くんが外で走っているから僕、出てこられた。それに、以前、僕のこと偉いって褒めてくれたじゃないか。出会い系で失敗して手痛い目に合っても行動したことが偉いって。すごく嬉しかったんだけれど、それでもね、なかなかね、その言葉を受け入れられなかったんだけど、今日犯人が捕まって牢獄から出されたような開放感を味わって、リスタートとしてみようと思えたんだ」
 海は黙って耳を傾けていた。
 出会った当初は身体も心も弱そうな青年だったから、思わず手を差し伸べた。 
 世話をする優越感。
 頼られる優越感。
 もちろん真摯な気持ちだってあったけれど、上から目線の感情があったことは否めない。
 だが、紬季は、海が何気なく投げかけた言葉を疑問に思いながら受け止めて、それを今夜昇華させて。まるで卵の殻を破って外界に出てくる鳥の雛のようだ。
「海くんのお陰で、一回立ち止まっても、そこからのスタートもありなんじゃないかって思えた。陸上のルールだとスタートラインは決められてるし、止まったら失格だけど、人生はそうじゃないよね?あれ、僕、名監督みたいにいいことを言っているよね」
 紬季に言われて、海はすとんと腑に落ちた。
 赤星が、「走ってばかりじゃ見えてこなかったことに気づく」というメッセージをくれた真の意味を。
 立ち止まる、悩む。走ることとは全然違う種類のことをしてみる。
 それで、犠牲だって出るかもしれないが、精神的な成長を感じられるのは確かだ。
 そして、自分は紬季と出会って影響を与え、そして、たぶんそれ以上に与えられている。
 そんな相手、これまでの人生にはいなかった。
『なあ、紬季』
 海はメッセージアプリで話しかけた。
『病気の症状って悪化するのか?例えば……』
「早く死ぬのかって?」
 明日は日曜日だっけみたいな返し方をされて、悟りきったような表情までするものだから、海の心臓は痛くなる。
「うん」と頷かれそうな雰囲気に、海はバッと手を突き出し、それを阻む。
「え?どうしちゃったの?」
 問われて、ただ首を振り続ける。
「あ、さっきの答えね。この病気の人、薬をきちんと飲み続ければ、平均寿命まで生きるらしいよ。きちんとしたデータが出ている」
 あっさりそう言われて、海は身体の力が抜け、グラウンドに寝転がった。
「もしかして、ものすごく気にしてくれていた?」
 自分の勘違いが恥ずかしくて無反応を貫くと、先に立ち上がった紬季がゆっくり手を差し伸べてくれた。
 その手を取る。
「悲劇性もドラマチックでもない病気だよ」
『それは、第三者の受け売りだろ?病気の当事者はそんなこと言わない。俺は、吃音を抱えてるからよくわかる』
「へへ。そう。ネットに書いてあった。僕も、海くんの症状知りたくて、調べたよ。どもるっていうのは差別用語だって初めて知った。どもる人とかそういう表現ね。どもっちゃったとか自分で自分を表現する場合は、違うみたいだけど。線引きが難しいね。これからは、つっかえるって言い方にするよ」
 海の心に、いつもみたいなムカつきは湧いてこない。
 逆に、今までにないぐらい嬉しい。
 こちらが、促さなくても相手が理解しようとしてくれるってこんなに感動的なことなんだと初めて思った。
 そして、今まで、斜め上であれ理解を示そうとしてくれた人らに、自分が取ってきたひどい態度の数々をちょっとだけ申し訳なく思った。
 紬季がニコッと笑う。
 本当に包みこむようないい笑顔で笑うのだ。
「吃音にいくつかの種類があることや、喋りづらい人でもラップや母国語以外だとスラスラ喋れるってことも知ったよ。もうびっくりだった。自分の病気には医者みたいに詳しくなれるけれど、他の人の症状って調べるって姿勢を取らない限り、全然分らないものだねえ」
「---サン、キュ」
 ほとんど間を置かず英語で礼を言うと、紬季が驚いた。
 自分の病気には詳しいくせに、他人の苦しみは分らない。
 その言葉が身に染みたのだ。
『日本語と英語だと脳を使う場所が違うから、吃音症状出なくなるって人がいるのは本当らしい。母国語じゃないから、上手く喋れなくて当然って身体の力みが取れるから吃音者でも喋れるっていう学者も入れば、アルファベットを意味のある言葉として認識していなくて、模様の羅列みたいに思っているから喋れるじゃないかっていう説もある』
「英語かあ」
『でも、俺、日本人だし。日本でしか暮らす予定ないし。英語は中高、からっきしだったし。俺は日本人と日本語を話したいんだよ』
「分かるよ、その気持ち。僕も普通の人と同じペースで動きたい。それは無理だから、あ、また言っちゃった。訂正します。それは、難しいけれど、挑戦したっていいよね。だから、リスト四、五を追加で」
『具体的に何?』
 すると、紬季がいたずらっぽい顔をした。
「走ってみようなあって、僕も」
 海は一瞬、あっけに取られた。
 今夜、一人で外に出られただけでも一歩前進どころが十歩進んだぐらいのことをやり遂げたのに、走るって?
 この数十日、紬季の側にいて、それがどれぐらい大変なことなのか海にはよく分かる。
『ぐれい、と』
「すんごい、日本語っぽい発音」
と照れ隠しなのか、紬季がゲラゲラと腹を抱えて大笑いする。
『赤星先生は一歩前に足を出せば走ったことになるって言ってるんでしょう?だから、海くん、僕に走り方を教えてください。手が空いたときでいいから。休憩時間とかさ』
 急に紬季が遠慮し始めたので、海は「なう」とグラウンドの先を指差す。
 吃音の症状が出て以来、こうやって誰かと声を出して喋るのが楽しいと思える日がくるなんて、奇跡みたいだと思った。
 その瞬間、紬季のことが初めて大切に思えた。
 今までは仲間や同志であり続けた彼が、はっきりと海の中で立ち位置を変えた。
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