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第二走

23:あのね、犯人、捕まったって

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『野郎の部屋の写真なんていらないか。なら、ネクスト山の神っていわれている先輩の走っている動画とか?貴重よ?』
 少し時間が開いた。
 海は、どんな返答があるんだろうと楽しみ半分、不安半分で紬季の返事を待つ。
『ずるいなあ。見たいに決まっているじゃないか。海くんの携帯に入っている写真。そっちに行くから少し待てって』
とご機嫌が直ったような返事があって、ほっとした。
 まだ赤い顔して寝室がから出てきた紬季がソファーの端に座ったので、海はその場を動かず遠い位置から携帯画面を見せると、じりじりと紬季が距離を詰めてきたのが嬉しかった。

 八月も後半戦。三周目になった。ちょうどお盆シーズンで、田舎への帰省も多く街は閑散としている。
 海は、河川敷でランニングをしていた。
 ヘブンの夜番が無い日の夜の定番トレーニングだ。
 夜でもそこは、周囲のタワーマンションの灯りのお陰で明るい。
 最初のうちは、陸上部の連中が側にいないのがせいせいして、自分のペースで出来ていいと思ったのだが、このところ物足りない。
 絶不調だったタイムもコンディションも戻ってきたが、物足りない。
 そげが何なのかはわかっている。
 競い合う相手だ。
 それに、飢えている感が止まない。
 時折、西城大学のグラウンドに乱入して、短距離でも中距離でも、とにかく何でもいいから走って順位を付けてもらいたい気分になる。
 走ることは、昔から海にとって大切なことだった。
 そして、同じ目標を持った仲間のいる場所に所属することも、自分にとっては大切なことだったんだと気づく。
 試合が近くなれば、皆のボルテージが少しずつ上っていく。
 試合前日なんて、気合が漲って立ち上るオーラみたいなものが見えることもあるぐらいだ。
 そんな静かな興奮が、自分を走らせることを後押ししていたんだと今気づく。
 陸上部の連中なんて、どうでもいいと思っていたのに。
『やっぱり、走ってだけいたら、こんなこと気づけないよなあ』
 流しながなら走っていた海は今夜はそれ以上、考えるのを止めた。
 紬季が待っているから一刻も早くグラウンドに向かいたいのだが、気持ちがまだ整わない。
 だって、自分は吃音で苦労していて、部員の連中は誰一人喋ることには困っていない。
 箱根駅伝などでいい成績を収めれば、就職の口利きというわかりやすいご褒美が待っている。
 だが、海が区間新記録を出したって、ご褒美なんてない可能性がある。
 電話に出られない、口頭での打ち合わせができない。
 そんな新入社員は必要とされていないからだ。
 あるとしたら、障がい者雇用。
 でも、海はそれは嫌なのだ。
 確かに日常生活に支障があるほどの吃音を抱えているが、その他のことは問題なく出来る。
 それが、海に障がい者認定を受けることを強く躊躇させる。
 そして、最後にはこう考えてしまう。
 紬季みたいに目に見える障がいとは自分は違うと。
 たぶん、差別意識を持っているのだ。
 つまり、ラーヒズヤが言う優越の形を変えたもの。
 そういう自分がたまらなく嫌だ。
 道端で休憩を取っていると、急に紬季から電話がかかってきた。
 普段のやり取りは、メッセージアプリを使っている。
 電話なんて紬季は今まで一度もしてきたことが無い。
 また、しんどくなったのだろうか。
 このところ、そんな症状は殆ど無かったのに。
 海を「ランニング、頑張って」と部屋から送り出してくれた数十分前はなんともなかったはずだ。
 それとも、別の事件?
 電話に出る。すると、
『海くん。ごめん。どうしても伝えたいことがあって電話しちゃった。そのまま聞いて』
 紬季の声は今までにないぐらい、弾んでいる。
『あのね、犯人、捕まったって』
「------っ!」
 予想外の発言に、海の反応するテンポも普段より早くなる。
 喋ろう、喋ろうと意識するとなかなか言葉が出てこないのだが、驚いた時などは、普通に悲鳴が出る。意識する、しないが吃音には大きく関わってくるようなのだが、まだそこら辺は医学的にきちんと解明されていない。
 子供の頃にかかりやすく、大人になうちに症状が消失することがほとんどだが、軽度、重度にかかわらず、百人に一人の割合で吃音症状はある大人がいると言われている。
 苦手な言葉を避けて話すことで吃音であることを目立たなくすることもできるので、カミングアウトしないかぎり分らない場合も多い。
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