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第二走

20:いえいえ、お役に立てて何よりです

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「仰向けにすると、吐いたものが逆流して息が詰まる。だから、そのままで」
と海とマリアに指示したあと、床にひざまずきゆっくりに顔を近づけた。
「お客さん!お客さん!駄目だ。意識がない。急性薬物中毒かも。前もこういう人がいたから。海、救急車。マリア、店長に電話」
とラーヒズヤは戸惑う新人清掃員に指示を出す。
 救急車を呼べと言われて、海は苦しくなった。
 命の危機だ。
 持っている携帯で早く呼んであげなきゃ。
 一一九番を押し、状況と住所を告げる。
 なのに、それができない。
 きっと、いたずら電話だと思われる。
「ねえ、海。早く電話っ!!救急車だって……あ、ごめん」
 そこでラーヒズヤは気づいたらしい。 
 こういう状況になればなるほど、海の声が出なくなることを。
 ラーヒズヤが自分の携帯で電話をかけ始める。
「もしもし。救急車を一台お願いします。ラブホテルのヘブンです。お客さんが薬物中毒みたいで」
 彼が対応している最中、海に出来たことは、別の部屋から持ってきたバスタオルを紬季の身体にかけたことだけだった。
「海くん?」
 呼びかけられて、我に返る。
「平気。大丈夫だから、押さえて!筋トレは変なことに範疇には入らないよね?僕、真剣」
 絶対に困難を伴うであろう挑戦も、トラウマの克服も、時間がかかったって遠回りした時期があったって、やるべき時がきたらやる。
 そんな姿を紬季に見せつけられた気がした。
 確かにヘラオの言う通り、走ってばかりいたら、絶対に気づけなかった。
 間もなく休部から一ヶ月半。
 未来は全然明るくないが、足元には仄かな灯りが点灯していたことに気づく。
 その灯りは、紬季自身だ。
 たぶん、紬季のしたいことリストはトラウマ克服リストと表裏一体なのだと思う。
 だったら、自分も前に進もうじゃないかと海は初めて前向きな気分になれた。
「う、う、うーーーーっ」
と唸り声を上げてなんとか紬季の上半身が数ミリ持ち上がる。 
 結局、その日はそれが最高記録だったけれど、前進を始めた紬季のしなやかな心には、どんな強いアスリートだって敵うまいと海は思った。

 うまいスケジュールを組めたのが幸いしたのか、紬季の大冒険は、決行日十四時には終了していた。
 事情聴取を受けた警察では、事務的な質問ばかりで淡々と終わったようだが、ヘブンの店長はそうはいかなった。
 部屋を汚してしまったことを紬季は気にしていたようだが、それは
「ああいうことがあった場合の保険があんだ」
と聞かされほっとしたようだ。
 だが、ここからは、店長の説教になった。
 ラブホ業界の現状から、昔の武勇伝みたいな話まで差し込まれ、少し長かった。
 要約すれば、
「溜まる性欲をなんとかしたいのは同じ男だから分かるが、せっかく命が助かったのだから、今後は迂闊なことはしなさんな」
ということのようだ。 
「ま、風俗業界長いけれど、部屋を汚した客からこんな豪華な菓子折りもらうの始めてだ」
と驚かれもした。
 迷惑かけたら菓子折りというのは、父親の教えらしい。
 坂道をダダダラ登って病院へ先に行き、払いすぎた医療費を取り戻す手続きをし、姉と義兄の家へ。
 肉やらピザやらが並び誕生日パーティーみたいな食卓になっていて、海は少し恥ずかしかった。
 義兄に「実はあの時、ショックなことが続いていて頭が変だったのだ」と失礼な態度をとったことを謝ると、義兄は
「それだったら、しょうがねえ。大変だったな」
とヤンキーの鏡みたいな情を示し、紬季はこれで心の重しとなっていたものが全て降りたのか、帰路に付く顔は晴れ晴れとしていた。
 閑散としている駅ビルのレストランで、炭酸水で乾杯する。
「この度は、ありがとうございました」
と運ばれてきたケーキを目の前に、紬季が深々と礼をする。
 同じように頭を下げながら、
『いえいえ、お役に立てて何よりです』
とメッセージを送る。
 なかなか、この丁寧ごっこは楽しい。
「全部、終わりかと思ったら病院からもう少ししたら性病検査に来いって。そこは肩透かしくらったな。期間が経過しないと調べられない性病もあるんだね。そっちは、駅前の病院で出来るからいいけど」
『なんともないといいな』
「うん」
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