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第一走
11:もう、帰っちゃう……よね?
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「もう、起きる?だったら、コーヒー入れる」
せっかく繋いで貰った手を離すのは名残惜しかったが、海は紬季の家にやってきた初めての客人だ。
もてなしてみたいという気持ちもあった。
紬季は和室からリビング奥にあるキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始める。
オーストラリアで焙煎された豆は、マグカップを温め、お湯も適温にし、丁寧に淹れないと香りが立たない。味もその日の温度や湿度によって違ってくる。扱いにくいが、成功すると本当にいい香りがするので、満足に淹れられた日は充実感を覚える。
自分がゆっくりとしか動けないことを紬季はいつも不満に思っているが、このスローさが丁寧に淹れなければ機嫌を悪くするコーヒーには相性がいいようだ。
「適当にくつろいでいて」
と言うと、起き上がった海はタオルケットをきちんと畳んだ後、「ふああああっ」とあくびをしながらソファーの方向に移動する。
気の抜けた感じを見ていたら、付き合いの長い友達がやってきて休みの日を過ごしている気分になった。
小学校、中学校とどこに行っても空気扱いされ、自分でもそう思っていた。
だが、ソファーを通り越して、窓辺まで行きカーテンを少し開けて下界を楽しそうに眺めている海を見たら、ああ、自分は空気じゃなく誰かと友達の真似事が出来る普通の人間だったんだと思えた。
『すげーところに住んでんだな。駅前って、まさか駅直結のタワマンとは』
窓辺でカーテンの隙間から下を覗き込んで電車が行き来するのを見ていた海が、携帯画面を見せながら、海がキッチンカウンターまでやってくる。
海が言ったように、ここの建物は駅に直結している。
このマンションの数百メートル真下を電車が通り抜けていくという構造だ。
電車に乗れないのに、駅直結のマンション住まいって皮肉だよなあ、紬季はたまに思う。
「お父さんの実家が昔、ここら辺にあって用地買収に引っかかったって言っていた。土地を明け渡す代わりにマンションの一室を貰えたって」
『離れて暮らしているって聞いたけど、単身赴任?』
「一年ぐらい前から中国の奥地にいる。移動が大変だから、会えるのは年に一回ぐらい。このマンションが出来上がったのが一年半前だからほとんど住んでない」
『そっか。部屋がでかい分、それは寂しいな』
シンク横の作業スペースでコーヒーを入れている紬季に海がキッチンカウンターから身を乗り出してきて、鼻から香りを吸い込んでその後、親指と人差し指で丸を作った。
気に入ってくれたらしい。
出来上がったコーヒーは海がトレーに乗せたマグカップをリビングテーブルに持っていってくれた。
ソファーに座ると、海がリビングテーブルにあった雑誌を手に取った。
その表紙を見せてくる。
陸上マガジンという雑誌だ。
インターハイやインカレ、マラソン大会など、陸上競技に関する情報が載っている
「うん。陸マガ。定期購読しているんだ。おかしいよね。走れないのに」
すると、楽しそうにペラペラ雑誌をめくっていた海が真顔になった。
『そんなことない。足踏みさえできれば、あとは一歩前に足を踏み出すだけで走ったことになるって。走るってその繰り返しだってヘラオは言っている』
「それ、誰??」
『陸上部の監督』
あれ?たしか、監督は赤星先生って名前じゃなかったっけなと紬季は思った。
西城大学陸上部にいつの間に外国人指導者が??
うーん。憧れのランナーの監督名まで知っているなんてストーカーみたいだ。
聞くのは止めておこう。
それから、少し箱根駅伝の話をした。色んな大学のランナーの話も。
もり上がるとついつい会話のペースが早くなる。
海は携帯に打ち込むのが大変そうだ。それが少し申し訳ない。
「あ、もう夕暮れ」
午前中に家に帰ってきて、そこからシャワーと昼寝。コーヒーを飲んでおしゃべりしていたら、あっという間に十九時を越えていた。
「もう、帰っちゃう……よね?夜番のバイト、あるんだよね?」
『今日は休み。けど、帰る』
「だよね」
紬季は肩を落とす。
すると、海がメモ欄をスクロールした。
『姉ちゃんちに一旦帰って、ノートパソコン持って、戻ってきていいか?ガチで会話するならそっちのほうが早い。泊まっていいなら、着替えとかも』
「いいの?」
『俺の方こそ本当にいい?なんか、図々しくね?だから、ちょっと紬季の反応を試しちゃったところがあるんだけど。あと、せっかく依頼を受けたのに、途中で寝ちゃったしさ、俺』
「海くん、あの、変なことを言っていい?あ、変なことって言っても、海くんを好きとかそんなんじゃなくて。えっとだからって嫌いって意味でもなく。変な意味で好きじゃないってことで。で、この話は置いておいて。うわ、話が全然、まとまんないや」
焦り混乱する紬季を見て、海はうっすら笑っている。
「あのね。海くん、お姉さんの家に居候中って言ってたよね?肩身が狭いなら、ヘブンの夜番無い日の夜とか、この部屋、使ってくれていいよ。あと、夜番明けの日とかふらっと来てくれても。学生の
せっかく繋いで貰った手を離すのは名残惜しかったが、海は紬季の家にやってきた初めての客人だ。
もてなしてみたいという気持ちもあった。
紬季は和室からリビング奥にあるキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始める。
オーストラリアで焙煎された豆は、マグカップを温め、お湯も適温にし、丁寧に淹れないと香りが立たない。味もその日の温度や湿度によって違ってくる。扱いにくいが、成功すると本当にいい香りがするので、満足に淹れられた日は充実感を覚える。
自分がゆっくりとしか動けないことを紬季はいつも不満に思っているが、このスローさが丁寧に淹れなければ機嫌を悪くするコーヒーには相性がいいようだ。
「適当にくつろいでいて」
と言うと、起き上がった海はタオルケットをきちんと畳んだ後、「ふああああっ」とあくびをしながらソファーの方向に移動する。
気の抜けた感じを見ていたら、付き合いの長い友達がやってきて休みの日を過ごしている気分になった。
小学校、中学校とどこに行っても空気扱いされ、自分でもそう思っていた。
だが、ソファーを通り越して、窓辺まで行きカーテンを少し開けて下界を楽しそうに眺めている海を見たら、ああ、自分は空気じゃなく誰かと友達の真似事が出来る普通の人間だったんだと思えた。
『すげーところに住んでんだな。駅前って、まさか駅直結のタワマンとは』
窓辺でカーテンの隙間から下を覗き込んで電車が行き来するのを見ていた海が、携帯画面を見せながら、海がキッチンカウンターまでやってくる。
海が言ったように、ここの建物は駅に直結している。
このマンションの数百メートル真下を電車が通り抜けていくという構造だ。
電車に乗れないのに、駅直結のマンション住まいって皮肉だよなあ、紬季はたまに思う。
「お父さんの実家が昔、ここら辺にあって用地買収に引っかかったって言っていた。土地を明け渡す代わりにマンションの一室を貰えたって」
『離れて暮らしているって聞いたけど、単身赴任?』
「一年ぐらい前から中国の奥地にいる。移動が大変だから、会えるのは年に一回ぐらい。このマンションが出来上がったのが一年半前だからほとんど住んでない」
『そっか。部屋がでかい分、それは寂しいな』
シンク横の作業スペースでコーヒーを入れている紬季に海がキッチンカウンターから身を乗り出してきて、鼻から香りを吸い込んでその後、親指と人差し指で丸を作った。
気に入ってくれたらしい。
出来上がったコーヒーは海がトレーに乗せたマグカップをリビングテーブルに持っていってくれた。
ソファーに座ると、海がリビングテーブルにあった雑誌を手に取った。
その表紙を見せてくる。
陸上マガジンという雑誌だ。
インターハイやインカレ、マラソン大会など、陸上競技に関する情報が載っている
「うん。陸マガ。定期購読しているんだ。おかしいよね。走れないのに」
すると、楽しそうにペラペラ雑誌をめくっていた海が真顔になった。
『そんなことない。足踏みさえできれば、あとは一歩前に足を踏み出すだけで走ったことになるって。走るってその繰り返しだってヘラオは言っている』
「それ、誰??」
『陸上部の監督』
あれ?たしか、監督は赤星先生って名前じゃなかったっけなと紬季は思った。
西城大学陸上部にいつの間に外国人指導者が??
うーん。憧れのランナーの監督名まで知っているなんてストーカーみたいだ。
聞くのは止めておこう。
それから、少し箱根駅伝の話をした。色んな大学のランナーの話も。
もり上がるとついつい会話のペースが早くなる。
海は携帯に打ち込むのが大変そうだ。それが少し申し訳ない。
「あ、もう夕暮れ」
午前中に家に帰ってきて、そこからシャワーと昼寝。コーヒーを飲んでおしゃべりしていたら、あっという間に十九時を越えていた。
「もう、帰っちゃう……よね?夜番のバイト、あるんだよね?」
『今日は休み。けど、帰る』
「だよね」
紬季は肩を落とす。
すると、海がメモ欄をスクロールした。
『姉ちゃんちに一旦帰って、ノートパソコン持って、戻ってきていいか?ガチで会話するならそっちのほうが早い。泊まっていいなら、着替えとかも』
「いいの?」
『俺の方こそ本当にいい?なんか、図々しくね?だから、ちょっと紬季の反応を試しちゃったところがあるんだけど。あと、せっかく依頼を受けたのに、途中で寝ちゃったしさ、俺』
「海くん、あの、変なことを言っていい?あ、変なことって言っても、海くんを好きとかそんなんじゃなくて。えっとだからって嫌いって意味でもなく。変な意味で好きじゃないってことで。で、この話は置いておいて。うわ、話が全然、まとまんないや」
焦り混乱する紬季を見て、海はうっすら笑っている。
「あのね。海くん、お姉さんの家に居候中って言ってたよね?肩身が狭いなら、ヘブンの夜番無い日の夜とか、この部屋、使ってくれていいよ。あと、夜番明けの日とかふらっと来てくれても。学生の
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