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第五章
86:俺が死んだと思っているだろうなあ
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阿刺伯国でのラクダ使いの生活が古い地獄だというなら、英国商船の中での生活は新らしい地獄だった。
ジョシュアが半年ほど病院で療養しろと言ったのは、滋養剤の離脱症状がやってくるという意味だったのだ。疲れたら飲むという生活をしてきたミオの身体は、滋養剤がすっかり癖になっていた。
船が航路を北に取れば取る程楽になる身体は、余った隙間を興奮で埋めたがる。寝台の上でのたうち回って暴れまわり、あまりの凶暴さに船医が縛ってしまえと水夫に命令する日もあった。
「あああ……っ。ジョシュア様」
普段は、灼熱の太陽の下で消耗していた体力も今は余ってしまい、おかしな欲に繋がってしまう。縛られた手足の痛みより、張りつめる雄が痛くて泣き叫んで悶えても、ジョシュアはミオの船室に顔を見せてはくれなかった。
愛することに力尽きたとジョシュアは言ったのだから、それはすなわちミオをもう好きではないということだろう。
「滋養剤……。ジョシュア様。滋養剤……。ジョシュア様。ジョシュア様、ジョシュア様、ジョシュア様!!」
それでも、ミオは繰り返し叫んだ。強い衝動に、腕や指を噛んでなんとか乗り越える。まるで獣のようだった。手のひらの傷は薄くなりかけていたが、今度は別の部分に傷が増えていった。
夜が辛かった。夢の中にジョシュアが現れ、何度も何度もミオを抱いて精を注ぎ込み愛を囁くのだ。目覚めればまた離脱症状の苦しみが待っていて、何回も意識を失ってその度に船医が治療してくれた。
不思議なことに、意識を回復するたびにミオの船室は、マデリーンの庭やタンガの村で嗅いだ濃密な花の香りに包まれていた。
のたうち回る生活が一ヶ月を越え、滋養剤の離脱症状の苦しさの山場を越えた。まだまだ影響は身体に残っていて、油断はできなかったが、初めて船医が船のデッキに出てもいいという許可を出してくれたのは、大きな前進だった。
船の舳先の傍にあるベンチまで連れて行ってもらって、大海原を眺める。半刻ぐらいで迎えに来ると言って、船医は別の病人の診察に出かけた。
太陽の日差しが柔らかだった。こんなに優しいものだったとはと、ミオは目を細める。英国商船に乗って洋上にいるというのが未だに信じられない。自分は奴隷に吹き溜まりで死ぬはずだったのだから。
「アザン様は、俺が死んだと思っているだろうなあ」
一緒に旅をした北斗星号も十字星号もいない。何より、ジョシュアが傍に居ない。
手元に戻ってきた羅針盤の装飾品を、ミオは虚しく握りしめる。
渇望するほど求めて、怖くなって、最後に手放してしまった。結局、幸福と不幸が絡み合う現実を、自分は心が弱くて直視できなかったのだ。
ミオがベンチの上で膝を抱えていると背後から「あまり長時間海風に吹かれるのはよくないよ」という声がした。振り向くと、会いたくてたまらなかった人が背後に立っていた。
「少し話をしたいんだけれど、いいかい?」と言って、彼は拳三つ分ぐらいの距離を開けてミオの隣りに座った。
「どう、具合は?」
「お、お蔭様で。今日、デッキに出てもいいと初めてお医者様から許可をいただきました」
「よかったね」
ミオは緊張してどもるが、ジョシュアは言葉少ない。暫くの沈黙ののち、すっと小脇に抱えていた本を差し出してきた。革張りの本には見覚えがある。ミオがマデリーンから貰ったものだ。
「僕の荷物に紛れていた」
「そ、そうでしたか」
ミオは緊張しすぎて訳が分からなくなり、渡された本のページをなんとなくめくった。黒いドレスを着た妖艶な女性が男性に跨っている挿絵が表れ、「わあああっ」と悲鳴を上げる。
「君にぴったりの本だと言っていたけれど。何を考えているんだろうねえ、マデリーンは」と苦笑したジョシュアだったが、やがてミオの噛み痕だらけの手に目を止めた。
いつものジョシュアなら、「どうしたの、これ?」と驚いて聞くはずだ。
「早く良くなるといいね」
ジョシュアは驚きもせず、感情の籠らない労わりの言葉をかけただけだった。
ジョシュアが半年ほど病院で療養しろと言ったのは、滋養剤の離脱症状がやってくるという意味だったのだ。疲れたら飲むという生活をしてきたミオの身体は、滋養剤がすっかり癖になっていた。
船が航路を北に取れば取る程楽になる身体は、余った隙間を興奮で埋めたがる。寝台の上でのたうち回って暴れまわり、あまりの凶暴さに船医が縛ってしまえと水夫に命令する日もあった。
「あああ……っ。ジョシュア様」
普段は、灼熱の太陽の下で消耗していた体力も今は余ってしまい、おかしな欲に繋がってしまう。縛られた手足の痛みより、張りつめる雄が痛くて泣き叫んで悶えても、ジョシュアはミオの船室に顔を見せてはくれなかった。
愛することに力尽きたとジョシュアは言ったのだから、それはすなわちミオをもう好きではないということだろう。
「滋養剤……。ジョシュア様。滋養剤……。ジョシュア様。ジョシュア様、ジョシュア様、ジョシュア様!!」
それでも、ミオは繰り返し叫んだ。強い衝動に、腕や指を噛んでなんとか乗り越える。まるで獣のようだった。手のひらの傷は薄くなりかけていたが、今度は別の部分に傷が増えていった。
夜が辛かった。夢の中にジョシュアが現れ、何度も何度もミオを抱いて精を注ぎ込み愛を囁くのだ。目覚めればまた離脱症状の苦しみが待っていて、何回も意識を失ってその度に船医が治療してくれた。
不思議なことに、意識を回復するたびにミオの船室は、マデリーンの庭やタンガの村で嗅いだ濃密な花の香りに包まれていた。
のたうち回る生活が一ヶ月を越え、滋養剤の離脱症状の苦しさの山場を越えた。まだまだ影響は身体に残っていて、油断はできなかったが、初めて船医が船のデッキに出てもいいという許可を出してくれたのは、大きな前進だった。
船の舳先の傍にあるベンチまで連れて行ってもらって、大海原を眺める。半刻ぐらいで迎えに来ると言って、船医は別の病人の診察に出かけた。
太陽の日差しが柔らかだった。こんなに優しいものだったとはと、ミオは目を細める。英国商船に乗って洋上にいるというのが未だに信じられない。自分は奴隷に吹き溜まりで死ぬはずだったのだから。
「アザン様は、俺が死んだと思っているだろうなあ」
一緒に旅をした北斗星号も十字星号もいない。何より、ジョシュアが傍に居ない。
手元に戻ってきた羅針盤の装飾品を、ミオは虚しく握りしめる。
渇望するほど求めて、怖くなって、最後に手放してしまった。結局、幸福と不幸が絡み合う現実を、自分は心が弱くて直視できなかったのだ。
ミオがベンチの上で膝を抱えていると背後から「あまり長時間海風に吹かれるのはよくないよ」という声がした。振り向くと、会いたくてたまらなかった人が背後に立っていた。
「少し話をしたいんだけれど、いいかい?」と言って、彼は拳三つ分ぐらいの距離を開けてミオの隣りに座った。
「どう、具合は?」
「お、お蔭様で。今日、デッキに出てもいいと初めてお医者様から許可をいただきました」
「よかったね」
ミオは緊張してどもるが、ジョシュアは言葉少ない。暫くの沈黙ののち、すっと小脇に抱えていた本を差し出してきた。革張りの本には見覚えがある。ミオがマデリーンから貰ったものだ。
「僕の荷物に紛れていた」
「そ、そうでしたか」
ミオは緊張しすぎて訳が分からなくなり、渡された本のページをなんとなくめくった。黒いドレスを着た妖艶な女性が男性に跨っている挿絵が表れ、「わあああっ」と悲鳴を上げる。
「君にぴったりの本だと言っていたけれど。何を考えているんだろうねえ、マデリーンは」と苦笑したジョシュアだったが、やがてミオの噛み痕だらけの手に目を止めた。
いつものジョシュアなら、「どうしたの、これ?」と驚いて聞くはずだ。
「早く良くなるといいね」
ジョシュアは驚きもせず、感情の籠らない労わりの言葉をかけただけだった。
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