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第五章
85:誰かを愛することに力尽きた
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手に硬いものが握らされた。ひんやりとしている。このでこぼこした複雑な形は何だろうと、目を瞑ったままそれを撫でた。指一本動かすのも大変だった。
蒸し暑い地面に横たわる身体を抱きあげられた感覚があった。力強い腕には覚えがある。薄く目を開けるが、太陽の光が邪魔をして相手の顔は見えなかった。
意識が途切れ、再び目を開けたとき、知らない部屋にいた。
長く眠ったような気がする。
目覚めたきっかけは、微かな振動によるものだった。部屋全体がなぜか小刻みに揺れていたのだ。
深く呼吸をすると、大好きだった人が漂わせていた花の香りがする。
「ここ……もしかして天国?」
そうか、自分は死んだのか。
一瞬でも羅針盤の装飾品を手に入れたから、天国に来れたのだ。
起き上がろうとしたが、身体がフワフワして力が入らない。寝台の背もたれに、背中をもたせ掛けるだけで精いっぱいだ。
辺りを見回す。
部屋は、奴隷部屋のようにボロではない。宿屋みたいに質素でもなく、王宮のように豪華でもない。品のよい調度品に囲まれ、清潔感のありそこそこ広い。
身体には、阿刺伯国では見ることのない分厚いブランケットをかけられていた。着せられている夜着も厚めのものだった。
珍しくて生地やボタンを確かめていると、首にジョシュアにあげたはずの羅針盤の装飾品が下げられているのに気づいた。
「……どうして、これが俺の首に」
ガチャッと音がして、塩辛い風がふうっと入り込んでくる。
ミオは、顔を上げる。
真正面にある扉が開いていた。戸口に、水差しを持ちシャツに黒いベスト、そして黒いパンツをはいた男が立っていた。
「ジョシュア様の姿をした天使だなんて。天国って、なんていいところなんだろう」
と呟くと、相手はガラスの水差しを投げ出して、駆け寄ってきた。
「目覚めたんだね。よかったっ!!」
ミオの寝台に飛び込んできたジョシュアは、こわごわミオの頬を両手で挟んだ。
「君は、十日も眠り続けていたんだよ。よかった。目覚めて、本当によかった」
ジョシュアは、涙を零す。そして、ミオの胸元で揺れる羅針盤の装飾品に口づけて、はっとしたように身体を離した。。
「すまない。僕たちはもうこういう関係ではなかったね」
そうだ。愛し愛される関係はテーベの街で解消したのだ。しかも、自分から言い出した。
生きているのも現実なら、酷い言葉で別れを告げたのも現実だ。
でも、ミオは上手にそれを受け入れられなくて、陳腐な質問をジョシュアにしてしまう。
「俺は……死んだんですよね?」
ジョシュアは、険しい顔で首を振った。
「君は、生きているよ。僕が助けた」
「だって俺、滋養剤が全然効かなくなって、奴隷の吹き溜まりに運ばれて……」
「羅針盤の装飾品を売っている店を再び通りかかったとき、店主に言われたよ。貰った装飾品を、あの奴隷に返してやれって。どういう意味だいって尋ねたら、死期の近い奴隷は羅針盤の装飾品を手に入れて、次は奴隷に生まれ変わらないように、人生のかじ取りができるようにって願うんだって聞かされた。だから、僕はすぐに旅行社に駆け込んだ。そうしたら君はすでに奴隷の吹き溜まりをいう場所に運ばれ、死を待っていると聞かされて……」
ジョシュアの唇の端が、ふるふると震えはじめる。
「気が気じゃなかった。そこまで具合が悪かったなら、打ち明けて欲しかった」
「……申し訳ありません」
ミオが謝ると、ハッとジョシュアは短いため息をついた。
「しかし、命を助ける引き代えに身体を求められては、君はたまったもんじゃないか」
「そんな……」
「一粒残っていた滋養剤の成分を調べてもらった。あれは、滋養剤でもなんでもない。暑さで参っている身体を一時的に興奮状態にさせ酷使させる最低の薬だ。君の身体は、あの滋養剤で相当傷めつけられていた。だから、一刻も早く過酷な気候の阿刺伯国を離れなければならなかった。僕は君に恨まれるだろうと分かっていたけれど……」
ジョシュアが、寝台を離れ部屋の扉を開ける。見えたのは大海原だった。
「ここは、もしかして英国商船の船室なのですか?どうして?俺たちがサライエに辿りついた日に、英国商船は出向したのでは?」
「僕たちが別れた日、確かにもの凄い嵐になった。あの時、英国商船も他国の船も沖合まで避難したんだ。でも、出向したのは、翌々日だ。この船は幾つかの寄港地に寄って、最終的に英国に到着する。どの国も阿刺伯国より涼しくて過ごしやすい。半年ほど病院で療養してから、家を買うなりして過ごすといい」
ジョシュアが何を言っているのかよくわからなくて、ミオは頭を抱えた。目覚めたら船に乗せられていて、寄港地のどこかで降りろとジョシュアは言っている。
「……俺、奴隷です。奴隷は、家なんか買えません」
「いいや。君はもう奴隷ではない。君の雇い主はどこにもいないのだから。それに、額の奴隷印も阿刺伯国でのみ有効なものだ。欧羅巴に行けば、飾りとしか思われないよ。どの港で降りたいかゆっくり考えて。援助は惜しまない」
「援助……ですか?」
「安心していい。引き代えに、君の身体を寄越せとは言わないから。もう滋養剤を飲んでいない君には無理なんだろう?それに僕も、君とサミイとの恋愛で誰かを愛することに力尽きた」
そう言って、ジョシュアは部屋を出て行ってしまった。
蒸し暑い地面に横たわる身体を抱きあげられた感覚があった。力強い腕には覚えがある。薄く目を開けるが、太陽の光が邪魔をして相手の顔は見えなかった。
意識が途切れ、再び目を開けたとき、知らない部屋にいた。
長く眠ったような気がする。
目覚めたきっかけは、微かな振動によるものだった。部屋全体がなぜか小刻みに揺れていたのだ。
深く呼吸をすると、大好きだった人が漂わせていた花の香りがする。
「ここ……もしかして天国?」
そうか、自分は死んだのか。
一瞬でも羅針盤の装飾品を手に入れたから、天国に来れたのだ。
起き上がろうとしたが、身体がフワフワして力が入らない。寝台の背もたれに、背中をもたせ掛けるだけで精いっぱいだ。
辺りを見回す。
部屋は、奴隷部屋のようにボロではない。宿屋みたいに質素でもなく、王宮のように豪華でもない。品のよい調度品に囲まれ、清潔感のありそこそこ広い。
身体には、阿刺伯国では見ることのない分厚いブランケットをかけられていた。着せられている夜着も厚めのものだった。
珍しくて生地やボタンを確かめていると、首にジョシュアにあげたはずの羅針盤の装飾品が下げられているのに気づいた。
「……どうして、これが俺の首に」
ガチャッと音がして、塩辛い風がふうっと入り込んでくる。
ミオは、顔を上げる。
真正面にある扉が開いていた。戸口に、水差しを持ちシャツに黒いベスト、そして黒いパンツをはいた男が立っていた。
「ジョシュア様の姿をした天使だなんて。天国って、なんていいところなんだろう」
と呟くと、相手はガラスの水差しを投げ出して、駆け寄ってきた。
「目覚めたんだね。よかったっ!!」
ミオの寝台に飛び込んできたジョシュアは、こわごわミオの頬を両手で挟んだ。
「君は、十日も眠り続けていたんだよ。よかった。目覚めて、本当によかった」
ジョシュアは、涙を零す。そして、ミオの胸元で揺れる羅針盤の装飾品に口づけて、はっとしたように身体を離した。。
「すまない。僕たちはもうこういう関係ではなかったね」
そうだ。愛し愛される関係はテーベの街で解消したのだ。しかも、自分から言い出した。
生きているのも現実なら、酷い言葉で別れを告げたのも現実だ。
でも、ミオは上手にそれを受け入れられなくて、陳腐な質問をジョシュアにしてしまう。
「俺は……死んだんですよね?」
ジョシュアは、険しい顔で首を振った。
「君は、生きているよ。僕が助けた」
「だって俺、滋養剤が全然効かなくなって、奴隷の吹き溜まりに運ばれて……」
「羅針盤の装飾品を売っている店を再び通りかかったとき、店主に言われたよ。貰った装飾品を、あの奴隷に返してやれって。どういう意味だいって尋ねたら、死期の近い奴隷は羅針盤の装飾品を手に入れて、次は奴隷に生まれ変わらないように、人生のかじ取りができるようにって願うんだって聞かされた。だから、僕はすぐに旅行社に駆け込んだ。そうしたら君はすでに奴隷の吹き溜まりをいう場所に運ばれ、死を待っていると聞かされて……」
ジョシュアの唇の端が、ふるふると震えはじめる。
「気が気じゃなかった。そこまで具合が悪かったなら、打ち明けて欲しかった」
「……申し訳ありません」
ミオが謝ると、ハッとジョシュアは短いため息をついた。
「しかし、命を助ける引き代えに身体を求められては、君はたまったもんじゃないか」
「そんな……」
「一粒残っていた滋養剤の成分を調べてもらった。あれは、滋養剤でもなんでもない。暑さで参っている身体を一時的に興奮状態にさせ酷使させる最低の薬だ。君の身体は、あの滋養剤で相当傷めつけられていた。だから、一刻も早く過酷な気候の阿刺伯国を離れなければならなかった。僕は君に恨まれるだろうと分かっていたけれど……」
ジョシュアが、寝台を離れ部屋の扉を開ける。見えたのは大海原だった。
「ここは、もしかして英国商船の船室なのですか?どうして?俺たちがサライエに辿りついた日に、英国商船は出向したのでは?」
「僕たちが別れた日、確かにもの凄い嵐になった。あの時、英国商船も他国の船も沖合まで避難したんだ。でも、出向したのは、翌々日だ。この船は幾つかの寄港地に寄って、最終的に英国に到着する。どの国も阿刺伯国より涼しくて過ごしやすい。半年ほど病院で療養してから、家を買うなりして過ごすといい」
ジョシュアが何を言っているのかよくわからなくて、ミオは頭を抱えた。目覚めたら船に乗せられていて、寄港地のどこかで降りろとジョシュアは言っている。
「……俺、奴隷です。奴隷は、家なんか買えません」
「いいや。君はもう奴隷ではない。君の雇い主はどこにもいないのだから。それに、額の奴隷印も阿刺伯国でのみ有効なものだ。欧羅巴に行けば、飾りとしか思われないよ。どの港で降りたいかゆっくり考えて。援助は惜しまない」
「援助……ですか?」
「安心していい。引き代えに、君の身体を寄越せとは言わないから。もう滋養剤を飲んでいない君には無理なんだろう?それに僕も、君とサミイとの恋愛で誰かを愛することに力尽きた」
そう言って、ジョシュアは部屋を出て行ってしまった。
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